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他人とはつまり自分である

なにを言っているのか分からないとは思いますが、他人とはつまり自分なのではないでしょうか。
なぜなら他人のことは分からないのと同じく、自分のことは分からないからです。分からないというレベルに関しては同じなのです。

よくある言い方では「他人こそは自分の鏡」でありますが、これだと他人は自分ではないように見えますね。でも他人からすれば自分を見たときにそれこそ他人様をうつす鏡でもあるわけです。つまりお互い様なのです。機能としては互いに同じです。

なんでこんなことを書きはじめたかというと、「他人はわからない=自分はわからない」は、けっこうテーマとして面白いと思ったからです。なにしろ自分のことなどは考えも体の中もわからないし、顔だって見られないし(鏡にうつる自分はそのものではない)、わからないことだらけです。自分の考えこそが自分のことであると思いますが、考えはその全てを開陳することができません。自分自身に対して考えていることは脳内で独語つまり自分への語りかけとしては存在しますが、これはヴィゴツキーの言うところの内言であって、考えの内容ではありますが自分のすべてではありません。内言はとめどなくつづき、留まるところを知りません。つまり自分とは無限でもあります。体内の健康状態のことは勿論目には見えず、内臓感覚はなんとなく変とかお腹いっぱいとかは分かっても、皮膚表面のような感覚センサーが内部にはないために、知り得ないことだらけです。実際に内蔵でも腸における神経細胞が脳をコントロールしているとも言われることがあり、我々は中身からして謎だらけです。顔がみられないのはもう言わずもがなでありまして、最近見返して面白いなあつくづくと思う『続・終物語』でも出てきましたが、鏡というのはあくまでゲートのようなもので、それ自体はなにも正しく映してなどいないわけです。

つまり我々は自分自身を知り得ない上に他人のことも分からない。他人のことは分かるわけがありませんね、自分よりもなおさら。他人は他人で、それぞれの好みや行動、嗜癖、他人が他人に対してとる態度、予想も立ちません。

だからこそ我々はいいのかもしれません。他人が自分であり自分が他人である。相互性でありまたあるいは再帰性であります。他人に向かってすることを、他人が自分に向かってしてくる。そのとき自分はどうするのか、どう反応するのか、どうであれば好く思い、どうであれば悪しく思うのか。するされるの関係性などはあくまで一時的なもので、どうにでも反転します。

「されたくないことを他人にしない、自分がされたいということを他人にもしてあげよう」それはおかしくないですか。なぜ同じだと思うのですか。他人は自分じゃないんですよ!

それは共通の基盤が人類には存在しない、という立場ですね。なにしろこの文章の最初に申し上げました。わからないのだと。他人もわからないし自分もわからない。何をされたいのか、自分のことをわかっているとでも思っているのですか?他人に何を期待しているんですか。期待などするものではありません。妄想や願望ならまだしも。

したがって最初に戻りますが、わからないという基盤にのみのっかって、他人こそが自分である、自分こそが他人である、同じことを反転させたら同じことですが、自分こそが他人であればこそ、他人に優しく接することができるならば自分で自分にも優しく接したらいいでしょう。胃を労り暴飲暴食をしない、夜は(昼でもいいですが)寝る、転倒を予防し靴の紐をきちんと結ぶ。

それでも人間は死にますがそれは当たり前で人間だから死ぬのであります。もし死なないのであればそれは人間ではないので、他人でもなく自分でもなくなります。そんなことは気にするほどのことではありません。他人は自分でありひとつの人間なのです。そして死にます。胃を労り暴飲暴食をしないようにしても、結果的には死にます。

死ぬまでは生きていますのでありがたく生きていきましょう。

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