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【映画】ボーはおそれている、ボーじゃないけどおそれている

アリアスター監督の新作、「ボーはおそれている」を観た。とりあえず2回観た。

一回目はジャパンプレミアの日本最速上映の試写会で、監督の舞台挨拶付きで。
二回目は一般公開後、重い腰をあげて。

アリアスター監督の作品だから、アリアスター監督を一目観てみたかったから、そのくらいの理由で先行上映に行った。ちなみにチケットは二分くらいで完売したらしい。ミッドサマーが日本で流行りすぎ、愛されすぎたのが効いたのかも。なお私もミッドサマーのことは多分おそらくどうやら多分愛している。そしてミッドサマーをきっかけにアリアスター作品はとりあえず見逃せないとも思うようになってしまった。

そんなこんなで先行で観に行った「ボーはおそれている」。

写真撮影OKタイム。
司会が井下好井の好井さんで驚いた
もらったうちわ(裏は子どもの頃のボー)


監督が舞台挨拶で「とりあえず2回は観て」と言ってたので言われるがまま(後、特典のポストカードが欲しかったという理由もあって迷わずムビチケを買ったため)2回目も観た。
とりあえず一言目に言いたいのは、「ボーはおそれている」は決して好きな映画じゃない。感覚的に、好きとは言えない。
ただ、同じく感覚的に、嫌いとも言えない。

放っておけるかというと放っておけない。多分一番簡単で多いこの映画の感想としては、「意味わからん!」だと思うんだけど、その一言で済ませられるなら私も済ませたかった。一言で済ませられないから2回見ちゃったし、それどころか感情を残しとこうと思ったからnoteまで書いている。


※以下ストーリーネタバレ普通にあります※

※でも、そもそもこの映画におけるネタバレってなに?どういう役割?という気持ちもちょっとあります※








この映画はボーがこの世に生を受けるシーンから始まり、ラストはボーがいなくなるシーンで終わる人生の映画なんだけど、私たちは画面のなかのボーという存在を、その人生を、最初から最後まで見届けることになる。どこまでもボーの主観視点で描かれるので、私たちはボーから見た世界しか見ることができない。
ボーはいろんなことが不安で不安で仕方ない性質。たとえばちょっと目を離した隙に家の鍵を盗まれちゃったボー。精神的に不安定になり、カウンセラーに処方された必ず水と一緒に飲んでねと言われた薬をかっこむも、飲み込んだ後に蛇口から水を出そうとしたら水が出なくて、「薬 水飲まない 副作用」とか検索してめちゃくちゃ不安になってしまい、慌てて近くのお店に駆け込んで会計済ます前に水を飲んじゃう。でもその水を買ってる間に鍵の開いてるボーの家にどんどん知らん人が入っていっちゃうのを見てまたボーはパニック、みたいな具合で、ボーの周りで巻き起こることがあまりにも嫌なことの連続且つ不条理なので、一体、どれが現実でどれがボーの妄想? となる。主演のホアキン・フェニックスの名演、表情も相まって、ボーのおそれに作用されて、観客もおそれる。
ボーに起きていることは、ボーにしか起きていない出来事のはずなんだけど、その色んな不安や出来事に既視感がある。誰しも、人生でこういう感覚持ったことあるよな、私はボーじゃないけどおそれてるよな、と、全然「わからない」はずなのになんかとても狭いところで急に一気に「わかる」瞬間がちょこちょこあって、その感覚が喉を渇かせる。自分は薬を飲んでいないのに水を探してしまう。

ボー、あまり自分から強い意思を持って行動しているわけじゃない、かなり流され体質なんだけども、お前の所為で! お前がやったから! などと責め立てられる。ずっと不憫。
その性質の根本みたいなところに母親の存在がある。幼少期から、ビジネスの手腕がある、とてもできて強い母に女手一つで育てられたボー。父はボーが生まれる前に亡くなった。それも、ボーを授かったその瞬間に。祖父、さらにその父、と代々、セックスの絶頂時に心臓がやられて死んでると言い聞かされてるからセックスすることですらおそれているボー。とにかくこの母がボーの人生を支配している。なんならこの映画も支配されている。だって映画が始まる冒頭の配給会社ロゴ紹介のところに、母親の会社のロゴが出るんだもの(2回目、意識してみたら本当に映画内の至る所に母親の会社のロゴあってゾッとした)。

そんな母親の頭がシャンデリアで潰れて死んじゃったよ、という知らせを受けてボーの帰省という名の旅が始まるのだけれど、それが一筋縄じゃ行かなすぎてさあ大変、というどたばたコメディ珍道中です。コメディって、この作品の制作途中、まだ全然詳細がわからなかったときに監督が答えたインタビューで言ってて、過去にミッドサマーとヘレディタリーとなんならデビュー前の作品群も履修した私は「んなわけねーだろ」と全然信じてなかったけど、観た今ならしっかり頷ける。コメディですこれ。ただ普通の脳みその状態で笑う笑いではない。
試写会のときはアリアスター好きが集まってからからかもしれないけど、上映中数回笑いが起きてました(2回目行ったときは悲しいくらい笑い起きてませんでしたが、私は1回目の余韻があって笑いをちょっと堪えてた)。

後、監督が舞台挨拶で、「この映画はシーンがころころ変わる。だからあなたが好きなシーンだなと思ったらすぐ終わってしまうかもしれない。でも逆に、苦手だなと思ってもすぐ終わるよ」と言ってたんだけど、これは本当にそれはその通りかもしれない。シーンは変わり続ける。嫌なことが起きたらすぐ次の嫌なことがある。このザッピングがちょっと走馬灯見てる感じあるのか、観終わった後の気持ちは、展開だけ捉えて普通に考えると最悪であってしかるべきはずなのに何故かちょっとだけさっぱりとしている。映画が始まってから私はボーと重なり、一回生まれて一回死んで、終わった後は強制的にまた生まれるからかもしれない。

試写会から帰ってきたとき、私がめちゃくちゃ疲れた顔しながらとても饒舌だったと同居している人間に言われたのだけれど、そのさっぱりした気持ちと鬱屈した感情の折り合いが付けづらいのかも。後、単純に悪夢からがばっと覚めた後は、人に悪夢の話を笑いながらすることで「怖かったけど、もう怖くない」と自分に言い聞かせたいとかそういうあれかも。なんかとにかく、一言では終わらせられない。それは映画もそうだし私自身の性質の問題もあるのかもしれないけど。

ミッドサマーでアリアスター作品がとてもポップに流行ったのもあってか(ボーは現状ミッドサマーほどの勢いはない、そりゃそうだと思うし、この映画そんなに絶対流行らないと信じてるし)、公開直後はだいぶSNSでこの映画の感想を短い言葉でおもしろおかしく表現するミーム大喜利が行われていて、私はそれを複雑な心持ちでみていた。
ネタにするのは良いけどおもしろがって、わけがわかんねー対象として、ネタにだけ使われるタイプの映画ではないよ、と思っちゃったからかもしれない。

イジり方が、とても距離を感じる、客観的に達観しているようだとなんか違うんだと思う。この映画、自分から寄り添うというか気づいたら寄り添っちゃってるタイプの映画で、ボーは遠そうに見えてかなり私たちと近いと思っている。
たとえば、私の先輩がこの映画を観に行く途中、人身事故で電車が遅れてしまって危うく見逃しかけたこと。
私がこの映画を観に行くために席を取ろうとしたら、当初取ろうとしていた席が埋まっていたからその隣の席を取ったのに、いざ観に行ったら当初取ろうとしていた席には映画が終わるまで誰も座らなかったこと。
三連休の前夜にこの映画を観に行って、観終わった後に治安の悪い都会の夜の喧騒の中を通り抜け、駅の改札前でずっと誰にも見えない相手に向かって日本語が日本語じゃないか絶妙にわからない言葉で会話している人や駅内に住居を構えるホームレスを横切り、酔っ払いの多い電車に乗って帰路を辿ったこと。
そんな映画周りの話だけじゃなくて、なんなら、ガスバーナーが怖くて理科の授業に出られなかったこととか、ミサイルが来たらどうしようと思って夜寝られなかったこととか、電子レンジから大きな音がしたらちょっと怖くて離れるとか、そういうちょっとした日常、身近なことが、めちゃくちゃボーでは、と思うので。だから、つまり人類皆ボーである、と私は思ってしまうのです。

最後にもう一回言うけどミッドサマーに比べて好きな映画ではありませんし179分って流石になげえし観るのは全然おすすめしません。でも、放ってはおけなかったので書きます。後パンフレットはデザインがとても良いので買ってください。以上です。

パンフレットには映画に出てきたあれこれがいっぱい


以上ですとか言ったけど以下も感想。
この映画は主に4つのシーンで分けられるので、シーン別でぽつぽつ。

●第一部・治安崩壊街編


この映画は好きじゃないけどこの第一部は素直にとても好き。ここ観たさに2回観たまである。ずっと誰か叫んでるの、幻聴じゃないよな? と確認したくなる。これは全体通しての話だけどやっぱアリアスター監督作品は音がいい。音の種類も音の抑揚も音楽も、全部絶妙。特に、配信よりは映画館向けの音だと思う。

オートロックのドアにダッシュで入らないとタトゥーまみれの人が家に入ってきちゃうのあまりにも嫌だ。騒音出してないのに出してると勘違いされて嫌がらせされるわ、一瞬目を離したら鍵と荷物盗まれるわ管理会社は仕事しないわ、極めつけには鍵の開いた自分の部屋で自分不在でどんちゃんパーティ、お風呂の天井には人、もうどうしたらいいの。
後ファックって叫びながら追いかけてくる全裸のおじさん、この映画随一のマスコットキャラだと思います、めっちゃおもしろい。

シーン的には鍵の付いた部屋でどんちゃんパーティ、の後ボーが帰宅して、ぶっ壊れされたモニターで静かにパソコン操作してるところシュールで好き。

●第二部・ヤバ一家と家族ごっこ編


治安悪悪街で車にひかれ、ひいた人の夫が医者だったので病院ではなく勝手に自宅診療される。娘の部屋のベッドに寝てるので、娘からの視線は冷たい。何より気になるのは戦争で精神を病み、常に大声で襲いかかってくる気満々の体格の良い男・ジーヴス。ジーヴスが画面に映る度に動きと視線の主張が激しくて、いつくるかいつくるかと一番ハラハラするパートだったかも。
ボーが電話してる背景でころころ転がったり池に落ちたりするジーヴスのシーンと、夫婦とボーが戦争で亡くなった息子の写真でジグソーパズルするシーンが印象的。娘はヤクやってるわペンキ飲むわでやりたい放題です。

●第三部・森でチル劇団編


個人的にはここが一番なげ〜な〜ってなる。
劇中のアニメーションは日本でも話題になったアニメ映画「オオカミの家」の監督が監修しているのでとても綺麗で鮮やかなんだけど、そこまで夢中になれない。
後アリアスター監督が日本の歌舞伎にアイデアを得たと言ってるシーンが多分ここ?なのか?(不確定)
母の元に早く帰ろうとしていたボーがここではその素振りを見せないので、ボー自身の休憩タイムみたいな感じかもしれん。

●第四部・ホームデスホーム編


ついに帰ってきた目的地でありすべての原点とも言える、おうち。もうずっとママのターンなんだけどママがほんと怖い。顔も声もトーンも全部怖い。ボー視点だからなのか余計に。ママの会社の事業がすべてボーの、あるいはこの映画の、身近にあるものをすべて網羅していることが無言で知らされるシーンは背筋が寒くなる。ただ一番こわいのはこの映画に自分の母親を招待して見せつけたアリアスター監督で異論はない。
これまでの作品で貫いてきたアリアスターの「家族」を描くことへのこだわり、パンフレットの記載を読む限り一旦今作で終了するかもしれないらしいんだけど、それもほんとかなあ? と思う。なんだかんだ逃れられずに描かれるのではないだろうか。
そういえば、「ママ、きがへんになりそうです」というこの映画のキャッチコピー、ママ登場あたりで、ボーじゃなくてママ側のセリフと取れるということに気づいて驚いた。なんなら一番は観客のセリフか?
ホーム編、ママの圧に押されがちだけど、長年恋焦がれた彼女とセックスして自分が死ぬかもとハラハラしていたら彼女が腹上死しちゃったシーンとか、はいどうもでっかい男性器でーすのシーンとか、諸々インパクトがありすぎる。文章にしたら余計にあれだな。
ラスト、ボーの人生が裁判にかけられて多くの人に見守られながら姿を消すシーン、あれだけすべてをおそれていたボーが、最後の最後は声を出すのをやめて自分の運命を受け入れる。受け入れたボーが画面から消えると無音、静寂。その光景、「あ、私も死ぬときってこんな感じかもな」と思わせる何かがある。自分で言ってすぐいやいや、とも思いつつ、それでもすべてを一蹴できない何かが。



今度こそ本当に終わり。
ミッドサマーのときも素敵だった、BAR十誡さんの、ボーはおそれているのコラボカクテルの写真とムビチケ特典のアリアスター作品ポストカードの写真と、アリアスター関連noteで〆ます。


コースターの裏には名?台詞が。
ヒグチユウコさん画のポストカード、よすぎる

↓過去のアリアスター関連note↓



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