文脈の大切さについて


みなさんも名詞とは"人やものの名前"であると教えられた経験がおありだろう。文の構造を分析していく退屈極まりない授業を覚えておられえるだろう。あんな教え方は即刻やめるべきだと思う。名詞とは述語とある関係を持つ言葉、動詞とはその主語である名詞とある関係を持つ言葉、という教え方に子供たちがついていけないことはあるまい。定義の基盤に関係を据えればいい。そうすればどんな生徒だって「"行く”は動詞である」という文がどこかおかしいことに気づくはずだ。

「精神と自然」より

これから書く文章のまとまりは、「記事」という名詞で定義されるが、それは述語との関係を含む文脈から成り立つ。「やることが無くて暇だなと思っていたところで、あきしまさんの記事を読んで暇つぶしになった」のように、他のものとの関係の中に位置するものであり、その文脈は他のあらゆる「記事」とは必ず異なるものである。

この世界のあらゆる事柄、あらゆる対象には、文脈が敷かれていなかったら何の意味を成し得ないということに、最近やっと肌感覚で気づいてきた。これに何の価値、意味があるんだろう?と思うことは、それ自体に価値がないというわけではなく、自分の中で文脈が敷かれていないから起こることなんだと気づいた。例えば、ハイブランドの服に価値を見出す人は、人から良く見られたいとか、ブランドの価値を信じているという文脈を敷いているから価値を見出すわけだ。素材そのものに価値を見出してるという場合でも、そもそも服に素材を重視するという文脈を自分で敷いている(あるいは無意識に敷かされたのかもしれないが)

読書述についての本で、落合陽一さんとDaigoさんの本に共通して書いてあったことは、「自分の文脈を敷いてから読む」だった。何のためにこの本を読むのか?自分は何を知りたいのか?を意識してから読むことで、自分の頭に使える知識として入ってきやすくなるらしい。確かに、例えばニーチェの思想を140字のTwitterで何も文脈を敷いてない状態で読むよりも、自分で知りたいと思って本を買って読む方が頭に入るし、その本を150ページ読んだ後に、大体こんな感じの世界の見方をしている人なんだなということを知ったうえで読む「神は死んだ」は、「ニーチェ 名言」で調べて出てきた「神は死んだ」と全然違う文脈で読むことができると思う。

この文脈の力を意識することで、日常をもっと楽しく生きれると思う。例えば飲食店に行くときも、ただ「ラーメンを食べにいく」のではなく、「店の空気感を感じてワクワク待った後にやっと来たラーメンを店のBGMをノリノリで聞きながら食べる」ということを意識すると、普段やってる行動に違う文脈の意味を見出すことができる。「サイゼリア論争」なんかも、あれは何で論争になるかというと、人それぞれデートというものに違う文脈を敷いているからだ。僕は初対面のデートは「ただ会って話す」だけで良いと思っているので、そもそも公園が良いと思っている。それは、食事のもたらす楽しさという付加価値を捨てて、一対一で話してもその人と一緒にいて楽しいと思える関係をつくってからこそ、付加価値の楽しいを共有したいという気持ちが生まれるという理屈からだ。初対面の異性と会う行為に「おいしいレストランに連れて行ってもらう」という文脈を敷いていることの意味を、「その相手との長期的に見た関係性」という文脈からとらえ直してみてほしい。

全ての言語は文脈から生まれ、文脈によって処理される。例えば、人に優しい言葉を発してほしいと思ったら、赤ちゃんを抱かせるとか、難病の子供たちへの手紙を書いてもらうとか、そういう文脈を用意することでその人が普段言わないような言葉を使う機会を与えることができる。喧嘩している時に「もう少し優しい言葉遣いはできないの?」なんて言っても、文脈が用意されていないのでchatgptみたいに「はい、では優しい言葉遣いを心がけようと思います」と聞き分けることは人間にはまずできない。「職場の嫌な上司」という言葉も、「職場」という文脈だから嫌な部分が出るだけで、利害関係の無い赤ちゃんに対してはとても優しくて思いやりのある行動を見せるかもしれない。全ての言葉の受け取り方は、「相手はどんな文脈、前提を敷いてからそれを言ってるんだろう?」を考えることで、記憶との関連という自動的な反応ではなく、相手の文脈でものを見る想像力や能動的な深い思考で新しい形で受け取ることができる。「バカ」と言われると侮辱されたように思うかもしれないが、よく考えると僕がMだと思われている文脈があるかもしれない。

AI絵には作家性がないといわれる。つまり文脈がない。けれど例えば、「大人気Vtuberが生成AIで生成した絵を、平和と不幸というテーマで美術館に手作業で並べました」という文脈をつくると、そこに作家性も文脈もある程度生まれるのではないだろうか?僕も最初生成AIを触ってみて、「この絵はその裏に何もない空虚な絵だ」という印象を受けたが、機械を人間とおなじような心を持った生物であると捉えることで、「何でこの機械はこれを僕に見せてきたんだろう?」「僕はこの絵に対してどんな立場にいるのかな?」という文脈で捉え直すことはでき、AIで絵を生成する行為に色どりと意味を付与することができた。そもそも現代アートなんて、マルセルデュシャンの泉を初め、技術ではなく文脈を見て楽しむアートになっているし、生成AIが何も生まないわけがない。もしそう思うのであれば、それは受け取り手側に必要な文脈が敷かれていないからということだと思う。

人生にも文脈が敷かれてある。最初からお湯が出る家庭に生まれた現代人はお風呂に何のありがたみも感じないが、縄文人が湯沸かし器を見たら間違いなくとんでもない革命だと思うだろうし、幸福度も(一時的かもしれないが)爆上がりするかもしれない。僕達は今、「AIが自動運転してくれないから免許とタクシー代の無い人は車で自由に移動できない」という文脈の中生きているが、そのうち自動運転ができて、「旅行の移動費は0で免許もいらない」という文脈の中から世界を捉えることになり、それは人生の可能性を広げることになるだろう。人間の時間が24時間に限定されていて、80くらいで死ぬという価値観から、150まで生きた後にマインドアップロードで無限に生き続けるか選べる、という価値観に移行するかもしれない。その時に、それが嬉しいと感じるかどうかは、その人が自分の人生に意味づけている文脈次第である。

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