知ってるし、分かってるけど分かってない
夏になると、年末の忠臣蔵のように、ヒロシマとナガサキの話をするのが、日本という国である。
語り継ぐことに意味があるから、仕方ない。
日本に住むなら知ってなければいけない。
けれども、やはりどうしても、表面的認識に過ぎず、体感的認知には至らない。
私は、エッセイを読むのが好きで、たとえば宮沢章夫の『牛への道』をAmazonで買って読んでみたりする。
最近はもっぱら、伊丹十三を読んでいた。
『ヨーロッパ退屈日記』に始まり、
『女たちよ!』、『再び女たちよ!』を読んで、1人ベットでほくそ笑んだ。
面白い面白いと、愉悦に浸った。
けれども寂しかった。
それは、なにも1人ヘラヘラ本を読んでいるからでは無い。
決して、伊丹十三に触れることが出来ないからである。
えぇ、死んでますからね伊丹十三は。
どれだけ彼の著作物に、ある種の憧れを感じ、
読み取り、書き写し、私と伊丹十三が、
錯覚として同化したような気になる心地よさを感じていても、ある時、彼のページに現れる、今この時代のものではない俳優、
モノ、コト、それらの登場が、私を、現実に戻すのだ。
決して交わらない、時代の距離を私は感じるのだ。突然、ハシゴを外されたような、危機感、侘しさ、淋しさが、ドッと押し寄せる。
途方も無い距離を、私は、かすかに見える伊丹十三の背中を追うのだ。
どうしたって知ることの出来ない、知っていることというのがあって、
私たちは普段、それらを「知っている」と、
蓋をして、わびしくなることから避けている。
ナガサキの存在、ヒロシマの存在、私たちは知る由もない。
それを毎夏、憐れむ心を持った人種なのだ、私たちというのは。
そういう心に、私は、
ほんの2.30年前の本を読みながら、
リアルに、シビアに、突きつけられる。
私と、アナタとでは、生きている時代が違う。
そういう、距離に、心が、ひしゃげてしまいそうで、いつの日か、黙祷する心行きが、無くなってしまうのではないかと、不安に、寂しく、
私は、なってしまうのだ。
他人の人生が、私には決して交わらないもののように思う、だからこそ、時代も決して、交わらないのだ、と。
伊丹十三が子供時代に使った、敗戦国的マッチの存在など、私は知らない。黒ずんだ頭に、10本のうち2.3本つけば良いマッチなど、私は知らない。
知ることが、出来ない。
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