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《御浜御殿綱豊卿》の感想:Y字路上に立たされた宙ぶらりんの三者について

真山青果の会話劇であるからして役者さんの口から出る滔々流麗たるセリフにうっとりと聴き惚れてても満足できる芝居だけれども、それだから初見の初日からとっても愉しんだ自覚があるんだけれども、連続鑑賞の4日目終盤にして「分かった~~~!!!」と思ってから臨んだ翌5日目の観ごたえ聴きごたえがとんでもなかったです泣きましたありがとうございました真山青果御大。ありがとうございましたニザさま幸四郎丈バチバチの応酬を。

人物の心の内は "ぜんぶセリフで言われてる" のだけど、シーンにおける話の運びが自然で説明くさくないから「あぁ今解説パートなんだな」って意識にならないでスルスル聞いちゃうんすよね、だからなんか盤上へぱちりぱちりと碁石を置くようにあらましが見えてきて、最後に全体を俯瞰すると あぁこういう構造だったのかって腑に落ちる。ただその石いっこ一個がぴかぴかに磨き上がってて目を惹かれてさらに置かれ方まで美しいもんだから石それぞれの結びつきまで頭が回らないうちに幕が閉まっちゃうのよ……

この脚本の「すんなりと理解できない」会話の内容の「難解さ」(少なくともわたしは四回目まで掴めなかった)の理由は、メインの二人物、綱豊卿と助右衛門がそれぞれ、進むべき道を踏み惑ってY字路の分かれ目に立っているためだと思われる。そのどっちつかずの姿勢と揺れ動く心が、対話の相手の出方に応じて踏み込みくすぐりまた逸らす臨機応変の発言と相まって、話の内容がぽんぽん飛躍するようで、前後の文脈を憶えてないと「いま何の話をしてるんだ??」「その指示詞は何のこと??」って状態に易々と成ってしまう。
またその宙ぶらりんな状況を両者に対して作り出している第三の人物、大石内蔵助もまたY字路の分かれ目に立たされているという構造が、にっちもさっちも行かない身動きの取れなさと回りくどさとサスペンスを生み出している。うめえ。既存の有名作の焼き直しと登場人物に長広舌をふるわせてもわざとらしくない設定がうめえ~~!!!

綱豊卿は、施政者徳川の主流に連なる立場として、加えてそれ以上に、個人の「さむらいごころ」が志す道として、(A) 浅野の家臣に主君の仇をとらせてやりたい が、しかし自分が助力することを周囲の重要な人々から期待されている (B) 浅野家再興を、もし仇討ちを断念するのであれば次善の策として後押ししてやりたい

助右衛門は、(C) 仇討ちは何としても成し遂げたい(D) 組織的仇討ちには絶対に必要な指導者である内蔵助が変心した振る舞いを見せており、彼の真意が分からず、集団での計画が頓挫するのではという不安と混乱の中でせめて己に出来ることをしようと個人で動き、吉良の命を狙っている 

(A)と(C)は実行者と傍観者の違いしかないので望む行為は一致するが、(B)と(D)は離反している。(B)は平和の、(D)は闘争の道である。助右衛門は吉良の首を獲るためなら命を失ってもよいと覚悟を決めているが、綱豊卿は、赤穂の浪士たちが堂々たる仇討ちを為せないならば、命の奪捨に固執せず、生きて平凡にでも暮らすことを望んでいるように思われる。

(終盤で吉良暗殺に逸った助右衛門を叱りつけ綱豊卿が説くのがこの点で、吉良を殺すことを目的にしてはいけない、主君を想い主君に恥じぬ心で復讐に臨む姿勢こそが肝要であり最上なのだ、(ゆえにそうした結果もしも仇討ちが叶わないまま吉良が死んだとて亡主への忠義を抱き続けていた限り浅野の家臣の恥ではない、)と語りかけ、助右衛門の思い違いを正すことになる。
この後、綱豊卿は浅野家再興願いが短期間で成就することの無いように、正妻や関白といった義理の大きい人々に対して心苦しい立場に陥ることを覚悟の上で、赤穂の浪士たちのために己を堰としてくれるわけだが、もしも決行が間に合わず吉良に北国へ逃げ込まれたとしても、そのことを気に病み過ぎるなとさえ助右衛門へ伝えているのではないか。己の不甲斐無さを責めて詫び切腹などせぬようにと。旧ツイッターでフリーライドなんて云っちまって大変申し訳ございませんでした綱豊卿…… 貴方はお慈悲の御仁であらせられた……)

また (D) に響く内蔵助への好悪感情も単純でないのがややこしさに輪をかける。
綱豊卿に内蔵助をばかにされるとムッとして煙管をゴンゴン叩きつけるところから、かつて抱いていた御城代への尊敬の念や上役としての信頼が遊蕩によって完全に払拭されたわけでないことが分かる。
一方で「内蔵助の真意は分かりませぬ」旨の苦々しさを滲ませた発言は本当にこの時点での助右衛門の偽らざる心であり、その不信感が、七段目で一力茶屋へ乗り込んで問い質し、志を捨てなばいっそ斬ろうとする怒りの行動に繋がるものと思われる。(※それぞれの作品における年月日の設定は調べてませんので順序が違うかもしれません)

そして真山青果スゲ~~~なのはメインの二人物がなんとかして肚の内を知りたいと願っている内蔵助自身がこの混迷の中心に居るのではなく、"話の流れで内蔵助が放ってしまった" 運命の悪戯じみた「浅野家再興」の嘆願というインシデントこそが渦を引き起こしている核であって、内蔵助もまたその渦に巻き込まれて手をつかねているしかない、という大きいうねりを緯糸に組み込むことで、人智の及ばぬ運命や徳川の社会機構がこの台詞劇の背景に横たわるスケールの大きさを付与している点です。スゲ~~~……!!!

なので内蔵助も助右衛門と同じく (C) 仇討ちは何としても成し遂げたい が、(E) 既に自分の手を離れた再興願いが聞き届けられてしまっては自分たちが望む組織的仇討ちが実行不可能となるため、嘆願不成就を切に願いつつも、そうなった場合に仇討ちの用意が自然消滅することを狙って自ら「箍」を切って見せ浪士たちの意気を挫いている のだと、綱豊卿は読んだのでないかと思うのです。
(E)は(B)と背中合わせで、(B)によって再興ルートが成立してしまった場合に備えた、内蔵助としての次善策。
そんな面倒くさく不確実な策を弄せずとも再興が決定した時点で同志たちを思い留まらせればよいのでは、という考えも浮かぶのだけど、「己につられて志を捨てるような根性の無い浪士を篩にかけて精鋭を選り、同時に吉良の油断を招く」と考えればどっちに転んでも無駄の無い戦略であって、策士内蔵助が採るのに無理は無さそうに思われる。馬手で仇討ち気運を減退させつつ弓手で仇討ち計画を進めてゆける。

つまり(A)は(C)と表裏一体で(B)(D)と対立しており、(B)と(E)も背中合わせで(E)が(D)の原因であり、(D)と(B)(E)は対立していて、また(A)(C)とも共立しない。

というややこしい三者のどっちつかずを念頭において観劇すると、山場の問答のセリフにいちいち「それってどういうこと??」って突っかからずに、役者さんの表情や声や仕草を拾うことに意識を集中できるので感情の届きがすっっっごい。インターネット回線が光に替わったくらい違う。ギュンギュン入る。
(例えば助右衛門が愚痴として零す「箍が有りゃこそ桶でござります。……板ぎれで水を汲めと仰せられても、そりゃ無理というものでござりましょう」に対する綱豊卿の「わしはそうは思わぬ」の「そう」が何を指すものか、最初は "板ぎれで水を汲む=個人個人で志を持つ" ことが決して無理ではないだろうという意味で取っていたのだけど、現在では "箍が切れた=内蔵助が志を失って統率者として駄目になった" ことを指しているのだと取ってます。)※セリフは正確ではありません。

勧められた煙草盆(※銀無垢のセットだよね……?)でスパスパ(というよりちゃんと吸えたタバコよりも腹立ちまぎれに灰落としに叩き込んだタバコのほうが多いと思うけどw)吸ってるあたりの助右衛門はまだ急に対面した殿様に対してどういう人物なのかという探りもあり、破れかぶれな居直りのふてぶてしさもあり、しかし喧嘩腰に威勢のよいことを述べ上げたあとで綱豊卿の酒を呑む無言の時間のあいだ、次にどんな展開が来るかと、身分の低き者としてはらはらしている様子もある。己の言ったことの無遠慮さに遅まきながら動悸がし、知らず知らず肩へ力が入り、腹は緊張で固く締まって肺腑を広げれば肩が動く、という(武士の階級としては)一小者の身体表現が幸四郎丈は実に細やかで素晴らしい。言ってやった、言ってやったぞ、という心の声が聞こえるようだ。

対話の一手一手を両手持ちの刀でなんとか斬り伏せ斬り避けているような余裕の無い守備の助右衛門にひきかえ、攻め手である綱豊卿は中盤まで余裕である。さてどうしてつついてやろうかと、パズルを楽しむように悠然と構えている。そのへんに両人物のキャラの違いと、能力の違いと格の違いが明確に出ている。助右衛門はむしろ観客と同化する一般人代表の低い位置に在り、肚の内が読めない(と助右衛門は思っている)綱豊卿は、この物語では紗幕の向こうに居る、既にヒーローとなることが観客の共通認識として確定している内蔵助と同化され得る高位に在る。

結局この対話において、自分たちの企みが露見することを恐れその秘密の保持に気を取られている助右衛門は、説得手段の一環として歩み寄ろうと胸襟を開いた綱豊卿の胸の内を覗くだけの余裕が無く、そのため嘆願の即時通過を阻もうとしてくれる綱豊卿の心を理解できずに襲撃へと進んでしまう。

仇討ち決行を何よりの大事と思っているから助右衛門は「明日にでも嘆願を」と(「矢の催促」であるからして事実でもあろうが)挑発する綱豊卿に対して「お敷居を越えまするっ!」と猛進する。しかし、足元に這い蹲ってなお口を割ることが出来ない。綱豊卿もまた口を割ってほしくない。助右衛門が義士として在ることを望んでいる。ゆえに「何か用か!」と厳しくも苦しげに詰問する。その苦しさに気付ける余裕は助右衛門に無い。自らを一兵卒と任じていた彼は今、突如として義士の命運を左右する決断の瀬戸際に立たされてしまっている。家臣の立場でお家再興を阻止してほしいなど言える道理が無い。言えば仇討ちを疑われよう。しかしこの殿様を行かせては再興遂げられ仇討ちが成らず、行かせぬための告白もまた仲間を裏切る行為であり為すわけにゆかぬ。身を焼くような激しい葛藤の末に彼はY字の分かれ目に蹲ったまま苦しさに泣き出し、その言うに言われぬ姿を見て、綱豊卿はどちらに進むかの指標を得る。そして静かに覚悟を固める。

いわば、この長い長い対話のシーンは綱豊卿が助右衛門(とその仲間たち)の(仇討ちを行う気が本当に有るのかという)真意を掴むために在るターンで、大詰というよりエピローグ、デザートというより食後酒くらいの短さの夜の庭の場で、ようやく助右衛門が綱豊卿の本意を理解する逆のターンになるのである。
対話の場の綱豊卿の最後のセリフ「助ぇ、そちゃおれに憎いことを言いおったぞ」は、綱豊卿にすれば『大名に対してそれほどのことを言ってのけたのだから、心して仇討ちに向かえ』の心であり、しかしこのときの、事態の切迫と動揺でイッパイイッパイな助右衛門にしたら生意気の意趣返しにちょっと軽口を叩かれたくらいにしか受け取れなかっただろうと思う。そもそも綱豊卿の軽やかな声がどこまで脳に達していたか。
庭の場になって初めて、刃の前に身を晒してまで愚かな蛮行を止めようとしてくれた綱豊卿の親身が分かり、そうまで深い同情を知覚して初めて、卿が嘆願をどう扱ってくれるのか、想像が及んだものだと思う。
その二段階での相互理解を経ての、綱豊卿の頷きであり、助右衛門の頷きであるのだ。

泣くよね…………。
理想の君主過ぎるよね綱豊卿…………。

殆どの客席からは見えない、能舞台に向かって歩む綱豊卿のお顔は、見えないからこそ "背中を見る" リーダー像として優れた演出なんだろうな……。

(あとこれも舞台の上には描かれない、対話の場を離れて見えなくなったニザ豊卿が、近々の未来で嘆願を押し留めて上様まで行かないように反対者として向かい合わねばならない関白殿や御台所との厄介な折衝を請け負う覚悟でお顔をキリリと引き締めておられるのだろうなと思って、そのお顔を想像して、場転の幕が下りてるあいだ集中して涙を絞りました)


ひとまずおしまい。

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