コイン・チョコレート・トス_第5話
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🪙 57.6グラム
2月11日(水)
カタンと音がした。
布団に入ったまま幸子はチラリと新聞受けを一瞥する。幸子はそのまま動かない。バフっと掛け布団を頭からかぶる。全てがもうどうでもよくなっていた。
ザアザア降り続く雨の音が二日酔いの頭に響く。
風が吹くたびに新聞受けに刺さった新聞の隙間から、雨の匂いが湿ったアパートの室内に流れ込んだ。雨はびたびたと壁や窓にぶつかっては、落ちていく。
それより頭が割れるように痛い。
幸子は布団の中でうずくまった。
2月10日(火)
何かが変わると信じて歩いた道を、何も変わらないと知りながら歩く帰り道ほど虚しいものはない。もう何も考えたくない。悟のことも、タイムスリップのことも、美容のことも、将来のことも。
幸子は帰り道に見かけたコンビニにふらりと入り、陳列棚に置いてあったウイスキーを買った。
幸子は酒に逃げることにした。
帰るなり高級チョコレートの箱を開け、チョコレートをつまみにウイスキーを飲むことにした。ウキウキする気持ちもなく、感動もあまりない。ジュエリーに見えていたチョコレートは、ただのチョコレートに成り果てていた。
幸子は紙コップにウイスキーを注ぐ。氷もないので、仕方なくストレートで飲んだ。水で薄める気にもならない。
チョコレートを口に放り込み、ウイスキーで流し込む。冬のチョコレートもウイスキーも、どちらも体温より低く、冷えきった心をさらに冷たくした。
とはいえ、温かい口の中でチョコレートはゆるりと溶け、度数の高いウイスキーはほわほわと脳を溶かしていく。どん底な精神状態でもうまいものはうまいな、と幸子は思った。
精神状態が影響して砂を噛んだような味がするなんてフレーズをどこかで見かけたこともあるが、きっと薄味の食べ物を食べていたのだろう。しっかりした味の濃いものを食べ、舌が機能していれば、味覚はわかるのではと幸子は思う。もしかするとそうではなくて、幸子自身思ったよりも落ち込んでいないかもしれない、とも考えた。
空きっ腹にウイスキーは効いた。幸子は次第に気分が良くなってきて、投げやりな気分になった。
チョコレートをかじり、ウイスキーを口に運ぶ。酒を飲むと体温が上がる気がした。口の中の温度も上昇し、チョコレートの風味が口いっぱいに広がる。口の中でチョコレートを転がすと、カカオの香りが鼻を抜けた。
「虚しい」
幸子はすんと鼻を啜る。チョコレートの匂いが、いつの間にやら涙の匂いに変わった。
自分の体の一体どこに、こんなにも水分を蓄えていたのだろうかと思うくらいに幸子は泣いた。涙は体内から湧き上がっては、幸子の瞳からぼたぼたと落ちた。落ちた涙は拭けども拭けども、こぼれては落ちる。段ボールの横に置いておいたティッシュを摘んでは涙を拭き、鼻を噛んだが、全く追いつかなかった。
涙は畳に落ちては、畳が濃くにじんた。滲んでは消え、消えては滲む。
次第に幸子の周りの畳の色は濃くなった。ティッシュでは到底追いつかないと幸子は判断し、タオルを手に握り、涙を拭きながらウイスキーを飲んだ。
悟が浮気をさせられるハメになったことも、私が仕事を辞めさせられることになったことも、もう変えることができないのだとわかった。
タイムスリップをしたって、何も変わらなかった。
期待を胸に、誤配の新聞を握りしめた私はもういない。
幸子は大きくため息をついた。
悟は今頃、何をしているんだろうか。
悟の浮気が佐藤佑美のせいだということは明らかだった。悟は人がいい。困っている人がいたら、手助けしてしまう。絶対にそっぽを向いたりしない。愚直で損をするタイプではあるが、それは悟の美徳であり、否定すべきところではない。部下が困っていたら、悟は疑うことなく、必ず手を差し伸べるだろう。幸子は一人頷く。
素知らぬ顔をして家に帰ってもいいものだろうか。勝手に家出をして拗らせて、たとえ戻ったとして、悟とうまくやっていけるのだろうか。
悟のことを許しても、佐藤佑美の顔がチラつきそうで嫌だなと幸子はウイスキーを煽った。
佐藤佑美はチョコレートショップでの電話の際、きっかけはどうであれ、結局男は佐藤佑美自身に夢中になると言っていた。悟が例外だったかどうかは幸子にはわからない。
幸子は悟しか知らなかった。他の男性に興味などなかったし、男性がどのような女性を好むのかもよくわからなかった。悟が満足できるているかどうかなんて、もちろんわからない。浮気をされるまでは満足しているのだろうと疑いもしなかったが、浮気が発覚してからの幸子には自信なんてものは欠片もなかった。
佐藤佑美がマウントを取るようにして話していた電話の内容が、ボディーブローのように幸子にダメージを与えた。明らかに手練れの佐藤佑美の男性を虜にするような魅力が自分にあるとは、幸子は到底思えなかった。
実際に12月22日に悟が睡眠薬を飲まされて、写真を撮られただけかどうかの事実確認は幸子には行えない。
1月30日に悟が浮気をしたのが、脅迫によるものだったのか、悟自身の意思によるものだったかなんて幸子には知る由もなかった。
ただ一つ、幸子がタイムスリップをしてわかったことは、悟が言っていた話が事実だったということだけだ。悟が全てのことを話しているかどうかはわからないが、嘘をついていないことが分かっただけでもよかったのかもしれないと、幸子は自分を説得するように呟いた。
とはいえ、これから先どうすればいいのかは、今の幸子の頭では考えることができなかった。ウイスキーを飲み干し、チョコレートを一箱平らげると、幸子は着の身着のままで布団に横になった。
2月11日(水)
眠れるわけもなく、寝返りを打ち続け、気づけば新聞が配達される時刻になっていた。
ムカムカする。頭が痛い。割れるように痛い。
幸子は立ち上がるとトイレに向かった。口の中に指を突っ込む。そして、吐く。ひとしきり胃の中のものを吐き出すと、もう一度指を突っ込み、また吐いた。
胃の中が空っぽになるまで繰り返し、すっきりしたところで、洗面台で口と顔をゆすぐ。とりあえずさっぱりし、幸子は玄関に向かうと新聞受けから新聞を取った。取らなくてもいいと思ったが、好奇心には勝てなかった。
今日の新聞が、誤配か誤配じゃないか。
新聞にかけられたビニールを破る。
令和X年10月30日(日)。
10月30日(日)
幸子と悟が結婚した日。
特別に思い入れのある日だったわけではない。
何もない日にしたら特別な日が増えるね、と幸子と悟は何もない日に入籍することに決めた。
そして、その日は二人にとって特別な日になった。
結婚式は別の日に挙げることにしていたので、その日は二人だけでお祝いをした。事前に準備しておいた婚姻届を、午前中に二人で役所まで持って行った。日曜日だったので、夜間窓口に行き受理してもらった。
幸子は「竹下幸子」から「臼井幸子」になった。
ソワソワするような恥ずかしさがあったけれど、幸子はとにかく嬉しかった。入籍届を提出すると、二人で手を繋いで近所の行きつけのイタリアンのお店に行き、ランチをした。人気のイタリア料理店には開店してすぐに入ることができた。
二人は、まだ日が明るいうちからワインを頼んだ。
顔馴染みの店員に「今日はお昼間からワインなんて、珍しいですね? 何かお祝いとかですか? 」と尋ねられた。
嬉しさのあまり二人は顔を見合わせて「今、婚姻届を出してきたんですよ」と、はにかんだ。
「おめでとうございます!」
拍手のプレゼントをもらい、二人は照れくさそうに顔を隠す。拍手に気づいた店長が厨房から出てきて「お祝いしなきゃですね」と食後にケーキのプレートをサービスしてくれた。
いちごのショートケーキが2つ。白いお皿の上に少し角をカットして、ハート型に並べてあった。白いプレートにはHAPPY WEDDINGとチョコレートで書いてあって、周りにはカラフルなお花が散らしてあった。
とても可愛いケーキのプレートを二人で持って、写真を撮ってもらった。
明るいうちからお酒を飲んで、しかも入籍して浮かれていた幸子と悟は、お互いにケーキを食べさせあって、ファーストバイトごっこをした。
二人はふわふわと1cmくらい浮いたような気持ちで、手を繋いで家に帰った。
家に帰り着くと、玄関に入った途端に悟は幸子にキスをした。二人はそのままベッドルームに向かい、ゆっくりと愛を確かめ合った。
肌と肌を重ねると体温が溶け合って、二人は混じり合う。息遣いは熱を帯びて、対照的に肌に触れたシーツの冷たさが心地よかった。二人はもともと二人で一人だったのではないかと思うくらいに一つになった。
「幸せだね」と幸子の口から思わず漏れた。
「幸せだね」と悟が笑った。
ぐだぐだとベッドで転がっていたら、幸子のお腹がぐぅとなった。お昼はあんなにお腹いっぱいになったのにと、幸子は少し頬を赤らめて俯いた。
「幸子はさ、すぐにお腹いっぱいになるのに、すぐにお腹が空くよね」
悟がくしゃっと笑った。
昼は外食したから、夜はゆっくり家でご飯を食べようということになった。二人でスーパーに行って、買い物をした。
「お昼はイタリアンだったし、夜はあっさりでいいよね」と豆腐と鮭と納豆と卵を買う。お漬物とほうれん草も買った。幸子のお気に入りの麻でできたエコバックに買ったものをを全て入れた。荷物は悟が右手に持ち、幸子は悟の空いた左手をぎゅっと握る。悟の体温を感じるとどんな時でも幸子は安心できる気がした。これからずっとこの手を離さないと幸子は心に誓う。
帰るとすぐに二人でキッチンに立った。
幸子が米を研ぎ、悟が味噌汁を作った。グリルで鮭を焼いて、ほうれん草と豆腐は味噌汁に入れた。出汁は市販のものを使用したが、味噌は幸子の実家からもらってきた醤油屋さんの味噌を使った。幸子の実家の味。
「幸子んちの味噌と醤油、美味しいよね。全然味が違う」
悟が味見をしながら言った。
幸子も味見をする。ずずっと味噌汁をすすった。出汁の香りがふわっと口から鼻に抜ける。味噌汁を飲み込むと、舌に味噌のコクが残った。量を入れなくても十分に甘みを感じることができる実家の味噌は本当に美味しいと幸子は思う。
「やっぱりお母さんの買ってきた味噌はおいしいなぁ」
幸子がしみじみ言うと、悟はケラケラ笑った。
「そこは普通、お母さんが作った味噌じゃないの?」
幸子は、あ、という顔をした後、
「お母さん、味噌作ったことないし。そもそも味噌って家で作れるの?」
と幸子も笑った。
味噌が自家製かどうかはさておき、幸子は悟が自分の実家の味を気に入ってくれたのが嬉しかった。
「でも、これじゃ、結婚した日の晩御飯っていうより、旅館の朝ごはんだね」
幸子が眉毛を下げる。
「旅館の朝ごはんとか、最高に美味いやつでしょ」
悟は目尻に皺を寄せてくしゃっと楽しそうに笑った。
その後、卵焼きは甘いのかしょっぱいのか論争になった。初めての夫婦喧嘩。
「どっちも食べれば良くない?」ってことになって、結局二種類作った。
食べ比べてみて、どちらも美味しいことに気づく。でも二人は顔を見合わせて「でもやっぱり居酒屋の明太子の卵焼きがおいしくない?」という結論で夫婦喧嘩は終止した。
なんでもないことが、楽しかった。その時はこんな幸せな日が、ずっとずっと続くと思っていた。
夕食を食べながら、幸子は悟に「ありがとう」と言った。
悟は「こちらこそありがとうだよ」と言った。
幸子は味噌汁に視線を落とす。
「私、男の人苦手でしょ。多分、悟に出会わなかったら、こんな幸せを知ることは一生なかったんじゃないかと思って」
悟は静かに頷いた。
「なんかね、悟はちゃんと私を見てくれてる気がして嬉しいんだ。今までも、私のことを好きになってくれる人はいたけど、なんか中身というより、私の外側ばっかり見られてるような気がして。なんて言えばいいのかわからないんだけど、女性であることが嫌になるような瞬間が頭から離れなくて。どうしても、男性に偏見があるっていうか……」
幸子が話す言葉を、悟は静かに聞いていた。
「だって、俺、幸子のことが好きだもん。多分、幸子が男だろうが女だろうが、子どもだろうがおじいちゃんだろうが、好きになったと思うよ」
悟は優しい顔で笑う。幸子はこういうところが大好きだなと改めて思った。
「おじいちゃんは嫌だなー」幸子が笑う。
「ひげの生えた幸子爺さん」悟も笑った。
「じゃあ、悟は腰の曲がったおばあさんだね」と幸子が言うと「おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと一緒にいようね」と悟は笑った。
2月11日(水)
幸子はその日、タイムスリップはしないことにした。
誤配された新聞はそのまま畳の上に放置した。ガンガンと響く頭を畳に押し付け、寝転んだまま低い天井を見つめ続けた。
窓に打ち付ける雨音が、頭に響く。
天井のシミが幸子に話しかけてきた。
(タイムスリップなんて意味がない。運命は変えられないということがわかっただけでも、儲けもんだったんじゃない?)
「まあね」
幸子は天井のシミに返事をした。
(それにさ、悟が概ね事実を話していたということもわかったでしょ。脅されてたならその前に教えてくれてもよかったのにね)
「それもそうだね」
それができたら悟じゃないと思うけど、と幸子は心の中で呟いた。
天井のシミは不気味な表情をより一層不気味に変えて、真剣なトーンで話し始めた。大きい丸と小さな丸が天井にあるだけなのに、本当に表情がわかるようで不思議な気持ちになる。
(でもさ、私が悟と同じ立場だったら、幸子にサトウのことは言えないかもな)
「なんでよ」
(だって、12月から年始にかけての幸子は落ち込んでたし。そんな時にこんな話できないでしょ)
確かにその時期の幸子は落ち込んでいた。新しい仕事を探さないといけないと思いつつ、妊娠も望んでいたし、仕事を探すべきかどうかを悩んでいたのは事実だ。
そんな状況で、悟が佐藤佑美とのことを打ち明けてくれたって、受け入れることができたかどうか。幸子は天井のシミに問われて考えてみたものの、自分でも難しかったのではないかと思った。
(しかもさ、自分でも覚えてないことで、幸子のこと傷つけるかもって、悟なら考えそうだよね)
「……うん」
幸子はこくりと頷く。
(それに、サトウユミが脅してこなければ、なかったことにできる。黙っておこうってなっても仕方ないよ。私ならそうする)
「まあ、そうかもね」
暴論のような気もしたが、天井のシミが言うことが至極真っ当にも思えてきた。
(悟だって間違うことはあるんじゃないの?)
天井のシミに言われなくたって、私だってそんなことわかってると幸子はため息をついた。
(もし、会社にバラされてクビにでもなったら困るしねぇ。まあ、サトウと寝たのはよくなかったし、サトウに色々喋ったのも、幸子に全部喋ったのも、失敗だったねぇ。嘘がつけないタイプだね)
「……」
(でもまあ、悟なりに、幸子を守りたかったんじゃないの?)
「……」
(幸子はさ、いっつも悟に守られてばっかりだよね)
天井のシミの言い方は癪に障るけど、幸子は確かにその通りだと思った。気づけば幸子はいつも悟に守られていた。優しくて、あったかくて、悟にいつも包まれていた気がする。
太陽みたいで、悟は間違わないんだと思ってた。
そっちを向いて歩けば、幸せになれるって。
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幸子はこれまでの人生を振り返った。いつも誰かに守られて生きてきたことに、今更ながら気づく。実家にいる時も、いつも家族が幸子を守っていた。
守られてばかりの自分が嫌で、大人になって自然に親と離れるようになったのを思い出した。
社会人になり、一人暮らしを始めた。次第に実家に帰る回数も減り始める。実家とは不仲でもないし、連絡を取らないわけでもないけれど、自立するということはそういうことだと思った。
夜道の苦手な幸子は、夜に出歩くのが怖かった。もちろん、両親はそれを知っていたし、実家暮らしの頃は両親や幸子の兄が配慮してくれていた。たとえば、夜遅くなる時は迎えにきてくれるとか、家に着くまでの間、電話を通話にしておくとか。
一人暮らしを始めるとは言っても、まだまだ甘えてばかりの幸子は、両親と一緒に不動産屋に行き両親が納得する家を選んだ。家は人通りの多い場所を選び、オートロックのマンションにした。
友人たちに「心配しすぎじゃない?」と言われても、心配なものは心配だった。
慣れない合コンに連れて行かれても、幸子は男性の目線が気になった。自意識過剰だと言われても、どうしても気にしてしまう。
ある夜の帰り道、繁華街を歩いていたら複数の男の人にからまれた。
ただのナンパだったのかもしれないけれど、酔っ払っている複数人で取り囲まれたら、流石に怖い。
繁華街はたくさんの人がいるにも関わらず、幸子に手を差し伸べる人は一人もいなかった。
誤配の新聞を片手に、タイムスリップ先で歩くのと何ら変わらない。幸子は透明人間か、あるいは繁華街でナンパされる女Dだった。
声をかけてきた男性たちに、「もう帰るので」と断って、取り囲まれた隙間を縫ってその場を離れようとした。しかし、幸子は手を掴まれた。
「せっかくだから一緒に飲もうよー」と言って男の一人は手を離そうとしなかった。
周りの男たちも「かわいそうだから、やめろよ」と言いながら、ゲラゲラと笑っている。手を掴まれた幸子は、どうしていいかわからなかった。
「やめてください」と言ってはみたものの、その声は心許なく足元に落ち、雑踏にかき消されてしまった。
そんな時に突然、幸子の前に悟が現れた。それはまだ幸子が悟を知らなかった頃。
突然現れた悟は、「ごめん。遅くなって」と、さっと男たちの間に入った。
「連れなんです。すみません」と言うと、幸子を群れから連れ出した。
「あ、あの……」
あまりにベタなシチュエーションに戸惑いながらも、幸子は野生動物の群れから抜け出すことができて安堵した。
「ありがとうございます」
そう言った幸子の手は小刻みに震えていた。
幸子の手が震えていることに気づいた悟は、「どこかで休みますか?」と提案してくれた。
幸子は顔を左右に振った。
「あ、一人で大丈夫です。ありがとうございます」
悟は自分を助けてくれた人ではあったけれど、悟に対しても幸子は警戒心を抱いていた。
「大丈夫」とは言ったものの、幸子はこのまま家に帰れる気はしなかった。一人で家に帰って、一人で家にいれるほど、幸子は強くない。
今日は親に電話をして実家に帰ることを考えた。頭にそんな考えが浮かんできて、いつまで経っても親に甘えている自分が情けなくなった。
緊張が解けたのか、急に涙がポロポロとこぼれ出した。
目の前で悟が慌てていた。
「いや、やっぱり一人になるのは良くないんじゃないかな? 同じ席に座らなくていいから、一緒にカフェでも入りましょうか?」
そういうと悟は、幸子の手は取らずに、極力近づきすぎないようなギリギリの距離で幸子をカフェまで誘導した。幸子はハンカチを鞄から出して、頬を伝う涙を抑えながら歩いた。
ファンデーションが寄れるし、アイメイクが崩れるのは嫌すぎる。早く涙を止めたい。目を擦らないようにして下を向いて歩くと、目に涙が溜まって視界が歪む。少し前を歩く悟の足元が道標のように思えた。
悟はカフェに入るとミルクティーを二つ注文した。
「ほんとはホットミルクの方がいいかもしれないけど、電車で寝ちゃうと良くないから」なんて言いながら、悟はカウンターの席を一つ開けて座った。
幸子は暖かいカップで暖をとった。手の震えが次第に落ち着いていく。
湯気と一緒に立ち上る紅茶の香りを嗅いだ。幸子はカップを口につけ、ミルクティーを口に含む。ごくんと口の中のミルクティーを飲み込むと、柔らかい温かさが喉を滑り落ちる。甘くないミルクティーは井の中にとぽとぽと落ちていき、心臓が少しずつ当たり前の速度へと戻っていく。
幸子はほぅと一息ついた。
「ありがとうございました。ほんとに」
幸子は悟に目線を向けると、目を合わせてお礼を言った。優しそうな人だなと思った。悟が注文してくれたミルクティのような柔らかい印象を覚えた。
「いえいえ。落ち着きました?」
悟は目尻に皺を寄せてくしゃっと笑う。
「はい。助かりました」
幸子は悟に向かって頭を下げた。
「いえいえ。僕は特に何も……」
悟は顔の前で手をひらひらと振る。
少し落ち着きを取り戻すと、幸子はお金を払っていないことに気づいた。幸子は鞄から慌てて財布を取り出した。
「あ! 大丈夫ですよ。お金は。ミルクティーだけだし」
「いや、そういうわけには。むしろ助けていただいたので私が払わないといけないのに」
「じゃあ、今度何かご馳走してくださいよ」
悟がふっと笑った。
「え?」
あまりにベタな展開に、幸子はなんだか胡散臭くなってきたなと思った。優しいお兄さんだと思っていたのに、その笑顔が急に詐欺師に見えてくるから不思議だ。
「冗談ですよ」
怪訝な顔をした幸子に気づき、悟が口を開く。幸子は察しがいいところがまた胡散臭いと思った。完全に逆効果だ。
悟は名刺の裏にさっと携帯電話の番号を書くと、幸子のミルクティーのカップの横に名刺を置いた。
「落ち着いたならよかったです。気をつけて帰ってくださいね」
と言い残して去っていった。
幸子はその後、実家に電話をし駅まで迎えにきてもらって、実家へと帰った。車に揺られながら、いい人だったのかな胡散臭かったけど、と幸子は思った。
それが悟の第一印象だった。
次の日、幸子は勇気を振り絞って悟へ電話をした。お礼の電話をしたくて、電話番号を押したのだ。
しかし、緊張してワンコールで切ってしまった。男性に対しての免疫もあまりなく、自分から好意的に男性を捉えたのが初めてだった幸子は、すでに成人しているにも関わらず自分から男性に電話をするという機会はこれまでなかった。
緊張するのも仕方がないが、ワンコールで切ってしまうとは中学生並みではないかと、肩を落とす。
「あーあ、これじゃあ、イタズラ電話だよ」
幸子が独りごちた瞬間、先ほど発信したばかりの電話番号からの着信があった。幸子は慌てて、電話をとる。
「もしかして、昨日の方かな? と思って! 無事に帰れました?」
それは悟からの折り返しの電話だった。
その後二人はたわいない話をして、電話を切った。
その話を理恵にしたら、「え? 幸子がほぼ初対面で、普通に話ができる男の人がいたの? めちゃくちゃすごいことじゃない? その縁は大事にしなきゃ!! すぐ電話して、デートの約束しなさい!!」と煽られた。
幸子は、確かに理恵の言うとおりだなと納得した。幸子にしては珍しく積極的に行動して、悟とデートをすることになった。
そして、何度かデートを重ねて付き合うことになった。
3つ上の悟は、少し先の人生を歩いていて、幸子はいつも手を引いてもらっている感覚だった。
男の人の精神年齢は10歳引いた方がいいよ、なんて誰かが言っていたけど、私の精神年齢も幼かったからちょうど良かったのかもしれないと幸子は思う。
悟がそばにいれば安心だった。
結局私は、いつまでたっても、誰かに守られてばかりだ。
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(ねえ、幸子は、そのままでいいの?)
「そのままって?」
天井のシミに幸子は尋ねた。
(守られてばっかりでってこと)
「それは嫌だけど」
鎮痛剤が飲みたい。頭がガンガンする。
天井のシミの声が幸子の頭に響いた。
(一回、家に戻ったら?)
天井のシミの提案に幸子は頭を左右に振る。その瞬間、ずんっと頭に痛みが走る。
「まだ戻らない。どうしたらいいのかわからないし。悟が嘘をついてないことはわかるけど、まだ気持ちが整理できてない。もし悟の言うことが正しかったとしてもすぐに許せるかって言われたら、まだ許せない気もする」
天井のシミはため息をついた。上からふっと冷たい空気が流れてくる。
(たかが一回、サトウと寝たことが許せないの?)
「正直、それはどうでもいい気がしてるけど」
(じゃあ、義務的なセックスが引っかかってる?)
幸子は冷たい空気を押し返すように、ふっと息を吐いた。
「まあ、それは引っかかってる。悟がそんな風に思ってて、結婚生活続けられるか自信ない」
(悟の発言かわからないでしょ。サトウが言っただけかもしれないじゃない)
天井のシミは優しく諭すように語る。
「まあ、そうだけど」
(それって、そこまで天秤にかけないといけないことかな。自分の想像だけでしょ。わからないことをごちゃごちゃ考えて、見ないといけないものを見ないようにしてるようにしか思えないけど)
幸子は返事をしなかった。確かに天井のシミが言うことはわかる。そうは言っても、幸子は自分の中で落とし所が見つかっていなかった。
それに、勝手に家を出てきて悟からの連絡を無視し続けている手前、どういう顔をして戻ればいいのかもわからなくなっていた。
(そんなに受け身でいいの?)
「受け身のつもりはないけど」
(悟が迎えに来てくれたら、許そうとか思ってる?)
「そんなつもりもないけど」
(自分から素直に戻れない理由があるの?)
「よく分からないし、考えたくもない」
天井から、じめっとした空気が流れてきた。天井のシミのため息。
(はぁ。幸子はさ、いつまでたっても甘えん坊だね。赤ちゃんみたい)
「どういうこと?!」
(だってさ、そうでしょ。いつも誰かに守ってもらってさ。今回だって悟は謝ってるのに、まだ謝ってくるのを待ってるんじゃないの?)
「だって悪いのは悟でしょ」
天井のシミの語気が強くなるのに合わせて、徐々に幸子の語気も強くなった。
(いつまでも受け身じゃダメじゃないの? って言ってるの。そんなんじゃ何をしたって一緒だよ。なんでも誰かのせいにして、自分は変わろうとしない)
「誰かのせいになんかしてないし、変わろうとしてる!」
幸子の声が荒ぶる。
(そんなこと言ったって、運命は変わらないなんてカッコつけちゃってさ。変える気がないんだよ)
「変わらないものは仕方ないじゃない!」
狭い部屋に反響する自分の声が頭に響いた。頭が割れるように痛い。
(運命が変わらなくたって、できることを探しなよ。物分かりのいいフリなんかしないで、あがいたっていいじゃない!)
「物分かりのいいフリなんかしてない。悟の浮気と何の関係があるのよ!」
天井のシミの声は実際にはどこにも響かないのに、幸子の頭の中で鐘を打ちつけるように響き続ける。
うるさいうるさいうるさい、私ばかりを責めるな、と幸子は頭を抱えた。
(悟のことを好きなくせに、ちゃんと向き合おうとしないで、逃げてきて。自分が好きだなんてことは伝えなくって、離婚しても仕方がないとかそんなことばかり考えてさ。自分の好きなものも守れないで、いつも守ってもらうことばっかりで。大人になりたいなんて口で言っても、口ばっかりで! ほんと情けない!)
冷たい風が天井から降りてきて、幸子の体はぎゅっと冷たくなる。
「あんたに私の何がわかるのよ!」
幸子は我慢ができなくなって、天井のシミに向かって叫んだ。幸子の声をかき消すように、雨音は強くなる。
ぽたっ。
幸子の顔に一滴の水。
「雨漏り?」
幸子は顔についた水を拭って、天井を見つめた。
(私は、あなたなんだよ)
ぷつんと糸が切れたように、天井のシミの声が聞こえなくなった。
↓ 最終話予告|焼肉定食
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