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味方ができたと嬉しかったのよ

母が私を産んだのは、何歳の時だったのだろうか。

今年70歳を迎える母。
私が今年44歳になるので、私を産んだのは26歳の時になる。私は長子なので、母のはじめての出産。

母は福岡生まれ福岡育ち。
独身の時は事務職の仕事をしていて、夜にはバーテンの真似事もやっていたと聞いたことがある。お酒が大好きで、友達とワイワイ賑やかに過ごすのが好きな人。

父は徳島生まれ徳島育ち。
インテリアデザイナーをしていて、若い時は確か関西だか九州だかで仕事をしていたとかしないとか。
マイペースな芸術家肌の人。

四国と九州という離れた場所で生まれて育った二人は、仕事で出会ったとのことだった。

二人は恋に落ち、父が徳島に戻り、母は福岡から徳島へ嫁ぐことになった。
父が住んでいた場所は徳島の田舎の方で、一人一台、車を持っているような環境。本家や分家などもあり、嫁へ向けられる視線は今とは比較にならない程、厳しいものだったと母は語った。

携帯電話もない時代。嫁ぎ先には友達もいない。
母は免許も持っていないから、自由にあちらこちら行くことも叶わないし、今のようにSNSで愚痴をこぼすこともできない。

その時の母は、孤独だったらしい。

華やかな場所で独身を謳歌していた実家暮らしの母が、友人も頼れる親もいない場所で、嫁として生活をするのは苦労したことだろう。

洗濯物の干し方、料理の味、生活習慣。
ありとあらゆる自分に関する情報は共有され、審査され、見張られていたと言っていた。

もちろん、それが真実かどうかは分からない。
しかし、障子の桟を指で拭い掃除のチェックをするような描写が当たり前の時代だったのだろうし、それぐらいのプレッシャーを母が感じていたことは間違いない。

私が生まれてきた時のことを母はこう言っていた。
「やっと私に味方ができたと思った。嬉しかった」と。

私は父にも母にも、当時同居していた祖母にも可愛がられて育ってきたという自覚がある。恵まれていてたと感じている。
色々と確執めいたものはあったらしいが、そんなものを感じることなく健全に育ててもらった。

母の味方として生まれてきた当の本人である私は、こともあろうに出産予定日より一ヶ月も遅れてお腹から出てきたらしい。
さらには生まれて半年で結核にかかり、しばらく入院していたこともあると聞いたこともある。

生まれる前から心配をかけた上に、生まれてからも心配をかける娘だったことは想像に難くない。

母はやっと味方ができたと思ったのに、その味方は手を煩わせてばっかりで、当時の母には申し訳ないことをしたなぁと思ったこともある。
もちろんどうしようもないことだけど。

母はいつも子どもファーストで、自分のことは後回し。
今もフルタイムで働く娘たちのために、孫のお迎えや習い事の送迎など、孫守に慌ただしい日々を送っている。いつまでたっても手を煩わせる子どもたちが美味しいものを食べたいと言えば、用意をし食べさせてくれる。

味方ができたと喜んだ母は、誰よりも子どもたちの味方としていつも奮闘してくれている。
感謝しかない。

きっと母がいつも味方でいてくれるのは、
誰かがそばにいることが、
誰かが自分を受け入れてくれることが、
無条件に愛してもらえることが、
何よりも心強いことを、誰よりも強く知っているからだと思う。

これからどれだけ母と過ごせる日々があるのかは、私にはわからない。
私は頼りないわがままな娘ではあるが、母の味方でありたいといつも思っている。

お母さん、いつもありがとう。
そして、ずっと味方でいてくれて、ありがとう。




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