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左側に違和感を感じる、その理由。

「そういやさ、最近、この辺りギシギシするんやけど」
鉄平が左のこめかみのあたりを撫でた。

「ギシギシってどういうことなん?」
左側の席に座る太一が眉間に皺を寄せ、聞き返す。

「どういうこと、って言われても。ほんとおかしいっちゃん。なんかさ、寝てても起きてても、ちょっと首を捻ろうもんなら、ギシって音がすんの」
そう言いながら鉄平は首を右に倒す。

ギシっ!!

隣の席に座る太一にも、鉄平の左のこめかみから音が鳴るのが聞こえた。

「マジか。なんかすごい音がしたけど。エグ。それ、肩こりかなんか?」
太一は机に左肘をついたまま、右に座る鉄平の方を見た。
エグいと言いながらも、初めて聞くその大袈裟なほどの「ぎし」という音に、太一はくすくすと笑っている。漫画なら、エクスクラメーションマークが四つくらい付いて、太字のゴシック体で描かれていそうな音だったからだ。

「アホか。顔から音がすんのに、肩こりな訳ないやろ」
「そりゃそうか」
顔から音はするものの、特に不自由がなかった鉄平は、この「ぎし」という音はネタの一つくらいにしか考えていなかったし、太一がそれに笑ってくれたことが嬉しかった。
鉄平と太一は、鉄平の頭から聞こえる謎の「ぎし」という音を聴きながら、空気を鼻からぶふっと吹き出して笑った。

そのタイミングでガラガラと教室の前の引き戸が開く音がした。
その音を耳にして、二人は前を向く。

「きりーつ、キオつけー、れいっ」
「————っす」
「着席」

頭を下げ、そして顔をあげた物理教師田中のおでこにちらりとなけなしの前髪がかかる。
田中は手元に持っていた赤い丸やらバツやらがつけられたテストの束をパサっと教卓の上に置いた。

「テスト、返していくぞー」
答案用紙を一枚手に持ち、おでこにかかった前髪を右手でかきあげた。
かきあげた瞬間に前髪は再び落ちる。

弱そうな毛根。

鉄平は鼻で笑うと、こめかみあたりに違和感を感じ、首を左に傾けた。
ぎし。
また左のこめかみあたりから嫌な音がした。
この音は頭の中に響く。
なんだか錆びているような、そんな音。

ネタになるとは思っているものの、不愉快な音であることに違いはなかった。
いつからだろうか、この音が聞こえ出したのは。
鉄平は思い返した。
多分、物理のテストの時間あたりからだ。

テスト時間の50分がとてつもなく長く感じたその時、この音を初めて聞いた。
最初の数十分は聴こえてこなかったはずだ。
鉄平は配られた答案用紙に簡単に埋められる問題と、選択式の問題の答えを書いた。
しかし、それだけでは答案用紙はまったく埋まらなかった。
白い部分が目立ち、鉄平の目はチラチラした。

手持ち無沙汰になると、他の生徒のシャーペンが机の上を叩く音や、紙の上を滑る音が大きくなっていくのを感じた。
さらには教室の時計の秒針の音までもが次第に大きくなり、耳に入ってくる。

頭の中に教室内の音が響く。打楽器のように響く教室の音は、鉄平の心臓を太鼓のように打ちつけた。次第に心音も大きくなる。
耳から入る秒針の音と心臓の音が重なったりズレたりする。
違和感しかない。
どうせなら心拍が秒針に合わせられるならいいのにと思った。
たまに合い、そしてたまにズレる違和感に気持ち悪さを感じ、その瞬間、胃液が食道を昇ってくるのがわかった。

胃液と一緒に後悔が食道を昇ってくる。
勉強しなかったことへの後悔だ。

鉄平は心音を聞かないようにしようと周りの音に集中した。
誰かの答案用紙の上を滑るシャープペンシルの音を聞きながら、書かれている文字が予想出来たらいいのにと、そんなことを考え始めていた。
その時、突如、左のこめかみから音がした。

ぎしっ。

それが始まりだった。
それから次第に鉄平の左のこめかみから音が鳴る頻度は増えていった。

物理教師田中の授業は極めてわかりずらかった。
物理を選択した自分を後悔したりもした。
しかし、大学受験のためには必須だった。

「もっと、勉強しとくんやった」
皆が次から次にテストを受け取る中、鉄平は呟いた。

鉄平がそうつぶやくと、それと同時に左のこめかみが緩んだ気がした。
筋肉が緩むような、皮膚が剥がれ落ちるような、今までの人生で感じたことの無い違和感。
ゾワッとするような気持ちの悪さ。

何かが漏れているような、そんな気がして鉄平はこめかみを触る。
特に異常はない。手には血もついてない。

出席番号順に名前が呼ばれ、次々に生徒たちが席を立ち、テストを受け取る。

ほっとしたような表情を浮かべるような人もいれば、その場で答案用紙をくしゃっと握り潰す人もいる。

鉄平は、どうせわからないからとテスト前の一週間、教科書をペラペラとめくって勉強したような気になっていたことを今更ながら悔いた。
わからなければ、誰かに聞けばいいだけのことなのに、何を質問したらいいのかもわからなかった。

親が「ちゃんと勉強してるの? テスト前なんでしょ?」といちいち干渉してくるのも煩わしいし、教科書を開けばわからないことばかりだし、やる気になんかなからなくて、開いていた教科書を閉じては、ベッドに転がり、音楽を聴いたりしてしまっていた。

勉強時間<気分転換

そんな中、臨んだテストだった。
今更後悔しても仕方がない。

後悔先に立たずとはこのことだな、と思った。
毎度のことだ。
今度からはちゃんと勉強しようと思うのに、このやる気が持続しないことを鉄平もよくわかっていた。

さっき少し何かが緩んだこめかみが、さらにゆるゆると緩んでいく感覚があった。
緩んだこめかみから後悔が漏れていくような気がした。
勉強をしなかった後悔が、垂れ流されていくような。

鉄平の名前が呼ばれた。
鉄平は席を立つ。
教壇の田中の前に立ち、答案用紙を受け取る。

28点。
赤点だ。

まあ、できた方じゃないかな。
勉強してない割に。
と思いながら、ぐしゃっと答案用紙を握りつぶす。

鉄平は、ため息を吐いた。
群青色の、ため息。
後悔に色があるとすれば、多分、こんな色じゃないかという色。

鉄平は漂う後悔と共に、席につく。

「おい!鉄平!」
太一が席についた鉄平に声をかけた。
鉄平は太一を見た。
太一が目をひん剥いてこちらを見ているおかげで、白目がよく見える。

「どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたも、お前、こめかみからなんか出てるぞ」

鉄平は左のこめかみを触った。
左手のこめかみを左の人差し指から薬指の第一関節でぐっと拭う。
そして、手のひらを見た。

ゆるゆると緩んだこめかみからは、鉄臭い茶色い錆が流れ落ちていた。








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