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コイン・チョコレート・トス_第2話


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🪙 3.75グラム


2月8日(日)

カタンと音がした。

新聞受けに新聞が落ちる音。ブロロロロと新聞配達のバイクのエンジン音が遠くなる。たぶん、明け方の四時半。
まだ外は暗い。

今朝も毛布がずり落ちているが、今日はそこまで気にならないなと幸子は思う。

昨日めかし込んで出かけた先で買った電気ファンヒーターのおかげだ。電気ファンヒーターはコスパとしてはよくないが、当座を凌ぐのにはちょうどいい。
灯油を買う必要もないし、エアコンのように設置も必要ない。

2月7日(土)

電気ファンヒーターを手で持って帰るのはなかなかの重労働だった。

かなり重いとは思ったが、あの寒々としたアパートで生活するには必需品だと幸子は考えた。背に腹は変えられない。
タクシーを使うのも勿体無いので、幸子は理恵のアパートから一番近い家電量販店まで足を運び、その場で電気ファンヒーターの購入を決めた。

「ポイントカードお持ちですか?」
店員からのその質問に、答えを考える必要はなかった。幸子の自宅近くのよく行く家電量販店とは違う家電量販店だったので、当然ポイントカードは持っていない。
「いいえ」
幸子は首を左右に振る。

「ポイントカード作られますか?」
幸子は少し考えたが、もう来ることはないかもしれないから、と「いいえ」と答えた。

帰りしな、やっぱりポイントカード作っておいてもよかったかもしれないと幸子は考えた。もし、自宅に戻らなかったら、新しく住む場所を探さなければならない。もしかすると、次に住む街の家電量販店が、今日行ったところと同じかもしれない。勿体無いことをしたかもしれない、と幸子は思った。

そんなことを考えながら歩いていたら、次第にファンヒーターを持っていた右の指が痛くなってきた。持ち手が食い込んで、かなり痛みを生じてきた。右手で持っている電気ファンヒーターを、左手に持ち替える。

少し歩き、またしばらくすると、今度は左手の指に手提げフックが食い込んだ。幸子は電気ファンヒーターを右手に持っては左手に持ち替え、左手に持っては、右手に持ち替えるを繰り返した。

幸子の目の前で電気ファンヒーターが反復横跳びを繰り返すうちに、いつの間にか家電量販店のポイントカードのことは頭から消え去っていた。

「やばい。内出血しそう」
痛みをグッと堪え、幸子は早歩きで歩く。早く家に帰りたい。
やっぱり、スニーカーで来てよかったな、と幸子は自分のあの時の判断に感謝した。

誤配の新聞のせいで、嫌なことを思い出して朝は本当に最低な気分だった。けれども、外に出て重たいファンヒーターのことで頭がいっぱいになると、ポイントカードのことだけでなく、いつの間にか悟のことも幸子の頭からは消え去っていた。

幸子は理恵のアパートにやっとの思いで到着すると、玄関の前にドスンと電気ファンヒーターを置く。ショルダーバックから玄関の鍵を取り出し、古びれた玄関のドアを開けた。再び指の痛みを堪えながら電気ファンヒーターを手に持つと、部屋の中に運び込む。

一旦部屋で落ち着いてしまうと次に出かけるのが億劫になることを、幸子は自分の性質上よくわかっていた。幸子は電気ファンヒーターを部屋の中に置くと、そのまま近所のスーパーへと向かうことにした。

アパートに着いてからというもの、幸子はできあいの惣菜ばかりを食べていた。理恵の部屋は本当に生活感がなく、ガスコンロはあるのにヤカンも鍋も包丁もない。なんのためのガスコンロなのかは、一度理恵に尋ねてみなければなるまい、と幸子は思う。

ガスコンロがあるからと言って、一時的に滞在するこの場所で生活するために、わざわざ調理器具を買うのも勿体無いと幸子は考えていた。お金は無限では無いのだし、離婚すれば自分で生活費を工面しなければならない。

それに、何より食事を作る元気もないし、と幸子は自分を甘やかして、できあいのものばかり食べていた。

しかし今日の幸子は、心持ちが違っていた。
電気ファンヒーターを手に入れた。今日はあの冷え切った部屋が暖かくなる。

そう考えると幸子は不思議と暖かい食事が摂りたくなった。少しずつではあるが、心が落ち着きを取り戻し、健全な状態に戻ってきているような気がした。

幸子はスーパーに着くなり、陳列棚を物色した。
何を食べようかと、とりあえずざっと陳列棚を見渡す。何せ理恵のアパートには調理器具がない。ちゃんとした食べ物とは言っても、食材を買い調理するということは難しい。

幸子はカップ麺のコーナーを一瞥すると、実家にいた時の土曜日の昼ごはんを思い出した。母親がたまに土曜日のお昼に作ってくれたうどん。それは、アルミ鍋のままコンロにかけられるといううどんだった。

幸子は陳列棚を丁寧に確認し、アルミ鍋のままコンロにかけられるうどんを見つけると、迷わずそのうどんをカゴに放り込んだ。野菜コーナーに行き、カットされた使い切りのネギも放り込む。それに卵。

理恵のアパートには期待を裏切らず冷蔵庫もない。そのため、冷蔵保存しなければならない食材を買うこともできない。けれども、今は真冬の2月だ。これだけ寒いのであれば、卵は常温でも大丈夫だろうと、幸子は1パック卵を手に取ると静かにカゴに入れた。

その時の幸子は少しばかりご機嫌だった。
調子もいいので、久しぶりにお酒でも飲むかなと、ビールも一缶だけカゴに入れる。スーパーで3円の袋を買うと全て袋に放り込み、ガサガサと袋を揺らしながらアパートへの家路を急いだ。

幸子は理恵のアパートとスーパーマーケットの間にある商店街を歩いた。少しだけご機嫌の幸子は、鼻歌まじりで歩き、心なしか足取りも軽い。
温かいものが食べられると考えるだけで、心があったかくなるような気がした。

「私って、単純だな」
幸子は自分の鼻歌を耳にして、思わず独りごちる。

今朝はあんなに憂鬱だったのに、と朝のことを振り返った。たかだか誤配の新聞で、昨日のことを思い出したくらいで、なんであんなに憂鬱だったのかも今となってはわからない。それくらいに今は気分がいい。正直、浮気も許せそうな気分だ、と軽い足取りの幸子は考えた。

とはいえ、実際に悟と言葉を交わしたら、確実にまた苛立ちが復活することは幸子にも容易に想像できた。隙をついてはポジティブな思考をネガティブに塗り替えようと攻めてくる悟のことは考えまいと、幸子は頭を左右に振った。

土曜日の昼間は商店街も賑やかだ。平日は高齢者や主婦、小さな子ども連れのお母さんが多いが、今日は学生もちらほら歩いている。

「今日も疲れたねー」
疲れているという言葉とは対照的なほど元気な明るい声でおしゃべりをしがら帰る女子中学生と、幸子はすれ違った。二人組の女の子だ。制服を着ているのでこの辺りの中学生だとわかる。

「土曜日なのにわざわざ学校行ってさ、頑張ったよね、うちら。この寒い中」
もう一人の女子中学生は、寒さに震えるように体を小さくしながら笑っている。
「ガチで学校寒い。エグすぎ」
女子中学生二人組は、高めの弾けた声でケラケラと笑い合った。

自分と理恵をすれ違う女子中学生に重ねて、幸子は郷愁に駆られた。あの頃はどうでもいいことが楽しかった。全てが新鮮で、そして全てが鬱陶しかった。鬱陶しさすらも友人と共有することで、キラキラと輝いて見えた気がする。
渦中にいる時は変わり映えしない日々にうんざりしていたが、今となってはそれすらも羨ましいと幸子は思う。

冬の冷たい風が、アーケードを抜けた。楽しそうにおしゃべりをしながら帰る女子中学生のスカートがひらりと揺れる。

幸子は改めて女子中学生の制服をチラリと見た。そして、制服が自分たちの頃と同じだと気づく。懐かしいな、とふっと笑う。

気をつけて帰るんだよ、と幸子はすれ違った女子中学生に小さく声をかけた。


理恵のアパートに戻るなり、幸子はダウンコートをハンガーにかけ、手を洗う。

早速、幸子は先ほど運んできたばかりの電気ファンヒーターの箱の前に座った。まずはこれを開封しなければならない。しかし、ハサミがない中で、しっかりと梱包された電気ファンヒーターの箱を開けるのは至難の技だった。

爪切りを持ってきてなかったのが幸いした。幸子は少しだけのびた爪を使い、びっちりと貼られたテープの端をカリカリと猫のように引っ掻いた。
少しだけ捲れたテープをつまむと、幸子は一気にテープを引き剥がした。

きっちりとしまわれたファンヒーターを箱から取り出す。
くるくると綺麗に丸められたコードも取り出して、電気ファンヒーターのプラグをコンセントに挿した。

電気ファンヒーターから暖かい空気が流れてくる。幸子の体の周りがほわほわと暖かい空気で包まれる。
そこでやっと、幸子は自分の体が冷え切っていたことに気づいた。

冷えていることが当たり前になりすぎて、幸子は冷えていることに自分でも気づいてなかった。
かちこちに固まっていた体の力がゆるりと抜けていくと、喉の辺りの緊張もほぐれていくような気がした。

体と部屋の空気があたたまったところで、幸子は台所に立つ。
そういえば今日は何も口にしていないと今更ながらに気づき、幸子は蛇口を捻り紙コップに水道水を入れた。紙コップを口にあて、ごくごくと水を飲む。

スッと喉を水が通るのがわかった。少しだけ暖まった体よりも、さらに冷たい水が体の中心を落ちていく。砂漠で何日も水を飲んでいなかったみたいに、ただの水道水は幸子の体に沁みていった。紙ップの水を一気に飲み干すと、幸子の口からぷはぁと声が漏れた。

「うま」

日本の水道水が美味しいということを、幸子は改めて実感する。しかし、まるでビールでも飲んでるみたいだ、と幸子はふふっと軽く笑う。

「あ! ビール!」
幸子は慌ててビニール袋から缶ビールを取り出した。部屋は暖かくしたいが、ビールまで暖かくなっては困る。理恵の家には冷蔵庫がないので、暖まったビールをすぐに冷やすというのは難しい。

幸子は窓をガラガラと開け、窓てすりにビールの缶を置いた。

体が温まり、喉が満たされると、幸子のお腹がぐぅと鳴った。久しぶりに聴いた腹の虫の鳴き声。

幸子は買ってきたアルミ鍋のうどんのパッケージのビニールを剥がし、コンロの上にとんっとアルミ鍋を置いた。アルミ鍋の中に入っているうどんやスープを取り出す。空になったアルミの鍋に水を入れて、コンロのつまみをカチカチとひねった。

ぼわっと音がして、コンロに火がついた。ゆらゆらと揺れる火を見ていると、不思議と心が落ち着く気がする。ぼんやりとコンロの火を眺めていると、ぐつぐつとアルミ鍋に入れておいた水が沸騰してきた。

幸子は取り出しておいたうどんの袋をぐにっと指で破った。無理やりに袋をこじ開けてうどんを袋から取り出し、沸騰しているお湯の中にうどんを入れる。理恵の家にきた時に買っておいた大量の割り箸を袋から取り出した。パキッと割り箸を二つに割って、箸でうどんをほぐす。

うどんがほぐれたところで、スープと具材を入れた。具材は元々うどんに入っていた小さな油揚とささやかな乾燥したネギ。幸子は追加で卵をぽとんと落とす。卵が煮えやすいようにと、ほぐしたうどんに卵用のポケットを作って、その隙間に落とした。その上からたっぷりのネギを散らす。

うどんをぐつぐつと煮込んでいると、出汁の香りが狭いアパートの部屋中に広がった。その匂いを嗅いだ幸子の腹の虫はさらに暴れ出した。

食べたいという気持ちを押し殺して、幸子は卵が固まるのをじっと待つ。卵の中心が半熟なのが幸子の好みだ。外は少し硬めで、中だけ半熟。卵を半分に割ってもうどんの汁が汚れないくらいの半熟がいい。

そのためには少し長めにうどんを煮る必要がある。うどんの麺が柔らかくなってしまうが、幸子は柔らかいうどんも好きだった。

心が疲れている時のうどんは柔らかい方がいい。
風邪を引いた時に母親が作ってくれたような、箸でつまむだけで切れてしまうような柔らかさがいい。

幸子は理恵の部屋にあった段ボールの上に、アルミ鍋の端をそっと摘んでダンボールの上に置いた。

電気ファンヒーターのおかげで暖まっていた部屋に、うどんの湯気が広がって、朝は冷え切っていた部屋中が、あたたかい空気で包まれる。

幸子は窓を開け、窓てすりで冷やしておいたビールを手に取った。2月の外気にさらされたビールは冷蔵庫で冷やすよりあっという間に冷たくなっている。キンキンに冷えたビールを段ボールの上に置く。

幸子は湯気の出ているうどんの鍋に箸の先端を沈めた。

卵を割らないように、慎重に端の方のうどんをそっとすくいあげる。うどんは箸であげただけで切れるまでの柔らかさはなく、しっかりと2本のうどんが幸子の右手の箸にぶらさがっていた。

幸子は髪を耳にかけ、ふうと湯気を息ではらうと口に箸を運んだ。そのまま2本のうどんをちゅるりと吸い込む。うどんは反抗期を迎えた中学生のようで、素直に幸子の口の中には入らなかった。幸子の口に入る際、少し暴れたため、うどんの先端の熱々のつゆが段ボールに飛んだ。じわっと段ボールの色が濃くなる。

幸子はその光景を横目で見ながら、口の中があったかいうどんと優しい出汁の味で、いっぱいになるのを感じた。

何度か歯でうどんを噛んで、ゴクリと飲み込む。まだ熱々のうどんが喉をとおり、胃の中にすとんと落ちた。体の中心からうどんの熱がじんわりと広がり、幸子は芯から体が温まっていくのを感じる。

「美味しい」
息と一緒に、ほんわりと無意識に漏れた。

幸子は手に持っていた箸をアルミ鍋の上に置き、ビールの缶を手に取るとプルタブをプシュッと起こして、ビールを口に流し込んだ。

暖まっていた喉に冷たい炭酸が流し込まれて、喉がきゅっとする。しゅわしゅわとした喉越しは快感だった。
久しぶりに感じる苦味に人生の苦さを感じつつ、再び幸子はうどんを啜る。

暖かいと冷たいを少しずつ、そして丁寧に繰り返した。
この幸せな時間が終わってしまうのが名残惜しく、普段の幸子では考えられないほどにちびりちびりとビールとうどんを楽しんだ。


2月8日(日)

土曜日は気持ちの良い日だったと、幸子は思い返す。
厳密に言えば、朝から悟のことを思い出すという不愉快な出来事があった日を、幸子は自力で気持ちの良い1日に変えることができたといった方が正しい。

それはオセロをひっくり返すように簡単だった。もしかすると、そのオセロは再び返されてしまうのかもしれないけれど。

まだもう少し寝ていよう。

幸子は電気ファンヒーターのおかげで暖かくなった部屋で、ふんわりとした空気に包まれながら再び眠りについた。

🪙

遠くの方で、今日もアラームが鳴る。特に用事もないのにいつもと同じ時間にアラームは鳴った。

設定されている時刻は、悟の起床時刻より30分早い、朝の6時半。幸子と悟の朝食を作るために設定されたアラームだ。

幸子は毎朝、お気に入りのパン屋で買ってきたカットされていない食パンをカットし、コーヒーを入れる。そして目玉焼きを必ず焼く。悟の目玉焼きはターンオーバーで、幸子の目玉焼きは半熟と決まっていた。

水耕栽培で育てているレタスを数枚ちぎり、ミニトマトができていれば収穫する。収穫したレタスとミニトマトをさっと水で洗う。
白い皿に目玉焼きとレタス、ミニトマトを乗せる。黄、緑、赤のコントラストが映える。毎朝の光景だ。

ライトブラウンのダイニングテーブルに朝食を並べる頃、顔を洗った悟がリビングに顔を覗かせる。
焼きたてのトーストと、淹れたてのコーヒーの匂いに悟はほころんだ。

「おはよう」

それだけで、幸せだった。
幸子はアラームを止める度に、毎朝の光景を思い出しては胸が苦しくなった。

アラームを削除すればわざわざこんなことを思い出す必要もない。しかし、例えアラームを削除したとしても、3年間繰り返してきた光景を忘れることはできないだろう。

きっと理恵がそばにいたら「アラームの時刻も音も変えちゃって、新しい習慣を作ればいいじゃない。いちいち感傷に浸ってるから良くないのよ」とでも言われそうだな、と思いつつ、幸子は「生活リズムの乱れは美容の大敵だから」と目の前にいない理恵に言い訳をしてでも、アラームの時刻を変えることはしなかった。

それは明らかに、悟への未練だった。幸子自身、それには気づいている。

離婚はしたくない。でも、許せない。
幸子はその二つの間を行ったり来たりしては、大きくため息をついた。


電気ファンヒーターのおかげで、幸子の周りの空気は暖かかったが、玄関は相変わらずしんと冷えている。幸子は今日もペラペラの布団を肩にかけて新聞受けから新聞を取り出した。

「冬季オリンピック開幕!!」

太字の明朝体が幸子の目に飛び込んできた。すでに冬季オリピックは5日も前に始まっている。
まさかまた誤配? と、幸子は大きくため息をついた。

「めんどくさ」
幸子はそう吐き捨てると、玄関の冷たい空気を根こそぎ吸い込んで、そして一気に吐き出した。

幸子は昨日と同じように夜月新聞に電話をする。

今日も月俣が2コールで電話に出て、昨日と同じように謝罪をし、昨日と同じように正真正銘の新聞を持ってきて、昨日と同じように頭をポリポリと掻いて、バイクで走り去っていった。

2月3日(火)

悟の起床前、それもいつもより1時間早く幸子はこっそりと起床した。そして、いつものように朝食を準備する。

幸子も一応、悩みはした。出て行くか、出て行かないか。
悩んだ挙句、一人では決めきれなかった幸子は、出ていく準備だけはして、決断をコインチョコに委ねた。結果として、コインチョコは『進め』を選択。
幸子は玄関先で決断を下したコインチョコをバリバリと噛み砕き、悟とお揃いで買った白いスニーカーを履いて家を出た。

好んでお揃いのスニーカーを履いたわけではなく、幸子はそれ一足しかスニーカーを持っていない。

悟にすぐに気づかれないように、幸子はふたり分の朝食を白い皿に乗せ、いつも通りライトブラウンのダイニングテーブルに乗せておいた。いつもの朝の光景だ。

理恵のアパートがある街は、幸子の自宅から電車で約30分の場所にある。幸子はその日、いつ悟が起きてくるかわからないとドキドキしながら、必要最低限のメイクを施して、一番暖かそうなダウンコートを羽織った。
前日に最低限必要だと思われるものを詰め込んだスーツケースを持って、家を出た。

そのまま海外に飛べそうな大きさのスーツケースをガラガラと引き、幸子は駅へと向かう。幸子が引いているスーツケースは、悟と新婚旅行で使うために買ったものだった。

スーツケースはいつも悟が引いてくれた。

「幸子は持たなくていいから」と、悟がスーツケースを右手で引き、幸子は悟の左腕につかまって歩く。

悟と結婚して、幸子は「竹下幸子」から「臼井幸子」になった。
薄幸そうな名前なんて冗談をよく言われたりもしたが、「薄井幸子じゃないし、幸せですから」と返せるほどに、その時の幸子は本当に幸せいっぱいだった。

その時は、じゃない。
浮気に気づくまでは幸せだったと、幸子は思い直す。

しかし、今の本名は「臼井幸子」ではなく「薄井幸子」なんじゃないかと自分で思ってしまうくらいに、幸子は薄幸そうな表情を浮かべていた。
不幸が服を着て歩いていると言われても「そうですよ」と答えてしまいたくなるくらいに覇気もなく、憂鬱そうな空気を纏っている。

不幸が服を着てスーツケースを引いて歩いている。
今から海外旅行に行くみたいなウキウキ感は一ミリたりとも出ていない。誰が見ても家出か夜逃げとわかってしまうくらいの憂鬱さ。

スーツケースを引くと思いのほか手に道路の振動が伝わってきて、不愉快な感覚を覚えた。幸子はこのガタガタと揺れるものを握っているのが苦手だといつも思っていた。例えば砂利道の自転車とか、小刻みに揺れる電車のポールとか。

悟はそれを知っていた。もしかすると、スーツケースを持たせなかったのは幸子に不快な思いをさせまいという気遣いだったのかもしれないと、家出をするためにスーツケースを引いてみて初めて、幸子はそのことに気づいた。

やっとの思いで幸子は大きなスーツケースを駅まで引き、そしてその大きなスーツケースを持って電車に乗りこんだ。火曜日。普通の平日。

平日の朝に電車に乗ることがない幸子は、電車のドアが開いた瞬間に眉をひそめた。失敗した、こんなに満員だったなんてと肩を落とす。

しかも、こんなに大きなスーツケースを抱えて満員電車に乗り込むなんて、迷惑も甚だしい。しかし、幸子は今更戻るわけにはいかなかった。時間帯を考慮して、乗る電車を遅らせるわけにもいかない。なぜなら、出勤する悟と遭遇してしまう可能性があるからだ。

幸子は心の中で「今日だけだからごめんなさい」と鮨詰め状態の乗客に頭を下げながら、スーツケースを抱えて電車に乗り込んだ。ぎゅうぎゅうに鮨詰めになった車内で、白白とした目線を感じるような気がして、幸子は更に気が滅入る。

貴重品の入ったショルダーバックを前に抱え、幸子は入り口付近を陣取った。乗り慣れていない満員電車のど真ん中で、スーツケースを持ったまま立っていることは不可能に近い。

入口付近を確保できたおかげで、幸子の体の前面の安心は約束された。しかし、背後はそうもいかない。鮨詰め状態の車内では、電車が揺れても揺れなくても、幸子の背面は誰かと触れていた。

ダウンコートを着ていてよかった、と幸子は思う。
これが夏だったら、と想像して幸子は暖かい車内で一人鳥肌を立てる。知らない人と肌と肌が触れるなんてことを想像しただけで、全身の身の毛がよだつ気がした。とはいえ、全身脱毛している幸子によだつ毛はない。

電車が走りだしてしばらくすると、幸子のダウンコートがモゾモゾと動いた。幸子はそれを気のせいだと思いたかったが、なんだか嫌な予感がして、再び鳥肌が立つ。

幸子は自分の勘違いかもしれない、とダウンコートを整えるそぶりをしながら、自分の手をお尻の方へと持っていった。幸子は痴漢かもしれないと考えた。しかし、幸子がダウンコートを整えるために持って行ったお尻付近には、誰の手もない。

幸子はほっと一安心して手を前に戻した。するとまた幸子の背面のダウンコートがモゾモゾと動き始める。間違いなく痴漢だ、と幸子は思った。

幸子の背面のダウンコートが捲れ上がる。ダウンコートの中に手が入ってきた。どこの馬の骨かもわからない手が、幸子の臀部に触れる。その手は這うように幸子の臀部をなぞった。幸子はあまりの気持ち悪さに、ないはずの身の毛がよだつのを感じた。

喉がひゅっと息を吸い込んで、幸子の体が硬直する。幸子が硬直しているのを知ってか知らずが、気持ちの悪い手のひらは、無遠慮に幸子の臀部を撫で回し続けた。

声を出したいが、声が出ない。
幸子はどうすればいいのかが、わからなくなっていた。頭の中は混乱し、何もできず痴漢に触られ続け、幸子の目には涙が溜まる。そして、幸子の腰あたりに固いモノが当たるのがわかった。

幸子は犯人が後ろにいると確信した。出入り口のガラスに映った男の顔を一瞥する。窓ガラス越しに、幸子と犯人の目が合った。男が幸子を見てニヤリと笑う。

悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、男なんて死んじまえ!!

幸子は心の中で叫び続けた。その叫びを声に出せ、叫べと幸子が自分を鼓舞した瞬間に、電車は駅についた。犯人を捕まえなければ、と思ったが、満員電車から解放された人たちが次から次に車内から溢れ出した。幸子も押し出されて、電車の外に出た。犯人を確認しようと幸子は振り返る。その瞬間、男と目が合った。ガラス越しに笑った男だ。気持ちの悪い40代前後の男は、再び幸子を見てニヤリと笑うと、人混みに紛れながら改札へと向かっていった。

幸子はスーツケースをガラガラと引いて男を追いかける。しかし、駅構内は人で溢れかえっていた。右を見ても左を見ても、人、人、人。幸子は目で追っていたはずの犯人をいつの間にか見失っていた。

犯人を捕まえることもできず、降りる予定ではない駅で電車を降り、幸子はやるせない気持ちで改札の前に立ちすくんだ。
再び電車に乗る気にはならず、幸子はそのままトボトボと改札口を出た。

この駅からであれば、一時間も歩けば理恵のアパートには着く。スーツケースを引くことで伝わる振動も不快だが、それよりも、満員電車に乗り込む方が嗚咽しそうなほど不快な気がした。満員電車に対する凄まじい嫌悪感が幸子に生まれた瞬間だった。

幸子にはもう電車に乗り込むだけの気力はなかった。


2月8日(日)

誤配の新聞は、幸子を再び満員電車の憂鬱の沼へと落とした。日付を見ただけあの嫌悪感を思い出してしまうほど、幸子にとっては気持ちの悪い朝だった。

幸子は頭を左右に振る。思い出したくない記憶を消すように強く頭を振った。

機嫌よく過ごせた土曜日のおかげで、今日は少しでも悟との今後の夫婦生活を続けるかどうかについて考えることができるかもしれないと期待していた幸子の思考は、再びネガティブな思考に支配されてしまった。

ここ最近、嫌なことばかりが続いている気がする。体に傷なんてないのに、心に傷ができてしまっているような感覚が幸子にはあった。傷は日付を刻み込み、日付を見ただけで傷のありかを思い出させてしまう。

体の怪我であれば治療できるけど、外から見えない心の傷は、自分自身なかなか気づくことができない。記憶と共に蘇り、そこに傷があることを自覚させてくるような、そんな傷。治療の仕方もわからなければ、自然と治るかどうかもわからない。記憶と共に蘇る心の傷はいつまで経っても鮮度を保ったまま、じゅくじゅくと心を腐敗させていくような気さえした。

それにしてもなんでこの誤配新聞は、嫌なことを思いださせるんだろうかと幸子は頭を擡げる。抉るみたいに、ピンポイントで幸子の傷を突いてくる。

新聞受けに入っていた誤配された新聞と、月俣が持ってきた今日の新聞を手に、幸子は畳の上に転がった。

今日新聞は、令和X年2月8日(日)。
誤配の新聞は、令和X年2月3日(火)。

幸子は令和X年2月3日(火)の新聞をビリビリと破る。

天井を見上げると、幸子は薄気味悪い天井のシミに話しかけられたような気がした。
(なんで新聞なんて取ったの?)
天井のシミの口元が、じわりと歪み、幸子には自分をバカにするように笑ったように見えた。

幸子はビリビリと破った新聞をぐちゃぐちゃに丸め、天井のシミに投げつけた。
(ふっ)と天井のシミが鼻で笑う。

「鼻なんてないくせに!」
幸子は思わず天井に向かって吐き捨てた。


なんで、新聞なんてとったんだろう。
新聞なんてとらなければよかった。




↓ 第3話予告|カップ麺

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