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生きるということ

この世に生を受けた時、私は0歳だった。

私は母から生まれてきた。紛れもなく人間だった。
へその緒で繋がれていた母から出てくると、母と繋がっていたへその緒を切られた。私はそこで、人として世界に受け入れられることとなる。

0歳の時、私は大人たちと会話という会話をすることができなかった。
しかし、そのうちに話すことができるようになった。

話し、そして理解することができるようになると、大人たちは私に社会というものを教え、世界は私に命というものを教えた。

生まれて1年経つと、私は1歳になった。
2年経つと2歳になり、今では生まれてから43年経ったので43歳である。

数え年と満年齢の違いについて考えると、私の頭が混乱してくる。そのため私は年齢云々について考えることを放棄する。

生きることについて考えるために、これから私の歴史について語ろうと思う。



生まれて6年ほど経った頃、小学校というところに入学することになった。そして私はランドセルを背負い、小学校に通う小学生として6年間を過ごした。

小学校を卒業すると中学校に入学し、3年間中学校に通ったのちに、中学校を卒業した。中学校を卒業すると、高校に入学し、こちらも3年間通うこととなった。大学には行かなかったので、専門学校に入り、1年間通ったのちに就職をすることとなった。

そのうちに結婚し、二人の男児を授かり、日々を過ごすうちに今に至る。


私の歴史はそのようなものであり、どこにでも転がっている石ころのようなありふれた人生を生きている。

私にはこの43年間、欠かさなかったことがある。

毎日息をして、毎日息を吐く。
そして毎日ご飯を食べ、毎日うんこをする。
夜になると自然と瞼は帷が下り、そして朝になると無理やり瞼を開く。

生きるということは、きっと、こういうことなのだろうと、私は思う。

うんこをすれば、人類の叡智によりもたらされたティッシュペーパーという素晴らしい素材の紙で私はSiriを拭く。そして、そのティッシュペーパーは、本来私が居住している自治体に納めるべき税金を、他の自治体に納税することでもたらされたティッシュペーパーである。

私の社会的活動と、人類の社会的活動の上に、私が柔らかい紙でSiriを拭くという行為が成り立っている。

うんこをするためには、あることをしなればならないことに触れなければならないだろう。
それは、食事である。

私は世界に存在している生きとし生ける動物や植物の命を、我が身を保つためにいただく。私はそこで世界を知り、命を知る。体内で世界の命は分解され、私の栄養となり私は元気になる。体の中に世界を取り入れたあと、命のかけらがうんことなって私のSiriから出てくるのだ。


排泄という行為一つをとっても、私は社会、世界と繋がっていることを自覚することができる。


生きる。それはすなわち、うんこをすることである。




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