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コイン・チョコレート・トス_第4話

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🪙 4.0グラム


2月10日(火)

遠慮気味のアラームの音。

壁の薄いアパートで隣の部屋に聞こえないように、その日はこっそりとアラームが鳴った。
その時刻4:20。

幸子は今日は珍しく、手に届く距離にスマートフォンを置いた。アラームの音を耳にして幸子はすっと手を伸ばし、アラームを止める。

仕事でもないのに幸子が早起きをするのには、もちろん理由があった。それは、新聞が誤配されているかどうかを確認するという任務のためだ。

今朝早起きをするために、昨晩幸子は午後10時には就寝した。どうせ、やることなんてないからと不貞腐れながらも、新聞が誤配されているかもしれないと、少しばかりワクワクしていたのも事実だ。3回誤配が続いたのだから、4回目があってもおかしくはない。

夕方に一気に食べたカップラーメンのせいで、その日はお腹がいっぱいになっていて、一日一食で済ませてしまった。幸子は悟の浮気や離婚のことばかり考えなくなったことはいいことだと思いつつ、ここ一週間、食への関心が薄いことを危惧していた。幸子はとにかく食べることが大好きだし、食欲は健康のバロメーターだとも考えていた。

何より、食べたもので人は作られると幸子は信じて疑わない。
ウィリアム・ジェームズの名言「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば人生が変わる」の前に「食べ物が変われば心が変わる」を追加して欲しいと思っているほど、食は人を変えると思っている。

それだけ食を大事にして生きてきたのに、ちょっと精神状態が悪くなってきたからって、食事を疎かにするなんて情けないと幸子は肩を落とす。

心なしか肌も荒れてきてる気がする。
これまでの美容貯金を使い果たす前に、なんとか生活を元の水準に戻さなければならないということは、幸子自身よくわかってはいた。しかし、如何せん精神状態が悪すぎなのが影響している。早く問題を解決したいが、一朝一夕で解決する問題でもない。

せめて、今日はなんとしてでも、美味しくて体にいいものを食べよう。

少しずつ頭の中がクリアになっていき、冷静さを取り戻していく自分に安堵した。あのまま家にいたのでは、こんな風に考えられなかった気がしている。一旦、悟と離れたことで幸子は冷静になれている気がした。

冷静になって考えても、正直なところ悟の浮気については、何が真実なのかはわからない。
脅されていたのが本当なのか、実は以前から浮気をしていたのか、元々浮気性だったのか。ただただ今となっては、二人で過ごした楽しかった日々が、幻だったように思えてしまう。

浮気されたことよりも『義務的なセックス』というフレーズが悟の口から出てきたことが、悲しかったような気さえ幸子はしていた。

幸子は自分が子を持つということを人生のプランに入れてはいなかったものの、家庭を持つということや子を望むということは、健全で当たり前のことだという先入観もあった。多分、それは幸子の家庭環境によるものだ。

幸子は何不自由なく育ってきた。実家暮らしを嫌だと思うこともなく、むしろ幸せな日々を過ごしてきた。明らかに幸子は恵まれていた。

男性は苦手だと思いつつも、頭の隅で実家のような家庭を築きたいという気持ちが幸子にはあった。幸せの象徴は目の前にあって、それを無意識のうちに求めていた。自分にはそれは叶わないことだと思いつつも、悟と出会ったことで、押さえ込んでいた願望があらわになった。

結婚の執着地点に子育てを置いたことを、今更ながらに幸子は反省していた。『義務的なセックス』と言われてしまうほどに、妊娠が結婚生活の目的になっていた。最近は子どもを望まない夫婦もいるし、いろんな事情で妊娠が難しい人もいるのは知ってたけれど、幸子はそれを自分ごととして捉えきれていなかった。

結婚して3年。妊娠しないことに幸子は焦りを覚えていた。しかし、子どもができない理由を深く考えたくなくて、幸子はきちんと原因を調べることはしなかった。民間療法やよくわからないインターネットの情報に縋りつき、食べ物にこだわり始め、生活習慣にもこだわり、基礎体温もつけて、妊娠しやすいという食品を調べては積極的に食べた。サプリメントもとり、悟にもそれを強要した。

それが1年続いた。不妊治療には踏み切れなかった。幸子か悟のどちらかに問題があったらと考えるのが怖かったからだ。

パート先の先輩が、「3人目の時はセックスなんてしてないよ。私、マリア様なの」と冗談めかして言っていたことを思い出した。初めは意味がわからなかったが、体外受精だったらしい。

珍しくもない話ではあるが、それを聞かされた幸子は、どう返答していいのかわからなかった。

幸子はできれば自然に妊娠したいと思っていたし、まだ、30歳になったばかりだし、焦らずとも、と楽観視したい気持ちもあった。
そのうちに妊娠できるだろう、と。

そんな風に口では言っていたものの、内心はそうではなかったのかもしれないと幸子は自分自身の胸の内に気づいてしまった。その結果、いろんなことにこだわりすぎているのは、幸子自身も当時から気づいていたような気もする。

自分の必死さが悟には痛々しく見えたのかもしれない、と幸子はため息をついた。

『義務的なセックス』

このたかだか8文字に悟の妊活への考えが詰まっているような気がしてならなかった。もしかして、佐藤佑美が勝手に言っただけで、悟の言葉ではないのかもしれないけれど。

すでに悟の言葉全てに懐疑的になっている幸子は、悟がそんなことを言うはずがないと言い切れなくなっていた。悟への信頼が、脆くも崩れていくのがわかる。

そういえば悟が、「幸子とだったら二人でも楽しいんだし」と繰り返し言っていたことを思い出す。
もしかすると本音だったのかもしれないが、当時の幸子は悟が幸子の必死さを横に逸らそうとしているような気がして、素直に受け取れなかった。

今のひねくれた幸子は、反芻するその言葉をより懐疑的にみてしまう。妊活をあまりよく思っていない悟の抵抗だったのかもしれないとさえ、考えてしまう。心に距離があったのかもしれない、なんてことを考え始め、心が離れてたなら、浮気くらい平気でするんじゃないのだろうかと不穏な思考が頭の中を巡りだす。

全然、冷静なんかじゃない。まだ、私の中で結論は出せない。
幸子ははぁとため息をついた。

それより何より、今は新聞を確認するのが最重要だ。
謎の誤配新聞が届いているかを確認することが、今日の最大の任務である。

悟とのことは、その次に考えればいい。

目を開けたまましばらく布団の上で転がっていると、カタンと新聞が入った音がした。幸子は、勢いよく布団を蹴り飛ばす。

部屋は電気ファンヒーターのおかげで今日も暖かい。布団を肩からかけるのも面倒くさくなり、幸子は寝巻きのまま玄関に向かうと新聞受けから新聞を取り出した。
まずは日付を確認する。

令和X年12月22日(月)

やっぱり誤配だと幸子はガッツポーズをする。これでタイムスリップができる。幸子の心は弾んだ。怖いなんて感情は全くなかった。どうにでもなれという気持ちの方が強い。

この誤配は私に何かを伝えようとしているのではないか、と言うような気さえしていた。幸子は、私が自分の人生の主人公なのだし、と胸を張った。なんでもできそうなほどに幸子の気は大きくなっていた。無敵というやつだ。

思い返せば、これまでの誤配された新聞の日付は全て振り返りたくない、幸子にとって非常に嫌な日ばかりだった。
ということは、タイムスリップをすれば、もしかすると何かを変えることができるのかもしれないという期待を、幸子は抱き始めていた。


12月22日(月)

幸子はパートで働いていた勤務先を、その日突然辞めた。

幸子が勤めていたパート先は、みんなとても良い人たちばかりで、幸子にとって素晴らしい環境だった。自宅からも一駅で行くことができたし、歩いて行くことだってできた。

勤務時間も、10時から夕方の4時までとちょうど良い時間帯だった。仕事内容も幸子の得意な書類整理やデータ入力がメインで、幸子にはあっていた。電話対応をすることもあったけど、基本的には取次がメインだったし、苦情の対応も少なくて、幸子にとっては本当に快適な職場だった。

ただ一人の社員の存在を除いては。

隣の係の社員の田中。こいつがどうにも不愉快な男だった。

社員、パート関係なしに女性と見れば見境なしに声をかける。単にコミュニケーション能力が高いのかと思えばそうでもない。営業職なのに事務所にいることが多く、外回りをしている様子があまりない。見た目は特段特徴のない地味な男性だが、シャツの裾がズボンからはみ出ていたり、とにかく営業職とは思えないくらいだらしない。黒縁メガネをかけているが、あまりサイズがあっていないのか、いつも右手でくいくいと鼻の上の部分を押し上げている癖が目立つ。

成績も常に最下位で、なんでこの男がクビにならずに済むのだろうかと幸子はいつも思っていた。

幸子は首にならない田中のことが気になり、先輩であるパートの林美保に一度だけ田中について尋ねたことがあった。
「なんで田中さんって、辞めさせられたりしないんですか?」

林美保は、ああ、という顔をした。
「田中さんでしょ。コネ入社なんだって。ここのメインの取引先の重役の息子かなんかだって噂。だから好き放題してるらしいよ。仕事もできないから、親の会社には入れなかったんだろうって話だけどね。迷惑な話だよね。臼井さんも、気をつけてね。前に田中さんに気に入られて、フッちゃった子が辞めざるを得なくなっちゃったことがあったから」
林は苦虫を潰したような顔をした。

「え? その話、ホントですか? 田中さん、ひどいですね。辞めさせられるとか信じられない。ヒドい話ですね。 まあ、私は大丈夫ですよ。結婚してるし」
林に釣られて幸子も苦虫を潰したような表情を浮かべる。

「そうだといいけど。まあ、触らぬ田中に祟りなしだからねっ」
林のアドバイスに、幸子は思わず吹き出した。

本当に田中は仕事をしないだけでなく、邪魔ばかりしてくる迷惑な男だった。
男性社員の仕事の手伝いなど一切しないが、女性社員やパートの手伝いは率先してしようとする。手伝いならばいいのだが、とにかく邪魔なのだ。
やたらとベタベタと触ってくるし、余計なアドバイスが多い。こちらから触ることはないので祟りは起きないが、本当にやめてほしいと幸子はいつも思っていた。

アドバイスにしても、どれもこれも知識が中途半端で、何の役にも立たないことばかりだった。初めのうちは、ちゃんとしたアドバイスだと信じて疑わないので、みんなアドバイスどおり作業をする。その結果、ミスが発生し、誰もが混乱してしまう。田中の人間性がわかれば、誰も田中の言うことを信じないので問題はないが、初めのうちはただのいい人に見えたりもするので、無用なトラブルを引き起こしてしまうのだ。

どこからどう見てもセクハラ、パワハラだと思うようなことがあっても、祟り神に祟られるのを恐れて誰もが声をあげにい状況だった。課長がそれを見かねて、タイミングを見計らっては田中に仕事を振り、女性社員やパートから田中を引きがしてくれたりはした。

そんな様子を見ながら、幸子は課長も大変なんだろうな、と感じていた。

12月頃から、田中の幸子へのセクハラはエスカレートしていた。ある日、幸子が体のラインがでるニットを着ていたのがよくなかったらしい。
幸子は好んでボティラインが出る服を着ることが多いが、それはスタイルの維持のためであり、男受けなどは全く意識していなかった。
ただ、好きなものを着てるだけのこと。

愛想よく対応するのも、分け隔てなく接しているだけで、田中が好きだということでは決してない。社会人として当たり前のこと。

それなのに田中は、どういうわけか幸子が田中に気があると思ったらしい。田中の思考回路は田中の都合のいいようにできている。

クリスマスを直前に控えた12月。
独り者の田中は、一人で過ごすクリスマスを避けたいと思ったのか、積極的に幸子に接触してくるようになった。どう考えても既婚者の幸子にアプローチするより、未婚女性とマッチングアプリで出会った方が早いとは思うが、田中はその辺も抜けている。と言うよりかは、機械音痴な田中はマッチングアプリを使うことができないのかもしれない。

最初はいつものことだと幸子も適当にあしらっていたものの、結婚しているということを気にして幸子が積極的になれないのだと天才的な勘違いをした田中は、さらに幸子に執着するようになった。避けても避けても隙を見ては近づいてくる。

そして来たる12月22日。

課長がクリスマス限定のチョコレートのボックスを買ってきてくれた。3時のおやつに食べましょうという話になり、みんなのテンションが上がる。
人気のチョコレート専門店のチョコレートの限定ボックス。

幸子は14:40頃、チョコレートと一緒に楽しむためのコーヒーを淹れるため、一人給湯室にいた。

幸子はチョコレートがとても好きだ。
課長が買ってきてくれたお店のチョコレートももちろん大好きだったが、残念なことに幸子はこれまでクリスマス限定商品を食べる機会には恵まれなかった。

なぜなら、クリスマス期間になるとその店はいつも長蛇の列になる。あまり行列に並ぶことが好きではない幸子は、長蛇の列を横目で見て羨ましいなと思いつつも、クリスマス限定商品には手を出せずにいた。

給湯室でコーヒーを入れている間、幸子はチョコレートの味を想像した。
口の中からじわっと唾液が上がってきて、不思議と口の中がチョコレートの味がしたような気がした。

その時、給湯室に足音が近づいてきた。
幸子は林がコーヒーを運ぶのを手伝いにきてくれたのだろうと思った。

「林さん、ありがとうございます」
幸子が振り返ると、そこにいたのは田中だった。
粘着体質の田中は、幸子が一人になるところを見計らっていたのだ。

幸子が一人でいることを確認すると、田中はいきなり幸子に抱きついた。
そして、耳元で「やっと二人きりになれたね」と囁いた。

あまりの気持ち悪さに、幸子は「ぎゃあ」と叫び、田中を突き飛ばした。そして思わず田中の顔面に平手打ちを喰らわせる。その瞬間、いつもずり落ちている田中の黒縁メガネが勢いよく吹っ飛び、カラカラと給湯室の外まで飛んでいった。

突然平手打ちをされて、かっとなった田中が幸子のニットを掴んだ。田中の右手がわなわなと震えている。

幸子は田中の右手を見つめながら、ニットが伸びるじゃないか、お気に入りなのに、と余計なことを考えてしまった。そのため、逃げるのが一瞬遅れた。幸子は殴られると思い、思わずぎゅっと目を瞑る。

するとどこからともなく「どうしたの?」と慌てた様子の林の声がした。本当にコーヒーを運ぶのを手伝いに来ていた林が、幸子の叫び声を聞いて慌てて給湯室に駆け込んできたのだ。

林は給湯室に入ろうとした時に、給湯室の前の廊下に落ちていた田中の眼鏡を踏んづけた。
バリッと音がして、田中のメガネのフレームがひしゃげる。

「えっ?! 何?」
田中のメガネを踏んで慌てた林は、自分が踏んだものを確かめようと腰をかがめて手を足下に伸ばした。靴の下敷きになったひしゃげた眼鏡を手にとる。

「メガネ? なんでここに?」
田中のひしゃげた眼鏡を手に、林は小首をかしげた。田中は林が手に持っている眼鏡を一瞥すると、林の手から眼鏡をひったくり、給湯室から慌てて出て行った。

幸子には林の背中に後光がさしているように見えた。
「マリア様」
幸子は思わずつぶやいた。

その日結局、幸子は楽しみにしていた高級チョコレートを食べ損ねた。

田中から襲われそうになった後、事務所に戻ると、すでに田中がないことないことを課長に申し入れていた。
職場の誰しもが田中に非があることはわかっていたけれど、ここで口を出せば火の粉が自分に降りかかることもわかっていた。

いじめを見て見ぬふりをするのは誰しも心が痛む。幸子は進言出来ない人たちの胸中がわかる気がした。口を出せないのもやむを得ない。家族がいる人もいるし、みんな生活がかかっているのだ。幸いにも幸子はパートであり、夫が正社員で働いている。ここを辞めたからと言って路頭に迷うわけではない。

林が心配そうに幸子に寄り添ってくれた。
「私が説明しようか?」
と本当にマリア様のように幸子の気持ちに寄り添ってくれている。しかし、マリア様を次の田中のターゲットにするわけにはいかない。幸子はあの田中の顔を見なくて済むならそれでもいいかと思い始めていた。

心配をかけたくなかった幸子は、「大丈夫です。ご心配おかけしてすみません。私、祟り神に触っちゃったんです。強烈なお触りしちゃったんです」と力なく笑った。そして、その場で退社のために荷物をまとめた。

課長が買ってきてくれた高級チョコレートの紙袋に、必要なものをまとめながら、幸子は田中の様子を一瞥する。片付けのために再び職場に来ることも考えたが、もう田中の顔は見たくない。机の上を雑巾で綺麗に拭いて、私物は紙袋に全てしまい込んだ。幸子は田中の左頬にくっきりと平手打ちの赤い後が残っているのを確認する。

幸子は机を拭いた雑巾を握りしめ、田中のところまでカツカツと歩いた。
「左の頬赤くなってるんで冷やしたほうがいいですよ」
握りしめていた雑巾を田中のデスクに叩きつけた。

幸子の精一杯の抵抗。

最悪の一日。
帰って悟に話をしようとしたけど、ちょうどその日は年末進行の仕事があるらしく、悟は残業だった。

疲れて帰ってきた悟にその話をするのがはばかられた幸子は、次の日の朝、悟に退社の話をした。
悟は心から心配をしてくれた。
「年末だしゆっくりしたらいいよ」と幸子は悟の優しい笑顔に癒された。


2月10日(火)

あの最悪な1日に戻れるんだ、と幸子は思った。

何かができるとすれば、やっぱり田中への報復だろうか。
田中が給湯室で抱きついてきたりしなかったら仕事を辞める必要もなかったんだと、幸子は田中への恨みを募らせた。

幸子は年始から仕事を探し始めたものの、あの会社ほど良い会社は見つからなかった。
「焦るといいところ見つからないし、ゆっくり探せばいいよ」
悟が優しく励ましてくれたので、春頃までにゆっくり仕事を探すことに頭を切り替えたものの、田中を除けば、あの会社への未練があったのは事実だった。
田中の相手なんか適当にして、あの出来事も流しておけばよかったと、幸子が後悔したのも間違いなかった。

しかし、報復の二文字が幸子の中で引っかかった。

仕返しは何も生まない、そう言われて育ってきた。恨みを恨みごとで返したところで、幸子は気が晴れるとも思えなかった。

でも、それならなぜ今日も新聞が誤配されているんだろうかと幸子は新聞を見つめながら考えてみる。そこに意味なんてないかもしれない。
そうは思いつつも、幸子は意味があるような気がしてならなかったし、それより意味を見出したかった。

幸子は躊躇した。タイムスリップしようか、するまいか。どうにでもなれ、なんて思っていたけど、実際にどうにでもなる状況になってしまうと、ためらってしまう。きっとこれが理恵だったら、悩まずに行くだろうと幸子は思った。

そんな時は、と幸子はショルダーバックから黒いものを取り出した。
お手製ブラックジャック。

数年前にYouTubeだったかTwitterで作り方が流れてきて作ったものだ。厚手のハイソックスに小銭を詰めて小銭の上あたりをきゅっと一つに結ぶ。
振り回すと、遠心力と小銭の重さで車のガラスさえも割れるという武器になる。

銃刀法に違反しない簡易的な武器。
それにお金に困った時は、小銭も使えるという一石二鳥の優れもの。

幸子がブラックジャックを作った当時、新幹線の車内でナイフを持った人が暴れ回ったり、バス停で突然男が包丁を振り回すというニュースが連日テレビ画面に流れていた。
連日世間を賑わせていた犯人は、どちらも被害者に恨みがあったわけでもなく、完全な無差別だった。

いつどこで事件に巻き込まれてもおかしくない時代になったと、メディアは煽り立てた。

幸子はただでさえ夜道を歩くのが怖かった。そんなニュースを見続けて、昼間ですら出歩くのが怖いと思うようになってしまった。

悟はそんな幸子を心配して、お手製ブラックジャックをお守りに作ってみようと提案してくれた。幸子は厚手の黒のハイソックスを買ってきて、銀行で一万円札を小銭に両替した。

新品のハイソックスに小銭を詰めていく。使い勝手があった方が良いよね、と500円玉や100円玉を多めに詰めた。1円玉や5円玉は念のため程度に詰める。

最後に悟はどこかで買ってきたというコインチョコを5枚入れた。

「なんでコインチョコなんて入れたの? 割れちゃうんじゃない?」
幸子は悟に尋ねた。

「割れるようなことが起こらないようにっていうおまじない。それに幸子、すぐにお腹空いたって言うからね。ここにコインチョコを入れておけば、非常食になるし」
そう言うと、悟はいたずらっ子のように笑った。悟の目尻に皺が寄る。その笑顔を見て幸子の胸はキュッとなった。幸子は悟のくしゃっとなるその笑顔がとても好きなのだ。

「それに、何か悩んだ時にはこのコインチョコでコイントスをして決めようよ」
「どうやって?」
幸子が尋ねると、悟は入れたばかりのコインチョコを靴下から取り出し、手に取った。
そして、右手を親指を中に入れた形でグーの形に握ると、折り曲げた人差し指の上にコインチョコをのせた。親指でコインチョコを弾く。コインチョコは宙をくるくると舞った。

最高到達点に達したコインチョコはそのまま真っ逆さまに落下。
悟はそれを左の手のひらで受けて、右の手のひらでさっと隠す。

「表で割れていなかったら、迷わず進め。チョコはエネルギー源になる。裏か割れていたら、ちょっと待て。進まずにチョコでブレイクタイム」
「結局、チョコ、食べるんだ」
幸子が笑うと、悟は右の手のひらを開けた。

「表だ」悟が言う。
「迷わず進め!!」
幸子は悟の手のひらのコインチョコを奪うと、アルミを剥いでパクッと食べた。

「あーあ。割れてるかどうかちゃんと見ないと、これだから幸子は。食いしん坊すぎ」
悟はまたくしゃっと笑い、二人で顔を見合わせてケラケラと笑った。

その日からお手製ブラックジャックは、急に自動販売機で飲み物を飲みたくなった時や、レジであと10円あれば一万円札を崩さなくて済む時、夜の散歩中に急にビールが恋しくなった時や、新しくできたパン屋に並んでいる間にお腹が空いてしまった時、焼肉か寿司で悩んだ時なんかに活躍した。

ブラックジャックが武器として活躍することはなかった。ただの財布で非常食。幸子は小銭を作っては入れ、コインチョコを買ってきては入れた。

幸子はショルダーバックから取り出したお手製ブラックジャックの口を開けた。4枚入っていたうちのコインチョコを一枚取り出す。いつもは必ず5枚入れているが、1枚は家を出る時に食べてしまった。不思議とブラックジャックがいつもより軽い気がするが、コインチョコレートを食べてしまったせいだろうか。

幸子は悟みたいにうまくコインチョコを投げられないので、つまみ出したコインチョコをそのまま天井に向かって放り投げる。いつもと違う場所で投げると力加減がよくわからない。

コインチョコは勢いよく宙を舞い、低い天井にコツンとぶつかるとそのまま急降下した。幸子は慌ててコインチョコを両手でキャッチする。そろりと左手を下にして、右手を開けた。

ーー表。

「迷わず進め?」
幸子は独りごちてから、コインチョコのアルミをゆっくり剥がした。やっぱり割れてない。間違いなく『迷わず進め』だ。

幸子はコインチョコをそのまま口に放り込んだ。

久しぶりのチョコレート。ミルクチョコレート。じんわりと甘いチョコレート。
幸子はコーヒーが飲みたくなった。缶やペットボトルに入ったコーヒーじゃなくて、ちゃんと豆から挽いたコーヒー。

早起きをしすぎた幸子は、新聞を枕元に置くと再び眠りについた。


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目が覚めると幸子は白湯を飲んだ。うどんのアルミ鍋に残ったお湯でポーチドエッグを作ると、買っておいた食パンにのせた。
使い切りの小さなマヨネーズの蓋をあけ、ぐるりとマヨネーズをポーチドエッグの上からかけ、食パンを二つ折りにしてガブリと頬張った。卵の黄身がとろりと顔を出し、マヨネーズと絡まる。

柔らかい食パンが卵とマヨネーズのマリアージュを羽布団のように包み込んだ。口の中がふんわりとトロトロで満たされる。卵のこっくりとした旨みと、マヨネーズの塩気が、食パンの甘みと合わさって最高に美味しい。

「んまっ」

幸子が口を開いた瞬間、黄身がパンの隙間から流れ出した。幸子は慌てて口で黄身を堰き止め、大切なエネルギー源をこぼさないように、食パンに食らいついてきれいさっぱり食べた。腹ごしらえを済ませアルミ鍋をすすぐと、幸子は軽く変装をした。

マスクをつけ、サングラスまでつけてみる。

完全に怪しい人だけれど、知り合いに見つかっては困る気がした。それに自分自身と鉢合わせをしたら、どうなってしまうのかもわからない。

何せ幸子は昨日タイムスリップ初体験を終えたばかり。これまでの人生で未経験だったし、タイムスリップ経験者にもあったことはない。タイムスリップに関するノウハウ本なんかも見たことはなかった。

映画かなんかでよく言われるような、本人同士が鉢合わせをしたらどちらかが消滅してしまうなんてことになってしまったらどうしよう、なんてことも考えた。想像力が豊か過ぎるな、と自分で突っ込みたくなったが、念には念を入れておいた方がいい。

幸子はできるだけこっそり行動しようと思った。どこにリスクが孕んでいるのかが不透明すぎるのだ。

しかしタイムスリップについての危険性を考えてはみたものの、田中への報復の方法は考えていなかった。それに報復そのものをするかどうか自体を幸子は決めかねていた。

とりあえず、この誤配の新聞を手にパート先だった職場まで向かうことだけは絶対にしようと考えていた。

ここから電車で20分前後。そもそも、電車に乗れるのだろうかという疑問を幸子は抱いた。しかし、どうなるかはわからないけど、コインチョコの決断には従うことにした。

幸子はショルダーバックを手に、古い玄関ドアを開ける。新聞は落とさないようにショルダーバックにしまいこんだ。落としてしまっては、また意識を失い元の日にちに戻ってしまう可能性がある。

玄関を出て、まずは携帯電話の日付を確認した。


12月22日(月)

新聞をショルダーバックに入れていてもタイムスリップはできるらしい。幸子はよかったと一安心し胸を撫で下ろした。

幸子はそのまま駅へと進む。このあたりに特段顔見知りがいるわけではないが、どうしても肩に力が入る。

駅までの道すがらにある商店街は、完全にクリスマスムードで、すでに二ヶ月以上前に終わったはずのクリスマスの飾り付けを見るのは異様で、違和感があった。今の時期にクリスマスの飾り付けは季節はずれのような気がしたが、的外れはのは自分だなと幸子はマスクの中で小さく笑う。

駅の改札でICカードをかざすと、違和感なく改札は開いた。問題なく入ることができて幸子は安堵した。
チラチラと人の視線を感じたがマスクとサングラスの怪しげな風貌のせいだろう。

車内は人もまばらだった。先日のような満員電車だったらどうしようかと心配をしていた幸子は、ガラガラの車内に安堵する。先日のような嫌な思いはしたくない。何かあってもすぐに逃げられるように、幸子は入り口付近に立った。

窓の外の景色が走っては消えていく。いつもならなんとも思わない景色だけれど、なんだか今日は感慨深かった。
12月も2月も季節は同じ冬なのに、どことなしか空気が違う。
2月の空気はしんとした静けさがあるが、12月の空気は、華やかで浮き足立っている。吸い込めばヘリウムガスのように、体がふわふわと飛んでいきそうだ。

降り慣れた駅の改札を通り、幸子は職場へと向かった。通りの街路樹は夜のライトアップを控え、まだ光を灯していない電球を体に巻き付けている。
ライトアップすればとても綺麗だけど、昼間のイルミネーションはなんだか間抜けで滑稽にみえた。

どのお店もクリスマスムード一色。こんなことでもなければクリスマス気分を楽しむのにな、と幸子はチラチラと辺りを見渡しながらも足は職場へと向かっていた。

職場が近くなるにつれ、幸子の歩みは足早になる。幸子は向かってくる人とすれ違いざまにぶつかってしまった。
「すみません」「いえいえ、こちらこそごめんなさい」
お互いに会釈してから、反対方向へと歩いていく。

時刻は14:31。ちょうど幸子がコーヒーを入れようかなと考えているくらいの時間だ。急がなければ。

若干息を切らし、幸子は会社に着いた。建物の中に入る。
守衛に声をかけられないかとヒヤヒヤしたが、守衛は目の前を通る幸子のことは気にしていない様子だった。

それどころか、エレベーターに乗っても誰も幸子に挨拶をしないことに違和感を覚えた。乗っているのは顔見知りの人達だ。挨拶くらいはする仲である。

幸子は違和感を覚えながらも、逆に違和感がないようにと、エレベーター内で挨拶をする。しかし、エレベーターの乗客は、まるで幸子が見えていないかのように無視を決め込んだ。

幸子は小首を捻りながら、エレベーターの中の鏡をみた。鏡の中を覗き込み、幸子は驚きを隠せなかった。なんと、そこには幸子の姿はなかったのだ。

透明人間になったのだろうかと幸子は考えたが、そんなわけはないと首を左右に振る。ここに来るまでの間に、人にぶつかった。一言ではあったが言葉も交わした。間違いなく、幸子には実体がある。

初めてタイムスリップをした時、夜月新聞の月俣にも幸子は見えてた。けれども、今この瞬間のように、幸子のことが見えていない人もいるらしい。鏡にだって映ってない。なんだか幽霊みたいだ。生き霊なのか? 私は、と幸子は思考を巡らせる。

幸子はここで一つの仮説を立てた。
もしかするとタイムスリップ先で、私を認識していない人には見えて、私を認識したことがある人には見えないのかもしれない、と。

そんなことを考えているうちに、エレベーターは事務所がある階に到着。
幸子はエレベーターを降り、早速給湯室へと急いだ。給湯室に着くと、カラカラと乾いた音が響いた。

幸子の目の前には田中のメガネ。廊下の向こう側からマリア様が小走りで走ってくる。すでに幸子には林に後光が差してみえた。

マリア様は、全く幸子には気づいていない。幸子とマリア様は急接近した。目と鼻の先までマリア様の顔が近づいてはいるが、マリア様は全く幸子には気づかない。

そこで幸子は自分の立てた仮説が正しいと実感する。やっぱり自分を知っている人には見えてないんだ、と。

マリア様は床に落ちている田中の眼鏡をバキっと踏んだ。そして、その瞬間、マリア様は給湯室の中にいる田中と12月22日の幸子に気づいた。田中がマリア様の手のメガネを奪い、慌てて給湯室から立ち去った。

報復するつもりはなかったが、結局のところ幸子は何もできず、その場で立ちすくんだだけだった。何をしにきたのだろうか、と肩を落とす。報復をしなくとも、その日の自分を救うことくらいはできたかもしれないのに、と。ただそこに突っ立って、12月22日の出来事を目の前で再生しなおして終わってしまった。

マリア様が12月22日の幸子に何があったのかを尋ね、12月22日の幸子は経緯を説明する。
「大変だったね。大丈夫?」とマリア様が12月22日の幸子を気遣う。
12月22日の幸子は「大丈夫です」と答える。
12月22日の幸子の手は少し震えていた。

そうだ。怖かったんだ、と幸子は12月22日の時の気持ちを思い出した。

沸々と怒りが沸いてきた。私は何も悪くない。全ては田中が悪いんだ。ずっと蓋をしていたはずの感情が、震えている自分を見て込み上げてきた。

田中に報復を!!

幸子は12月22日の幸子より前に、事務室に入った。辺りを見渡すが、やはり誰も幸子のことに気づいていない。幸子は完全に透明人間になった。とはいえ、好き勝手するわけにはいかないのではないかという理性が働いた。

大きく歴史を変えたら何が起こるかわからないのが、タイムトラベルの常識だ。確か、ドクもドラえもんもそう言っていた。正直、こんな嫌な未来なら変えたって良いんじゃないかと幸子は思ったが、透明人間に何ができるのかは、全く想像もつかなかった。

幸子が色々と考えている間も、田中は課長へないことばかりを話している。全てデタラメだ。
幸子が色目を使っただとか、仕事を押し付けられていて困っているとか、電話の取次も雑なために取り次がれた方が余計なクレームを受けることになるだとか、入力がいつも間違っているだとか。

誰も信じないのに、さも真実かのように真剣な顔をして話し続けている。流石にひしゃげた眼鏡をかけるわけにもいかないのだろう。眼鏡を外している田中の顔は何の特徴もなくなり、正直なところ眼鏡をかけていない田中と職場以外であったとしても、絶対に気づかないだろうな、と幸子は思う。田中の頬には幸子が平手打ちをした後が赤く浮き上がっていた。

12月22日の幸子がマリア様と事務室に戻ってきたのも気づかずに、田中は嘘八百のうちの第221話くらいを話している最中だった。課長が12月22日の幸子に一瞥をくれ、渋い顔をして頷いた。
12月22日の幸子は、ため息をつきながら頷いている。

田中は12月22日の幸子のその表情を見て、少しほくそ笑んだ。胸糞悪いと幸子は思う。

田中は話し終えると、満足した様子で自席に戻った。幸子はその隙を見逃さない。幸子は田中の席の背後に立った。田中が自席の椅子を引く。
その瞬間、幸子は田中の椅子をもう少しだけ後ろに引いた。田中は椅子と自分との距離を見誤った。

そして、そのまま大きく地面に尻餅をついた。どすんと大きな音がし、田中はその場で蛙のように無様にひっくり返る。そのままの勢いで、今度は椅子の足で頭を強打。

「痛ぁっ!!」

田中の大声が事務室内に響き、皆が田中に注目する。田中の顔が一気に赤くなった。表情だけでは怒っているのか恥ずかしいのかもわからないくらいに顔が赤い。おかげで左の頬の手形が薄くなる。
腰を抑えながら「いたたたた……。大丈夫ですからみなさん仕事に戻ってください」と田中は言い、椅子の位置を確認し再び椅子に座ろうとした。

幸子はその隙に、再び田中の椅子を後ろに引いた。

田中、尻餅リターンズだ。
田中は再び先ほどと全く同じように尻を強打し、再び頭も強打。同じく「痛ぁっ!」と声をあげ、周りがくすくすと笑い出した。
今度は田中の顔が恥ずかしさで赤くなるのが分かった。

流石に3回目はかわいそうだと思った幸子は、ささやかな報復を終えて事務所を出た。

去り際に12月22日の幸子の表情を確認したが、くすくすと笑っているのが見えた。きっとこれで、雑巾を叩きつけるようなことはしないだろう。12月22日の私は、田中に神様からの罰が下ったと思うに違いない。会社を辞めるにしたって、雑巾を叩きつけて辞めるのは感じが悪いと思っていたんだと、幸子は胸がすく思いだった。

晴れ晴れとした気持ちで幸子は会社を後にした。

満足した幸子は、せっかくなのでクリスマス気分を楽しんでから帰りたいと考え始めていた。
そもそも、今日は美味しいものを食べようと思っていたのだ。体にいいかどうかは別にして、食べ損ねた高級チョコレートを買って帰ろう。時間はいくらでもある、多分、と幸子の足は自然とチョコレート店へと向かっていた。

課長が買ってきてくれたチョコレートの店は会社と駅の中間地点にある。幸子はまだ光り始める前のイルミネーションを眺めながら歩いた。しばらく歩くとお目当てのチョコレートショップが見えた。長蛇の列。

幸子はその最後尾に並んだ。

エプロンをつけたイケメン男性店員が「30~40分待ちです」と声をかけながら長蛇の列の横を練り歩く。
「限定のチョコレートのボックスは買えますか?」と幸子の前に並んでいた若い女の子が尋ねると「大丈夫ですよ。まだ十分に在庫はございます」とイケメン店員は爽やかに答えた。

幸子はこの長蛇の列は、チョコレートの味だけではないのかもしれないと若干穿った視線をイケメン店員に向けたが、かつて食べたチョコレートが激ウマだったことを思い出し、心の中でイケメン店員に謝罪した。

目の前の女の子は、少し背が低めで可愛らしい顔をしたいかにもOL風な感じの様相をしていた。かわいいもの好きの幸子は、若い子がオシャレをしているのを見るのは楽しいなぁと若干セクハラ親父のような視線を向けてしまい、思わず視線を地面に落とす。

「もしもし?」

目の前の女の子が突然大声で電話をとった。幸子に人の電話の内容を聞くような趣味はないが、あまりに声が大きいので勝手に会話の内容が幸子の耳に入ってくる。

「あ、リナ? ユミでーす。今日さ、出勤予定だったんだけど、仕事が押しちゃうみたいで出勤できそうにないんだ。ユミ、代わりに出勤できる? ……ありがとー。助かる。……うん。24と25は出勤するよ。会社にもイブとクリスマスは予定があるんでーって言ってるし。だから今日はしっかり本業の仕事しないとねー。クリスマスに出勤しないなんてもったいないもん。せっかくの稼ぎ時なのに。大体さ、普通に仕事するとかダルいんだよね。でも、キャバ嬢だけってのもさ刺激がなくて物足りないし。普通に出会った既婚者に手を出して、最後は捨てるってのがスリルがあって楽しくない? 人のものが美味しそうにみえるっていうか……えー?! 趣味悪くないし。ユミめっちゃいい子だし。だって結局、みんなユミに夢中になるんだよ。アホだよね男ってさ、いつユミに捨てられるとも知らずに……え? 今? 実はさあ、狙ってる男がいるんだよね。優しそうだし、嫁のこと大事にしてるっぽいんだけど。ストーカーで困ってるって言ったら、心配しててさ。嘘に決まってるのにね」
可愛らしい女性が可愛くない話をしながら、くすくすと笑っている。

「でね、今日もね、仕事が押すでしょ。だからさ、終わったらストーカーが怖いから送ってくださいって言おうと思って。いつものパターンなんだけどさ。とりあえず家に連れ込んで、ちょっと睡眠薬盛って、脱がして写真撮っとけばいいかなって。そのあとはどうにでもなるでしょ。……あ、ごめんね。忙しいとこ。じゃあ、今日はよろしくー」
そう言って、ユミは電話を切った。

どこかで聞いたことがあるような話だ。不愉快極まりないし、気持ちが悪い。こんなことが世間では日常的に行われているのかと思うと、幸子はゾッとした。

この女の後ろに並ぶのは不愉快だけど、せっかく並んだんだし、と幸子は諦めた。

人は見た目ではわからないもんだなぁ、と幸子は前の女を一瞥する。いかにも派手な感じではなく、可愛らしい普通のどこにでもいそうな女の子。OLの型を押したような、ファッション紙からそのまま出てきたような女の子。幸子にはキャバ嬢には見えなかったが、きっと夜になると化けるのかもしれない。

それにしても周囲に聞こえるような声で話していて恥ずかしくないんだろうかと幸子は思う。むしろ、聞いてほしいと言うような大声だった。
ユミにすればさっきの会話は武勇伝で、マウントをとっていたのかもしれない。何のマウントかはわからないけど、自分はあなたたちより格上ですよとでも言いたいのだろうか、と幸子はそんなことを考える。

列はどんどん進んだ。長蛇の列だったが、クリスマスの対応のため増員されたスタッフがテキパキと対応したおかげだろう。

ずっと同じ箇所にいなくて済んだのと、40分と言われていたのに27分程度でレジに到着したおかげで、幸子はとても早く買い物ができたような気分になった。

幸子は一万円を超えるボックスを購入。

美しい包装の中には、キラキラとした様々な加工が施されたチョコレートが詰まっている。それはジュエリーボックスさながらで、幸子の胸は弾む。会社では食べ損ねたけど、この中から一つしか選べないなんて、今思えば土台無理な話だった。逆に食べ損ねておいてよかったかもしれないとまで思えた。おかげで今日は自分の食べたいチョコレートを選ぶことができる。

目の前に並んでいたユミも大きなチョコレートのボックスを買っていた。ユミはまたどこかに電話をかける。

「もしもし?」

さっきまでの様子とは少し違って、落ち着いた声色で話し始めた。そんな喋り方もできるんだな、と幸子は使い分けに感心する。

「あ、ウスイさんですか? サトウです。社長に頼まれた限定のチョコレートボックス、無事に買えました。今から職場に戻りますね。あ、あと、今日、仕事遅くなるじゃないですか。以前少しだけ相談したストーカーの件が怖くって。ちょっと帰りに相談のっていただいたりとか、送っていただけたりとかってできますか? 遅いのに申し訳ないんですけど……。あ、ありがとうございます! ウスイさんって本当に頼りになるから。ほんとにいつもありがとうございます。では、失礼します」
ユミは電話を切った。幸子は自分の耳を疑った。

先程の電話でユミと名乗っていた女が、次は自分の名をサトウと名乗った。しかも電話の相手はウスイと言っていた。話の内容が、悟が言っていた佐藤佑美との出来事と完全に一致する。

幸子のスキップをしていた心臓の鼓動が、急に何かに襲われたように駆け出した。

もしかして、この女が悟の浮気相手の佐藤なんだろうか。電話の相手は悟なのだろうか。まさかタイムスリップ先で、しかもこんなところで遭遇するなんて、そんな偶然があるのだろうか。

幸子の動揺が体全体に広がった。脈打つように身体中がドキドキしている。もしかしてタイムスリップする意味は田中への報復ではなくて、悟の浮気を阻止することではないのだろうか。幸子の息が荒くなった。マスクの下の湿度が高くなる。

幸子はまだ目の前にいるサトウユミをじっと見た。これまで幸子は、悟に佐藤佑美の写真を見せてもらったことはない。幸子はまじまじとサトウユミを見つめ、どこかに佐藤佑美とわかるものがあればと探したが、そんなものはあるわけもない。

せっかくいい気分だったのに、再び気分が悪くなってきて、幸子の頭がクラクラする。

この女が佐藤佑美かどうかは、サトウユミを尾行すればわかることだ。サトウユミは今から会社に戻ると言っていた。
サトウユミが戻る先が悟と同じ会社であれば、彼女が悟の浮気相手の佐藤佑美であることは、ほぼ確定だ。

それに、サトウユミが佐藤佑美だとすれば、さっきの会話とその前に話していた内容からすると、悟の言い訳が正しいということになる。記憶にないというのも睡眠薬を飲まされていたのであれば頷ける。サトウユミが佐藤佑美であることが確定できれば、幸子にとって悟を許す材料にもなる。

幸子は気持ちを切り替えて、サトウユミを尾行した。
尾行をするのは人生において初めてだ。幸子の胸はドキドキした。

サトウユミの後をついて行くが、幸子は急に不安になった。尾行っぽさを醸し出しては、サトウユミにつけていることがバレるかもしれない。それに今の幸子はマスクにサングラスと見るからに怪しい。逃げられては敵わない。

悟の会社に行くには必ず電車に乗らなければならない。駅までは一緒なので、そのまま距離をとって歩いたほうが無難なような気がした。

幸子はその後、適度に距離を取りながらサトウユミを尾行し、悟と同じ会社であることを突き止めた。

サトウユミは間違いなく佐藤佑美だった。

このまま悟を待って、何とか悟を止めることができれば浮気を防ぐことができるかもしれない。
確か悟はストーカー被害の相談を受けて、佐藤佑美を送り届けた後に佐藤佑美の自宅で写真を撮られたと言っていた。

多分、それが今日に違いない。
悟の仕事が何時に終わるのかはわからないとは思いつつ、幸子はここで悟を待つことにした。どう考えてもこのために幸子はタイムスリップしたんだと、幸子は信じきっている。

悟の会社のビルの前で、冬空の下待ち続けるのは、正直なところ辛い。幸子は一旦、悟の会社のビルの向かいにあるカフェに入ることにした。

湯気の立つ香り豊かなコーヒーを目の前にして、せっかく美味しいコーヒーを飲んでいるのに、お目当ての高級チョコレートが食べれないことが残念だと、幸子は思う。
ケーキを頼むという手もあるけど、高級チョコレートが待っている。ここは一つ涙を飲んで、ケーキを食べるのはやめようとコーヒーを口に含んだ。

しかし、幸子のそばには1万円もするジュエリーのような高級チョコレートがある。妄想だとは知りつつも、幸子は箱の煌びやかなチョコレート群が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

幸子は窓の外を眺めながら、あたかもその箱がチョコレートの箱ではないという素ぶりで箱の中身を確認した。飲食店で持ち込んだ食べ物を食べるのははばかられる。幸子はその箱はさもジュエリーボックスであるかのようなフリをした。

箱の中には美しくデコレーションされ、光沢のある艶っぽいチョコレートが整頓されて並んでいる。「食べて食べて」とどこからか空耳が聞こえてきて、幸子はその中の一粒だけつまんだ。そして、こっそりコーヒーの皿に乗せた。

幸子は素知らぬ顔で、何もなかったかのように箱の蓋を閉じ、紙袋にしまった。

選んだのは丸いチョコレート。ダークチョコレートとミルクチョコレートの中間の色合い。
チョコレートの上にはチョコレートでくるくるとデコレーションがしてあった。
幸子はそれを半分だけかじる。口の中の熱でふんわりとチョコレートが溶けていく。

チョコレートが解けていくと、口から鼻にかけて高級なカカオの香りが抜ける。中にはプラリネのクリーム。柔らかいクリームとチョコレートが絡まり、口の中が幸福で包まれた。

幸子はそこにブラックコーヒーを流し込む。至福の時。
幸子はたまらずに残り半分のチョコレートを口に運んだ。

時刻は18:00過ぎ。
悟の仕事はまだ終わらないだろう。今日は忙しいと言っていたし、佐藤佑美も電話で仕事が押すと言っていた。

幸子は、近所の本屋で時間を潰した。時刻は19:30を過ぎた。さすがにいつ出てくるかがわからないので、幸子は悟のビルの前で待つことにした。

21:00過ぎ、悟と佐藤佑美がビルから出てきた。
「臼井さん、すみません。忙しいのに無理言って送ってほしいなんてお願いして」
わざとらしい感じに、小首をかしげて会釈する佐藤佑美が目に入った。

「いや、いいよ。今日は佐藤さんが頑張ってくれたおかげで仕事が早く済んだんだし。それにストーカーなんかにあってたら、安心して仕事できないでしょ。早めに解決しちゃおう」
いつもの悟だ。普通に親切な悟。

「ありがとうございます」
この二人の会話に特に怪しい雰囲気はなかった。

幸子は声をかけた。
「悟!!」
悟は無反応だ。逆に佐藤佑美が幸子の声に反応する。

「あれ? この人どっかで見た気が……。あ、チョコレートショップにいた人だ。マスクとサングラスしてて怪しいなって思ったんですよ。え? もしかして私をつけてきたとか?」
佐藤佑美が眉をひそめた。

「あ、でも今この人、悟って言ってましたけど、臼井さんお知り合いですか?」
佐藤佑美が悟の方を見た。

「ん? なんのこと?」
悟がキョトンとした様子で佐藤佑美に尋ねた。
「え? 臼井さんこそ、何言ってるんですか? この人のことですよ」
佐藤佑美が不躾に幸子を指差す。

「誰もいないけど」
今度は悟が眉をひそめた。

あ、と幸子は心の中で叫んだ。悟には自分が見えていないのだ。致命的なことを忘れてしまっていた。チョコレートと一緒にタイムスリップに関する情報が、幸子の記憶から溶けてしまっていた。

幸子は思わずがっくりと肩を落とす。ここまできて何をやっているんだろう、と。力なく前髪がだらりと顔にかかった。

項垂れた幸子を見て、佐藤佑美の顔が青白くなっていく。顔面蒼白。
「え? 幽霊? え? 怖い。臼井さん、早く帰りましょう」
そういうと佐藤佑美は慌てて悟の手を引き、通りのタクシーをさっさと捕まえると、悟をタクシーに押し込んだ。幸子から逃げるようにタクシーは走り出す。

幸子は膝から崩れ落ちた。

何もできなかった。むしろタクシーに乗るのを早めてしまったのではないか。佐藤佑美に余計な時間を与えてしまった。幸子は下唇を噛んだ。

当然だが、幸子は佐藤佑美の自宅を知らない。どうすることもできず、幸子は仕方なく電車に乗り、とぼとぼと理恵のアパートまで帰った。結局、何も変わらなかった。変えられなかった。


タイムスリップをしたところで、運命は変わらないのかもしれない。




↓ 第5話予告|味噌汁


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