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お札になりたい

「お札になりたい」

これは私が中学校卒業の文集か卒業アルバムに書いた言葉だと思う。
思うと書いているのは、はっきりと覚えていないからだ。
確かめようにも手元にそれらはない。

しかし、お札になりたいと書いたような、書こうとして止められたような、いや、やっぱり書いたような気がしている。
突然このことを思い出すくらいなので、書いたのかもしれない。

どっちやねんと独りごちながら、私は今noteを書いている。

中学卒業時、一人一言、何かメッセージを書くというのがあったんだと思う。
それぞれ夢や思い出、ウケ狙いの何かを書いたんだろう。

私は当時15歳の女子である。
もう少し他に何か書くべきことががあったのではないかと、今は思う。

「お札になりたい」

なれるわけがない。

紙幣の肖像画に選ばれる人物というのは、何か素晴らしい功績を残した人物である。紙幣の人物選定には条件がある。

① 偽造防止の観点から、なるべく精密な写真が入手できること
② 肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること
③ 肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること

財務省HP

なんと壮大な夢であろうか。
自分の価値を完全に見誤っている。

最近では43歳にもなって、うんこを連発する記事を書いているし、小説家になりたいだのという大それた夢を語ったりもしている。

私は一体いつから成長が止まっているのだろうかと、甚だ自分の精神面に疑念を抱かずにはいられない。
ああ、お恥ずかしい。

完全に厨二病を患ったまま成長してしまった大人である。



「お札になりたい」


私は中学3年生だった私に言ってやりたい。


「お札にはなれない」


なぜなら、私たちは

人間だもの

みつを


紙幣になんかなれっこないのだ。




偉大な人物になれるかどうかはさておき、夢を語るなら正しく書いてほしかったです。
書いたかどうかも定かでないけどさ。

国語をしっかり勉強しておくべきでした。
「お札になりたい」
ではなく、
「日本の紙幣の肖像画に選ばれるような、偉大な功績を残す品格のある人物になりたい」
が正しかったのだと、今は思います。

果たして、「お札になりたい」がウケたのかどうかも怪しいです。
この記事に関しても、最後まで読んで頂けているかも怪しいです。
モニターの向こう側から冷めた目でこの記事を見つめる目線が突き刺さる気がします。
今日は、「後悔設定」からの「後悔する」を押すことにします。

オチがしょうもなくてスミマセン。今日も読んでくださってありがとうございます。





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