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クリスマスイブ・イブ

春は別れの季節でもあり、出会いの季節でもある。
今年の春、私はそれを体現することになった。

「もうサヤカのことは嫌いになった」

ちょっと信じられないくらいに衝撃的な別れの言葉だった。
「好きな人ができた」とか「僕では君を幸せにできない」とか「こういうところが合わない」とかだったら、まだ理解もできるけど。
嫌いになるってどういうことだろうと、私の頭は混乱した。

やたらと嫌いを連呼する人だとは思っていた。
自分の輪郭がはっきりしているのだろう。自分の中に入れていいものを「好き」、入ってきて欲しくないものを「嫌い」と分類しているような人だった。
にんじんは嫌い、レタスは好き、チーズは好き、ゴルゴンゾーラピザは嫌い、USJは好き、TDLは嫌い、NIKEは好き、FILAは嫌い、電車は好き、バスは嫌い。

そんな感じで、好きと嫌いのボーダーがマリアナ海溝ぐらいに深く彼の中に刻まれているようだった。

そのボーダーを超えることは不可能に近かった。だから私は彼の前ではゴルゴンゾーラピザを食べることはなかったし、クリスマスにTDLに行きたいなんて言ったりしなかったし、バスに乗らないと遊びに行けないような場所へ彼を誘うことはしなかった。

ただ、彼の嫌いなものはどれも私の好きなものだった。

だから私は彼の嫌いなものを楽しむ時は彼の用事がある時を狙って、友達と楽しむようにしていた。
むしろその気遣いがよくなかったのかもしれない。
それに彼はもしかすると自分の嫌いなものを楽しむような彼女は「嫌い」だったのかったのかもしれない。

私はどちらかといえば、「嫌い」を苦手とするタイプの人間で、あなたの嫌いなものを好きな人だっているのよ、といつも彼を諭そうとしていた。
それも彼との溝を深めるきっかけになってしまったのかもしれないと今になっては思う。

私は彼のはっきりと主張するまっすぐな瞳や姿勢、それに低めの声や大きな手が好きだった。
それに「嫌い」がはっきりしている人からの「好き」ほど、嬉しいものはなかった。
好きと嫌いの境界を曖昧にしてどんなことでも好きになりたいと思っている私と、好きと嫌いをはっきりと分けておきたい彼とでは、結局のところ相入れなかったのだろう。


それにしたって「嫌い」は堪えた。


その時が来そうな予感はあったけど、まさか私が「嫌い」に分類されようとは思ってもみなかった。ナイフで抉られると言うよりかは、斧で頭を割られたような即死。

涙も出ないなんて言いたかったけど、泣いた。
ものすごく泣いた。
枯れるくらいに泣いた。


嫌われるってほんとに堪える。
やっぱり私は「嫌い」が苦手だ。

そんなことを考えながらも、泣き腫らした目を擦ることはできなかった。
泣き腫らした目で学校に行くことはできない。
下を向いて泣いて、次の日に備えて冷水と蒸しタオルを交互に当てた。

本当に心から悲しいのに、冷静に仕事に備えている私は悲劇のヒロインにもなりきれないし、あまりの冷静さに笑えてくるぐらいだった。

保健室を訪ねてくる子どもたちは、泣いている子が多い。

怪我をしていたり、発熱していたり、低学年の子はトイレがうまくできなくて泣いていたり。
体に傷がなくても教室に入ることができなくて、心で泣いている子どもたちもいる。
私が泣いていては、彼らがうまく泣けない。

私は努めて冷静でいなければいけないんだ。


🐈‍⬛

まだランドセルが歩いているみたいな小さな新一年生が学校にやってきた頃、私はイブと出会った。
彼と別れた翌月のことだった。

青と緑の混じったような色をした瞳の綺麗な黒猫だった。学校に迷い込んできて、私がイブを保護した。

ペット不可のアパートだったけど、幸いにもオーナーが母親の知人ということもあり、特例で猫を飼うことを許してもらった。
イブがほとんど鳴かない猫だったからよかったのかもしれない。


泣けない私と鳴かない猫。
いいパートナーになれそうだと思った。


名前は私がつけた。
当時うまく息ができなかった私は彼女がそばにいるとうまく息をすることができた。
彼女は私に呼吸を与えてくれた。

イブがいれば、毎日が楽しかった。
特に何をするでもないけれど、私が声をかけるとイブは気まぐれに私に擦り寄ってきた。
本当はかわいい首輪を買って、同じチャームをつけたかったけど、イブは気まぐれな子だったから私は首輪をつけるのをやめた。

ふらっとどこかに出かけて行ったりすることもあったけど、その日のうちに必ず私の元に帰ってきてくれた。

おかげでイブとの出会いがあった春以降は仕事も順調だった。
新一年生が入ってからはもちろん、怪我をする子も多いし保健室を訪ねてくる子も多いけど、心が元気なおかげで毎日が充実していた。

運動会の練習が始まる二学期になったらそれはそれは怪我をする子も多くて忙しい。修学旅行や自然教室の引率の準備なんかもあるし、バタバタする。
それでも私はイブのおかげで深呼吸をして、毎日を元気に過ごすことができた。

運動会が始まった頃から5年生のオサムくんという子がよく保健室を訪ねてくるようになった。
次第に教室にも行けなくなって、保健室登校も増えた。


多分、いじめだ。


こんな時、私の心は切なくて苦しくてどうしようもなくてギュッとなる。
私にできることといえば、彼をサポートするくらいしかない。
でも、徐々に保健室にも来ることができなくなってお休みが増えた時は、私は家でこっそりと泣いた。

オサムくんが休み始めた頃、同じクラスのタツヤくんが保健室に顔を見せるようになった。
5年2組に何か問題があるのは間違いなかった。
オサムくんもタツヤくんも原因を特に訴えたりはしなかった。どちらの生徒もとても心根の優しい子だし、なぜこんなにいい子たちがいじめに遭わなければいけないのだろうと思った。

もちろん5年2組の担任にはこのことを伝えたけれど、あまりいい顔をされなかった。
真正面に向き合ってくれる先生だったらいいのだろうけど、養護教諭にはどうせ担任の気持ちはわからないと思われているのかもしれない。

けれど、ある日を境にタツヤくんは保健室にぱったりと顔を見せなくなった。
休み始めたんじゃなくて、教室に行けるようになったのだ。
私が特に何かをしたわけじゃない。彼に何があったのかはよくわからない。それからも保健室に顔を見せにきてくれたりもするけど、付き物が落ちたみたいに晴々とした顔をしていた。

同じ頃、イブがいなくなった。

雨の日だった。移動遊園地の最終日。
今年はなぜか近所の寂れた公園に移動遊園地が来ていた。連日大賑わいで、あの寂れた公園と同じ公園とは信じられないくらいの賑わいだった。

私のアパートは公園の目の前にある。
私は本当は賑わっていただろう最終日の移動遊園地が雨に打たれるのを眺めていた。
ひどい雨だった。
外の様子を確認しようと少しだけ窓を開けて外を見ていたら、イブが雨の中を飛び出して行った。

水を極端に嫌がる子だから窓を開けても大丈夫だと思ったのが間違いだったのかもしれない。
その後私は傘を差してイブを探しに外へ行ったけれど、イブはどこにもいなかった。

すぐに戻ってくるかなと思ったけど、いつまで経ってもイブは戻ってこなかった。

📄

「先生、どうしたの? 元気なくない?」
タツヤくんが私のため息に気づいて尋ねてきた。

昼休みにタツヤくんが保健室に遊びにきていた時だった。

タツヤくんが元気になって保健室に来なくなった頃、タツヤくんはオサムくんに学校に来いよと声をかけてくれていたらしい。
タツヤくんの働きかけもあって、オサムくんは徐々に保健室には登校できるようになっていた。
タツヤくんは昼休みになるとオサムくんと遊ぶために保健室を訪れるようになっていた。

「飼ってた猫が逃げちゃって」
私は肩をすくめてタツヤくんの質問に答えた。
「どんな猫?」
タツヤくんが前のめりになって聞いてきた。
「黒猫。学校に迷い込んでいたのを先生が飼ってるんだ」
そう言うと、タツヤくんがはっとした顔をした。
「もしかして、水色の首輪つけてる?」
「つけてないけど……」
私の返事にタツヤくんは少しがっかりした様子だった。

「なんで?」と聞くと、
「こないだね、公園で水色の首輪をした黒猫を見たんだ。もしかして先生の猫かなと思って」と残念そうに答えた。
「どんな猫だった?」
「えっとね、モデルみたいな歩き方で、青と緑の混じったような目の色だった」

もしかしてイブかもしれない!
「どこの公園だった?」少し取り乱しながら私が聞くと、タツヤくんは猫を見かけた時のことを教えてくれた。

「ねえ、先生、迷子の猫のチラシとか作ってないの?」
オサムくんに言われて、私は息を止めた。
「あ! 先生、忘れてた〜」
そういうと、タツヤくんとオサムくんは「先生、ドジだな〜」とギャハハと笑った。

タツヤくんとオサムくんが午後の授業を放棄してチラシを作ろうと言い出した。
もちろん私はちゃんと授業に出なさいと言ったけど、二人は「先生が元気ないと俺らも元気でないから。先生がいるから俺たち学校に来れてるんだし。今日は具合悪いってことにしといてよ」と言った。

胸の真ん中が熱くなって、少し涙が出そうだった。私はグッと目頭に力を入れた。

「生意気だな〜」なんて笑いながら、午後の授業は体調不良ということにして私たちは手書きでチラシを作った。

次の土曜日、三人でチラシを公園の周辺のお店に置いてもらえるかどうかお願いしに回った。
スーパー、ペットショップ、ディスカウントストア、パティスリーにコーヒーショップ。
どのお店も快く受け入れてくれてホッとした。

私は最後に回ったコーヒーショップで、二人に甘いカフェオレをご馳走した。
本当はジュースをご馳走しようと思ったけど、二人が「もう5年生だし、コーヒーぐらい飲めるから」なんて格好つけるもんだから、「じゃあカフェオレね」ってことでカフェオレを3つ注文した。

私も一緒にカフェオレを頼んで、肌寒い11月にぴったりの甘くてほろ苦いミルクたっぷりのコーヒーを飲んだ。
スッキリとしたコーヒーの香りが鼻を抜ける。口の中はこっくりとしたミルクで包まれて、砂糖を少し入れたカフェオレは、とぷとぷと冷えきった私の心をドリップするようだった。

タツヤくんとオサムくんは二人でコソコソと「コーヒー初めて飲んだ」「俺、これなら飲める」なんて言い合ってるもんだから、私はぷっと吹き出してしまった。

チラシは置いてもらったけど、連絡は全く来なかった。

だけど私は、どんどん元気になっていくタツヤくんとオサムくんに元気を分けてもらっていた。
イブは気まぐれな猫だし、きっとどこかで元気にやってるだろう。そんなことまで思えるようになった。


🎄

街がクリスマスのイルミネーションで華やぎ始めた頃、その年はいつもは寂れた公園がクリスマスマーケットを始めていた。移動遊園地で味をしめたのかもしれない。
窓から見える公園のイルミネーションは私の心を踊らせた。

元カレだったらこういうの「嫌い」って言うんだろうな、なんて頭の片隅で衝撃的な別れの言葉を残していったあの人のことを思い出した。

そして、ふっと笑ってしまった。
もう、思い出しても悲しくない。

「嫌い」を元カレの持ちネタだと思えるくらいまでに回復している私に気づいた。

二学期の終業式終わり、タツヤくんとオサムくんは保健室を訪ねて来てくれた。
もう二人とも保健室で授業を受けることはなくなっていて、元気に教室に通っているようだ。友達がいるって強いなって思った。

「先生、猫見つからなかったね」
「そうだね。でも、どこかでイブも元気にしてるよ。元々迷い猫だしね」

二人は私の顔を見てホッとした様子で「先生、よいお年を!!」なんて大人びたセリフを言いながら、小学生らしく手をブンブン振って廊下を走って帰って行った。



12月23日(土)

今年のクリスマスは特に予定もない。
ひとり寂しいクリスマスだけど、イブはクリスマスマーケットも混むだろうからと、私は一人、クリスマスマーケットに繰り出した。

三人でチラシを配りに行ったコーヒーショップが出店しているらしい。
私はあれからよく一人であのコーヒーショップを訪れていた。

寒空の下、クリスマスマーケットの中でコーヒーショップを見つけた。
コーヒー以外にもたくさんの美味しそうなお菓子が置いてあった。私の目はアイシングたっぷりのかわいいクッキーに奪われた。
ツリーや星形、人型。ツリーのオーナメントみたいなカラフルなクッキー。

私がクッキーを物色していると横でにゃあと猫の鳴き声がした。

あ、と思った時、猫を抱いている男性に店長が声をかけた。
「ジョージくん、珍しいね。人混み、嫌いじゃなかった?」
黒縁メガネの男性が水色の首輪をした猫を抱いている。

「いや〜、嫌いと言うより人混みは得意じゃないんですけど、この子がなんでかクリスマスマーケットに来たがるんですよ。ほぼ毎日来てます」
少し疲れた様子で肩を落としながらため息をついた。
「まあ、コーヒーでも飲んで行きなよ。でもなんか、猫ちゃん暴れてない?」

ジョージと呼ばれる男性が抱いている猫は、決して喜んで抱かれてる様子には見えなかった。
イブにそっくりの青と緑が混じった綺麗な目の黒猫。

「そうなんですよね。今朝からちょっと様子がおかしくて。すぐに外に逃げようとするし。今日もクリスマスマーケットに行きたがるんだろうと思ったんですけど、なんかちょっと変で。まるで昨日までと別の猫みたいな感じで」
「ふーん。飽きちゃったのかね。で、なんにする?」
「ブレンドにしとこうかな」
「りょーかい」

ジョージが答えた後、店長が私に気づいて声をかけてきた。
「あ、サヤカちゃんいらっしゃい。サヤカちゃんは何にする?」
その時、ジョージと彼が抱えていたイブそっくりの黒猫がこちらを向いた。

私の視線と黒猫の視線がぴったりと重なった。


「イブ?」
私が声をかけると、黒猫はするりとジョージの腕を抜けて、ぴょんと私の胸に飛び込んできた。

イブは私の顔をペロリと舐めて、にゃあと鳴いた。





おしまい






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