砂の惑星

  アラームがカプセルの中に響き渡り、意識の輪郭を浮かび上がらせる。目の前のものにただ圧倒されている。長いあいだ夢を見ていたはずなのに何一つ思い出せない。感覚も記憶も認識すらも、どこか違う世界の手触りに似て、茫漠とした不安の中でまどろんでいる。
 口元に差し出されたパウチが冷たかった。水が流れ込んでくる。やっと私は感覚を思い出す。突き刺すように冷たい水。粘膜を通して体の中に染み込んでいく。
 しばらく待っても職員が迎えに来ない。もう一度夢の中に戻れるだろうかと横になってみるけど、意識は途切れてくれなかった。私はようやく起き上がる。体が重い。脚が床につく感覚が遠い。
 施設の運営は完全自動化されているとはいえ、不自然に静まり返っていた。頻繁に訪れていたはずの見舞客の姿もなく、接客用の人型機はおとなしく充電スペースで座って待っている。少し迷ったが、予定されていた説明や意識の混濁を防ぐプログラムを省略し、受付で人型機に渡された書類にサインだけして施設を出た。
 正面玄関を出ると町がまるまる一つ消えていた。施設は町を一望できる高台に建っていたが、海岸線まで建物がまんべんなく続いていた景観は、すっかり一面砂で覆われている。施設を振り返る。砂の中に埋もれるようにして、かろうじで建っている。初めて訪れたときの新しさや感慨はもはや生じない。正面に向き直り、どこへともわからず歩き出す。砂を踏む感覚は軽い。

 人工冬眠を試してみたいと思ったのは親の遺産の使い途に困ったからだ。母に似て人間嫌いだった私は、社会から離れてどこか遠くの世界に生きたかった。洗面台を広告が清潔な水のように流れていく。「あなたを新しい時代に連れて行く、新世界の時間旅行。安全な睡眠を保証いたします」
 二十三の夏、私はコールドスリープを受けることになった。分厚い同意書にサインした時は、目覚めたら町が砂に埋もれているなんて想像もしていなかった。

 途方に暮れていると、どこからか小さなドローンが飛来して言った。
「おはようございます! ただいま日本時間の午後四時二十四分です」「ああ、はい。人っ子一人見ませんね」「それはもう。今日は本当にうってつけの日ですね」「なにに?」「新しい旅路に!」
 ドローンが知らせる時報に返事をしたこと自体が馬鹿らしく思えてきて、私は黙る。足元は砂に埋もれて歩きにくい。道が残っていない。それどころか、誰にも会えない気がして不安になる。こういう事態は事前に説明された保険の補償範囲に含まれていたのだろうか。こういう―――文明が荒廃して誰にも会えなくなるリスクは。
 砂丘の向こうから子ザルが駆け寄ってくる。私は子ザルを抱き寄せる。
「生きてる……すごく温かいね」
 独り言はかすれていた。久々に使った声帯が錆びついていたのかもしれない。ほっとした心持ちと同時に、急激な喉の渇きに襲われた。首筋を焼く日差しはきつく、足元の砂も熱い。水が欲しい。子ザルはまじまじと私の顔を見つめていたが、ピクリと耳を動かして、地面に飛び降り砂を掘り返し始めた。地中に埋まっていた植物の根のようなものを口にくわえて引き裂くと、水がほとばしった。
「どうゾ」
 子ザルの発した言葉に驚きながら受け取る。根からこぼれる水を口に含むと、驚くほどさわやかで香気があり、冷たい。
「キミ、喋れるの?」
「喋れるヨ」
 人工冬眠前に受けた説明で「目覚めたときにあなたの常識や知識が通用しない、古くなってしまった、時代遅れの人間だと感じられることも出てくるでしょう」とあったことを思い出す。この世界では猿が喋ることができる? この世界では猿が喋ることができる。自分に言い聞かせて正気を保った。
「みんなどこに行っちゃったの?」
「みんなッテ?」
「ほかに人間や動物はいないの?」
 子ザルは首を傾げた。私はあきらめて笑顔を作る。人語を理解すると言っても、相手は猿だ。期待しすぎてはいけない。
「水、ありがとね」
「いいヨ」
「キミ、名前は?」
「アルル」
「私は奈津」
「奈津、足元危ないヨー」
 砂が落下する。どこへ? わからないけど、完全に足を取られてしまった。砂粒に飲まれながら溺れるように落ちた。それは永い眠りに落ちるときの感覚と少し似ていた。

 地面には空洞があったようで、絡まった根がネットのように私の体を受け止めてくれた。私はどうやら、かつての町の上を歩いていたらしい。都市の名残の、ひしゃげた鉄骨が根の支柱になり、網目のように駆け巡る根が膨大な砂を支えていた。網の根は地上に近づくにつれ、人縄梯子のように編まれていて、人の手が入っていることを期待させる。恐る恐る踏み出した地中の世界は暗かった。でも真っ暗ではない。薄明りに照らされている。地面は湿っていて、やわらかに光る苔が生い茂っている。
 目が慣れてきたころ、暗闇にぼんやりと浮かび上がってくる姿があった。半透明のウナギのような生き物が、宙を泳いでいる。急に止まって、体をこわばらせ、砂に近い色になった。それからまた、穏やかに青から緑に体の色を変えていく。
「あれはなに?」
「トビウオ。向こうにもう一匹見えル? ああして表面の色を変化させることデ、仲間と会話していルんだヨ」
 アルルの指の先を追うと、もう一匹似た生き物が、同じように体を曲げながら色を変えている。「あのふたり、ともだチ」アルルが言った。暗がりに飛び交う虫や魚は、どれもやわらかに光っている。妖精みたいだ。こんな風に生きられたらどれほどよかっただろう。

 しばらく行くと崩れたビルの陰に白い山が見えた。人骨がうずたかく積まれている。風化が激しいのか、足元の骨は粉々に砕けていた。
「生きてる人に会いたいな」
「会ってどうするノ?」
 会ってどうしたいんだろう。だけど、とにかく今は寂しかった。人工冬眠する前は誰にも会いたくないと思っていたし、何かの拍子に人類が滅んだらいいとさえ思っていたのに、いざ生き残ってみると孤独だった。
「奈津、さみしィ? アルルがいるヨ」
 子ザルが頬を撫でる。私は微笑む。
「そうだね、心強いよ。ありがとう」
 だけど私が欲しいのは仲間だった。自分と似た形をしていて、感覚を共有できる仲間。ここはこんなに手が行き届いているし、片付いている。管理している人間がいるのは間違いない。
「手入れしている人がいるんでしょ?」
 私の問いにアルルは微笑む。獣に似つかわしくない穏やかな表情で。
「会わないほうがいいかモ」
 目を合わさずに小さく呟く。人類は絶滅したんだヨ。人工冬眠の施設に入っていたのが全部で十二体、とても種を維持して行ける数ではなくてネ。一斉に起こして繁殖してはどうかという話もあったけド、現実的ではないシ、君たちもいやだろウ……。
「嘘でしょ? だって、この」
 地下の世界に文明を築いているのは、じゃあ、いったい誰なんだ? 
 ざわざわ。不意に足元の苔が波打った。遠くから何かが駆けてくる。「アルル!」中型の猿が駆け寄ってきて、アルルをぎゅっと抱きしめた。
「地上は危険だっていつも言ってるでしょう」
「うん、ごめんネ」
 猿が、チンパンジーが私を足元から頭の先まで、じろりと見た。
「また施設のほうに行ったの?」「だって、放っておけなくテ」「だめって言ってるでしょ、また前みたいなことになったら……」
 チンパンジーは私の方を見て、少し語気を弱めた。「行きましょ」そう言ってアルルの手を引き、私から遠ざかっていく。「奈津、なつ、湖には近づかないデ! おねがい、絶対ニ!」アルルが叫ぶ。アルルがいなくなった肩は、やけに軽くて冷たい。私は湖を探して歩きだす。きっとそこに人間の姿がある。

 アルルの言う通り、地下にはいくつもの湖が点在していた。セノーテみたいだ。ひときわ大きく澄んだ湖の淵には発光する地衣類が茂っている。渇きを癒そうと覗き込めば湖面は私の顔をはっきりと映し出した。事前説明にあった通り、眠りについた日とほとんど変わらない容姿でこちらを見返している。
 不意に水面が波立って、湖の中から白い体躯が姿を現した。白く半透明な体は、表面が虹色に輝いている。身長は1.5メートルほどだろうか。生き物は湖からずるりと這い出すと、そばにあった根を波打たせ、それを合図に地面に張り巡らされた根が一斉に水を吹き出し始めた。手品を見ているようだった。きっとこの生き物が地下に道を整備し、暮らしているのだ。アルルの言うとおりだった、ここにはもう人間はいない。
 私はまじまじと彼らを見る。毛穴のない体は均一に光を反射して美しい。湖を覗き込めば、同じような生き物が興味深そうに私の顔を眺めていた。水の中で白い生き物が無邪気に笑う。淡水イルカを思い出す。気がつくと私は泣いている。泣いている私がめずらしいのか、白い生き物たちがたくさん集まってくる。ひときわ青く輝く個体が私のそばに腰を下ろした。青いのが語り掛ける。「大丈夫、君は美しい」私は泣いている。自分に似た生き物がみんないなくなって泣いている。白い生き物たちの肌が静かに、繊細に色を変える。ばらばらの色彩の変化が、穏やかにシンクロしていく。網膜を通して色の信号が流れ込んでくる。感情としてなだれこんでくる。胸が苦しくて、たまらず傍らに座った生き物の皮膚に手を伸ばした。触れたところがたちどころに腫れあがり、黒く壊死していく。でも、彼は逃げなかった。泣き崩れる私を包み込むように、最大限の同情を示してくれる。ためらいながらい手を離すと、光る蛍が集まってきて、壊死した箇所をついばみ始めた。死や暴力さえこんなにも美しいなんて。私は泣いている。どこにつながらない同情をひとりで抱えて泣いている。

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