子どもを持つことへの"想い"は障害の有無に依らない、と思う。

はじめに

旧優生保護法をめぐる訴訟について多くのひとが声を上げている。障害があることを理由に、ひとの身体、その中でも特に根源的な「性」に侵襲したことは決して許されることではない。考え方そのものが誤っていたことを国はきちんと認めて、国民に示してほしい。
そして、この法律が廃止になったのは平成8年、つまり私が生まれた後のことであり、現在も多くの方が苦しまれている。決して「過去のこと」ではないことも知ってほしい。

さて、ちょうど同じ時期に、精神疾患を抱える女性の出産を支援するプロジェクトの広告をFacebookで読んだ。女性の場合、妊娠・出産時に向精神薬を服用することは胎児・乳児に影響があることが指摘されている。そのような状況でも、子どもを産み育てることができるように制度やサービスを充実させようというのがプロジェクトの目的である。

そして、そこへのコメントは、酷いものだった。支持する意見ももちろんあったが、当たり前のように「慎重になれ」「子どものことを考えろ」という意見が出てくる。
こういった意見が出てくるのは、理解「は」できる(実際に表明するかは別として)。でも、なぜ私は違和感を感じているのか、そこを言語化してみたいと思う。

心理学の視点、社会福祉学の視点

以前、心理学の本を読んだときに、「心理学は自然科学であり、冷たい感じがする」と書いた。心理学の立場の人は気を悪くしたかもしれない。それをもっとも強く感じたのは、「児童虐待」に関する部分を読んだからだった。

親に精神疾患があることは、児童虐待のリスクのひとつとされている。これ自体は当事者である私も理解できる。けれど、心理学ではそれを「動かせないエビデンス」として捉え、解決策として「子どもに愛着(アタッチメント)が育つように支援しましょう」と言い、そこで話が終わってしまう。私はどうしてもそれを「冷たい」と感じてしまう。別に心理学が悪いわけではない。それ以上のことは心理学の範疇を超えてしまう、それだけのことだ。

私は社会福祉学の立場である以上、精神疾患がリスクであることを認めたうえで、それでも子どもを産み育てることができるよう、制度やサービスをととのえてほしい、そして、エビデンスそのものをひっくり返せるような社会になってほしい、と思う。

"想い"は変わらない

話を戻そう。なぜ私は「慎重になれ」「子どものことを考えろ」という意見に違和感を覚えたのだろう。それは、それらの発言から「精神疾患のある人は周りの判断をせずに、権利ばかり主張している」と考えているように思えてならないからである。もちろん、子どもを産み育てることは責任を伴うことだし、そのために必要なことはたくさんある。けれど、彼ら(私たち)は権利ばかり主張しているのだろうか?

私はそうは思わない。私を含めた当事者はさまざまな条件を考えたうえで日々選択をしている。
子どもを持つことで言えば、自身の体調や薬の影響、受けられる医療や福祉の制度やサービス、経済状況、周りの人からの支援、パートナーや親世代の想い、生まれてくる子どもへの影響(遺伝やスティグマ、虐待のリスクも含めて)、そして何より本人の希望。そういったものを全部ひっくるめたうえで、それでも「子どもを持ちたい」のである。そして、―ここが重要だと思うのだけれど―そのうえで子どもを持つことを諦めた人もたくさんいるはずなのである。

多くのことを考慮して、それでも「子どもを持ちたい」と思うのならば、それを最大限尊重するのが道理ではないだろうか。そして、そのために支援が必要という話をしているのに、そこで「慎重になれ」「子どものことを考えろ」と言うひとには、「あなた日本語理解していますか?」と言いたくなるのである。

障害や病気がなくても、子どもを持つかどうかはとてもデリケートな問題であり、子どもを持たない、あるいは持つことを躊躇う理由は人によってさまざまだと思う。けれど、子どもを持つという"想い"は障害の有無に依らないのではないか(選択や行動は違ってくるとしても)。もちろん、なかには無計画な妊娠や出産もあるだろうけれど、それとて障害者も健常者も変わらない。

おわりに

それでも、病気や障害を理由に子どもを持つことに反対するひとは出てくるだろう。けれど、その理由の背景に差別や偏見があれば、その差別や偏見を認めて再生産してしまうし、優生思想を消極的に支持していると言えるかもしれない。また、「病気や障害のない(マジョリティの)自分は、子どもを持つことに疑問を持たなくてよい」と無意識のうちに思うのならば、それはとてもグロテスクなことだと私は思う。

病気や障害があっても―あるからこそと言うべきかもしれない―私たちはさまざまな選択をしているし、それだけの力を持っている。それを知ってほしいし、旧優生保護法のように、他人が選択肢そのものを取り上げることはあってはならない。
もう一度言う。エビデンスそのものをひっくり返せるような社会になってほしい。

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