社会構造へアプローチする健康向上活動は少ない?

社会構造へアプローチする健康向上活動は少ないかもしれない
MPHで先日あった健康向上とイデオロギーについての授業からつらつら考えたことを書きます。

平等主義的な視点のみでは、実は個人の不健康という「ミクロレベルでの結果」にしかアプローチできないように思う。なぜなら社会構造にマクロレベルでアプローチしようとしたときには、大衆に対して説得的な功利や実用を考慮する必要があり、ある意味折衷的にならざるを得ない。そして平等主義をとるひとはなかなかこの折衷ができないことがある。健康格差や社会的弱者を主な課題としたときの壁かもしれない。つまり平等主義をとる以上、個人へのアプローチに留まる可能性がある。もちろんアドボカシーは「聞かれない声に、声を与える」価値はあるが最終的に政策などになる段階では折衷な過程が入らざるをえない。

一方で、厚生労働省など従来の保健や予防、健康行政は、マクロな方法にみえて、個人の行動変容や直接的な周辺環境の改善へのアプローチが主なように思う。つまり健康意識を啓発したり健康診断をしたり。一番典型的なのは医療や介護という個人の健康の結果への医療介護サービス。一部には労働衛生や環境衛生はあるが、健康を意識した都市政策/経済政策/教育政策などHealth in All Policiesという横断的に社会構造へアプローチする段階ではない。
これはイデオロギーというより、旧来の狭義での「健康」という認識と、組織体制による課題。

予防アプリ/起業なども多く出てきているけれど、ベンチャー的文化との相性のせいか、自由主義/特に経済自由主義的な色彩が強いものも多く、多くは「リテラシーが高く、サービスへのアクセスが可能な」個人の行動変容などがターゲットになっている。もちろん全てのひとにアプローチすることはできないのだが。

結局、健康に対する社会構造的なアプローチはかなり乏しい。
あるものとしては、疫学研究が「科学研究」という謙虚な立場で発信しているとか。これも研究分野のひとつだけれど、都市×健康はもう少し実践に近い立場かもしれない。
もうひとつは、地域の人間関係を維持構築する取組。社会関係資本に特化してはいるけれど、これは社会構造の一部から構造へアプローチする形だと考える

僕はどうなのか、というと。悩んでいる。
医療にせよ、健康格差への個人レベルでの対応にせよ、基本的にはどんどん社会や政府が「大きく」なっていってしまう。一定程度の「大きな政府」「大きな社会」は必要だが、川の下流で補正し続けることが正しい方法とは思えない。

じゃあ、行政や政治かというと、基本的には枠組みがあっての営み。政治すら既存の枠組みがあって、固定化された行政化した(しかも明文化されない分、公正ではない)枠組みになっていることは昨今より顕在化しているところ。

公正を意識しつつ、功利と実用に配慮した社会構造へのアプローチが、ビジネスでできるか、という点は経験不足もあってまだわからない。

いまのところは、望みがありそうに思えるのは、

・ビジネス…に限らない非営利など含めた民間での社会活動
・既存の枠組みが老朽化して明文化されない行政政治構造が崩れて力を失いつつある地方の行政/政治
・バックボーンとしての研究
なのかな…。

そしてなんとなくウィリアム・モリスら「空想的社会主義」「社会改良家」「アートアンドクラフト運動」などの複合的な活動は、参考になる気がしている。

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