「地域社会の人々は週4-5回、1日30-45分、公正な社会についての合意形成を行うこと」:新しいPublic Healthの推奨

はじめに

前回は公衆衛生に関わる倫理と政治哲学の大枠を抑える議論だったけれど、今回はもう少し各論的なものを2つ。これも講義の参考資料でした。
1つ目は、感染症の時代から慢性疾患の時代に移るにしたがって、公衆衛生の原則は「パターナリズム」や「平等原則」よりも「自律性」に置くべきだという議論。
2つ目は、ナッジへの批判。パターナリズム的性質への批判かと思ったら、そうではなく、そもそも「枠組みや構造が判断に影響する」だけでパターナリズムの正当化には失敗しているよね、という指摘。
それぞれともに、翻訳しつつ要約しつつ自分なりの解釈を交えつつ書くので、気になる方は原文を読んでみてください。

Autonomy, Paternalism, and Justice: Ethical Priorities in Public Health

David R. Buchanan, DrPH

感染症⇒慢性疾患の変化

従来、パターナリズムがどのように正当化されるか?どのようなときに私権の制限が正当化されるか?どのようなときに個人主義が正当化されるか?が公衆衛生の倫理において、議論の中心となってきた
しかし、これらのテーマは、主要な疾病背景の変化を考慮していない。
緊急の感染症と、「健康の社会決定要因」などが原因となる慢性疾患とでは状況が異なり、従来の議論は慢性疾患には適用できないのではないか。

慢性疾患では自律性が大事

慢性疾患においては、インフォームドコンセント(個人の行動変容は正当化できるが集団の同意は?)、弱いパターナリズム(本人の意思決定の正当性への懐疑。「この人は正常な判断ができていないから…」)、功利主義(「介入によって集団全体の利益になるから」自律性を軽視)がi介入の正当化に従来用いられてきた。
いずれにしても集団の自律性を軽視しているが、自律性こそ健康でいるために重要である。特に慢性疾患においては。そのような点で矛盾している。

自律性といえば、カントとロールズの議論を踏まえることで、正義原則(自由と自立、平等)と道徳的主体を結びつけることができる。
自律性とは、「ひとが自分の欲望や願望、価値観を批判的に検討した上で、それを受け入れ、ときに変更する能力」であり、慢性疾患を主体とする集団のPublic Healthにおいて推進すべき能力である。

健康の社会決定要因と平等主義正義原則

 これとは別にSDHの概念と正義原則を検討することも大事である。この文脈では、パターナリズムによる健康向上ではなく、健康格差を社会的不正義としてそれの解消を目指す道徳的正当性に基づいて集団への介入を求めている。
しかし、この文脈ではsocial justice 社会正義といわれるように政治に「社会的」という修飾語がつく。これは平等主義的リベラリズム(平等主義)を基礎とする正義を意味していることが多く、留意が必要である。

この健康の社会決定要因と平等主義を基礎にした議論には、いくつかの課題があるが、健康への責任の所在という課題とともに、
健康格差が社会の不平等に起因するといった場合に、そもそも社会全体に関わる正義論は統一的な見解に至っていないという課題がある。つまり、社会正義=平等主義的正義だけを無批判に採用することはできない。
つまり、個人と社会との関係、そして社会の正義とはなにか、という議論が必要である。 

「正義のプロジェクト」 市民と作る「正義」によって自律性を得る

このようなことを考えると、公衆衛生の文脈において、市民がどのように「正義」を考えるか、検討し参加していくことが重要である。(これを本文中では、「正義のプロジェクト」と呼んでいる)
これはアマルティア・センの「ケイパビリティ:能力」に関連する概念である。ケイパビリティは「価値ある行為を行い、価値ある状態に到達する人の能力」であり、市民が価値あると思える能力たちを市民自身が定義することがはじめの一歩である。
実際に正義について地域で議論する第一歩は、「住民は充実感を感じているか。人生の計画、夢、希望を追求できているか。」という質問から始まるものになるかもしれない。
なにが大切な価値や能力かが特定できたら、次の段階で、既存の社会的不平等が人々の自己実現する機会を奪っている程度などを評価する。この枠組みでは、社会的要因によって自己の能力が発揮できず価値ある人生を送れていないことである。

このような議論の過程を通じて、どのような不平等が理性的な市民/国民からみて「不平等」「不公正」であると感じられているか、ということを検討し、「公的な理由付け」をしてコミュニティの道徳的合意を行っていく。

このようにpublic healthの分野は、市民が尊厳、誠実さ、相互責任を基礎にまっとうな生活を営んでいくことを支援されていると感じられる社会を作るために、コンセンサスを作っていくことが役割になる。つまり、いままでの推奨に加えて「地域社会の人々は週4-5回、1日30-45分公正な社会についての合意形成を行うこと」を推奨するべきだろう。

感想

※アメリカにおける「自由」や「個人の責任」の概念が議論の前提となっている
※また結論部分はコミュニタリアン的、そして熟議民主主義的な結論となっている
※パターナリズムや平等主義への批判はこの論文の重要なパート

2つ目の論文。こっちはナッジのみの話でコンパクトなので、短めに。

Libertarian paternalism, utilitarianism, and justice

Jamie Kelly 

ナッジが注目されている。ナッジという方法論によって、個人の自由な選択を妨げずに、個々の福祉を向上させることができ、自由主義+パターナリズムの両立ができるようになり、このような形のパターナリズムが正当化され、公共政策の意思決定を容易にできた、と主張するひともいる。このような内容を「リベラル・パターナリズム」という。

しかし、実際にはそうではない。
ナッジは、「何かしらの枠組みや構造、デザインによって、人の自由な選択肢を制限せずに、意思決定に影響を与えることができる」ということを示しただけである。
つまり、「影響を与えられること」と「影響を与える内容:パターナリスティックな福祉向上」とは分けて考える必要があり、構造をデザインするデザイナーは、「社会全体の利益が増進するように、つまり功利主義的に」意思決定を促すこともできるし、「より人々が平等と感じられるように、つまりロールズ的リベラル平等主義的に」人々が行動するように影響を与えることもできる。
実際、よく例示される「学校のカフェテリアで健康的な食事をとるように食品を並べる」というのは、リベラル・パターナリズムだが、男性用トイレにハエを描いて尿の汚れを減らすようにするのは「リベラル・功利主義」と呼ぶこともできる。
結局、政策や構造設計の選択肢を増やしたというナッジの貢献は事実だが、政策の意思決定を容易にしたことはなく、その中の価値観、倫理、政治哲学についての議論は以前と変わらず残ったままであり、ナッジによって「弱いパターナリズム」、リベラルだとしても「パターナリズム」が正当化された、支持されたということはない。

※ナッジの「パターナリスティック」な側面を批判する論考はみたことがあったけれど、この視点は意外。面白かった。

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