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#47 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

「積ん読感想文」3冊目のこの本は、僕が生まれてから一番たくさん買った本で、すでに11冊買いました。なぜ同じ本を何冊も買うのか?それは、自分の大切な人や「この人になら想いが伝わる」と信じる人に渡すためです。
 きっと僕にこの本を押し付けられた人も、この記事を読んでくださっていると思います。無理に押し付けてごめんなさい、でも本当に大切なことが書いてあるのです。一般書ですが、2023年1月に提出した AI 分野の修士論文でも引用しました。ある書店の手書きポップに「全ての日本人に読んでほしい」と書いてありましたが、誇張ではなくそう思う本です。

今日は8月31日、明日から正式にダルムシュタットの研究員となります。そんな明日を迎える前に、この本について書いておこうと思います。


今日の本

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』文藝春秋,2022年.
読書難易度:☆☆(内容は濃いが、心地よく読める)

国語力という言葉

著者はおそらく、「国語力」という言葉を使うかどうか迷ったのではないかと思います。なぜなら、この本で論じられている「国語力」とは、算数や社会と同列の「教科」としての国語力ではなく、広く「言語で認識する能力」のことを指しているからです。
 第七章、第八章では教科教育に近い狭義の「国語力」が論じられますが、本書の大半は言語認識能力についての考察です。「国語力」と書くと、「国語のテストでいい点数を取る学力」と曲解されかねないので心配です。


言語の役割とは?

本書の前半では、現在の子どもたち(主に小学生〜高校生が取り上げられている)の言語認識能力が劇的に下がっていることを、著者が取材した事実に基づいて丁寧に解説しています。主に子どもたちが使う語彙が減少してきていることと、ネットやゲーム空間で用いられる「短くて鋭い」言葉に注目して、「言語を媒体として現実世界を認識し、その認識に基づいて他者に働きかける」つまり、自分自身を含む人や社会と関わるための道具としての言語を使えていない子どもが増えていることを報告しています。ここで、一つ考えてみたいことがあります。

事実が先か言語が先か 〜サピア=ウォーフの仮説〜

言語的相対論」あるいは「サピア=ウォーフの仮説」という理論を聞いたことがありますか?ウィキペディアの定義を引用します。

「どのような言語によってでも現実世界は正しく把握できるものだ」とする立場に疑問を呈し、言語はその話者の世界観の形成に関与することを提唱する仮説

ウィキペディア日本語版より

関連して、次の2つの立場について、みなさんはどう考えますか?ここで「現実」とは、目に見える現象として考えてください。

立場1:現実は全員にとって同じように存在する。ただ、豊かな語彙でその事実を説明できる人と、うまく説明できない人がいる。
立場2:語彙力や説明能力には個人差があり、各人の持つ言語認識能力に合わせて事実から現実が切り取られて認識される。

サピア=ウォーフの仮説は立場2に近く、著者の取材でも帰納的にその立場が支持されています。例えば、実際には「切ない」「うなだれる」「もの悲しい」「悲壮」「やりきれない」「いまいましい」「むくれる」といった色々な感情が存在するにも関わらず、それらを「ムカつく」「ウザい」「殺す」といった語彙で十把一絡げに表現してしまうことで、子どもたちは自己内面の「細かい感情の違い」を認識することができなくなっているのです(pp. 248-249)。おそらく毎日のニュースも、個々人の言語認識能力によって、かなり異なるように認識されているのだと思います。


大学での議論は要注意

このトピックを大学で議論する時には注意が必要で、大学のレベルが上がるほど要注意度も上がります。というのも、大学で勉強する学生たちは、理由はさておき幸運にも必要な言語認識能力をすでに身につけている人の比率が高いからです。

普通に日常生活を送っていれば、必要な言語能力は身に付く。特に意識して言語能力を磨く必要性は感じない。

こういう意見をよく聞きますが、果たしてそうでしょうか?「普通の生活」は人によって大きな違いがあり、多くの大学生の日常生活には言語認識能力を磨くための訓練が充分に含まれています。本書でもインタビューした内容として、次のような記述があります。

国語って数学などとは違って、家庭環境次第では大して勉強しなくても優秀な成績を取ることが可能です。本が好きだったり、食卓で毎日いろんなことを家族で話し合ったりしていれば、テストでそれなりの点数が取れる。おそらく、文科省のエリートの人たちの大半は、そんなタイプの秀才で超一流高校を経て超一流大学を卒業し、役人になったのでしょう。

p. 81 より

後半はさておき、前半は全くその通りだと思います。そして、本書の前半で登場するように、恵まれない家庭環境で育った子どもたちは、多くの大学生たちが普通にできているような、「現実認識」がうまくできないのです。「教育格差」が社会問題として叫ばれますが、本当に深刻な格差は塾にかける費用、大学の学費云々ではなく、充分な言語認識能力が身についていないために、自分の感情や現実をきちんと認識できない点にあるように思います。


Memorable Quote

最後に印象的な一節を引用しておきます。

一見遠回しに感じられる文学的表現を覚えたところで、生きていく上で使い道なんてないだろうという意見もあるかもしれない。果たしてそうだろうか。夕日を見た時に、「うわっ、ヤバ。エグ」としか考えられない子供と、「山陰に沈んでいく夕日を、セミたちが押し黙って名残惜しそうに見つめているね。彼らはあと何度この夕景を見られるんだろう」と考えられる子供とでは、世の中や内面のことを細部にわたって、深く知覚する力に歴然たる差があるのは明らかだ。高いレベルの文学作品に接するというのは、そうした豊穣ほうじょうな言語空間に身を置くということなのだ。

p. 41 より
この焚き火がどう見えるかは、見る人の言語認識能力に依存するはず

個々人は、その人が持っている言語能力の範囲でのみ、「事実」から「現実」を切り取って認識することができるのだと思います。そうだとすれば、多様な社会で多くのことを理解して他人に思いやりを示すには、言語能力を磨く必要があります。このことを哲学的にではなく、事実の観察に基づいて示してくれた本書に感謝したいと思います。

今日もお読みくださって、ありがとうございました📚
(2023年8月31日)

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