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イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史(2)

見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

2021年から実施している「見る場所を見る」の第4弾(8月開催の「見る場所を見る2+」を含む)となる展覧会「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」をGallery そらで開催中です。このnoteでは、会場で配布している「鑑賞ガイド」に収録の展覧会第1部解説文イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史」を2回に分けて掲載します。前回の記事は以下のリンクからお読みください。

第1部「イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史」(2)

第4章 郡部の映画館

郡部の映画館は倉吉以上に資料が少なく、開閉館の時期はおろか、どこにどれだけの数の劇場があったのかを把握することさえ困難です。「地方映画史」と言えども、どうしても市の中心市街地にある華やかな映画文化に関心が偏りがちなところ、いち早く鳥取県郡部の映画文化に注目したのが高取正人氏でした。高取氏は1990年代から2000年代にかけて『日本海新聞』で「鳥取映画史」と題した長期連載を行い、そこで郡部の映画館についても取り上げています。

高取正人『鳥取映画史』2005年7月10日付

中でも興味深いのは、八頭郡智頭町の智頭劇場と、用瀬町の富士劇場の2館を経営していた人物からの情報提供です(『日本海新聞』1996年1月16日付)。終戦後から1960年代中頃にかけて、八頭郡から東伯郡赤崎町までの映画館は映画の配給組合を結成し、上映作品の選定や貸出を行なっていました。組合で借りたフィルムを各劇場に日替わりで回し、上映回数は1日2回が基本。ほとんどの場合、郡部まで回ってくるのは使い古されたボロボロのフィルムばかりでしたが、ある時は予定されていたフィルムの用意が間に合わず、代わりに、まだ東京でも封切られていなかった新作映画の新品のフィルムが送られてきたこともあったそうです。

「見る場所を見る3」展示会場では、倉吉市内の映画館&レンタルビデオ店の年表のほか、郡部にあった映画館のリストやレンタルビデオ店の年表も掲示している。

聞き取り調査以外に郡部の映画館の情報を得るための有力な方法は、各町村の郷土誌を紐解くことです。地域によって、映画に関する言及が一切ない郷土誌もあれば、東伯郡北条町の北條館のように外観写真が掲載された郷土誌もあります(『新修 北条町史』2005年)。中には詳細な記述が残されている場合もあり、例えば『新版 河原町誌』(1986年)では、八頭郡河原町の弁天座が紹介されています。同館は1930(昭和5)年に株式組織として出発し、1943(昭和18)年に米沢興行部の個人経営に移行。縦3.3m × 横9mのスクリーンに、シネマスコープ上映も可能な最新の映写設備と音響設備を備えていました。弁天座は1962(昭和37)年に廃業し、長らく倉庫となっていましたが、1984(昭和59)年の豪雪によって倒壊してしまいました。

Clara《弁天座》(2023)

また郷土誌の記述で興味深いのは、劇場と養蚕との関わりです。1918(大正8)〜1919(大正9)年頃に開館した西伯郡西伯町の金納座は、劇場としては許可が通らないため養蚕場の名目で建築され、後に常盤座と改称して、戦後は映画を主とした興行を行なっていました(『西伯町誌』1975年)。他にも、西伯郡富益村で芝居や活動写真の上映を行っていた吾妻座は、実際に養蚕場の一部を改造して造られた劇場であるとの記述や(『富益300年誌』2010年)、1928(昭和3)年頃に開館した西伯郡岸本町の丸三座は、劇場になる前は繭の集荷所として使用されていたとの記述があります(『岸本町誌』1983年)。あるいは気高郡青谷町の寿座のように、芝居だけで経営を維持するのが困難なため、蚕繭の集荷所や倉庫を兼ねていたという事例もありました(『青谷町誌』1984年)。

私はこれらの記述に触れたとき、岡本太郎が沖縄を訪れた際に残した「「何もないこと」の眩暈」という言葉を思い浮かべました。養蚕場が劇場に転用されたり、逆に劇場が蚕繭の集荷所に転用されたりしたのは、そこが観客を容れられるだけの広い空間を備えていたことに加え、養蚕・製糸に使用する道具もそれほど重くなく、手軽に運び出せたことが要因としてあるでしょう。すなわちそれらの建物は、容易に「何もない」空間にすることが可能であり、蚕であれ芝居であれ映画であれ、自由に出し入れできるハコなのです。壮麗な外観や贅沢な設備を備えた映画館でなくても、作品と映写機、スクリーン、そして画面と観客との最低限の距離さえ確保できれば、そこが仮設的な映画館になり得るのだということ、そして「何もないこと」は、必ずしも貧しさを意味しないのだということを、郡部の映画館は思い出させてくれます。

第5章 鳥取県の視聴覚教育とテレビ

筆者(佐々木)と共同企画者の杵島和泉は、映画館に限らず、鳥取県内で行われてきた多様な映画・映像利用の実践に着目した研究を行ってきました。今回、郡部を対象とした調査を通して浮かび上がってきたのは、テレビの普及以前、常設映画館のない(少ない)地域における映画・映像経験は、主に何らかの教育機関によって担われてきたのだということです。例えば2023年に八頭郡八頭町の祥雲寺から寄贈を受けた16ミリ/8ミリフィルム映写機スライド映写機は、小学校などでの「視聴覚教育」に用いられたと思しきものでした。また鳥取県立図書館が所蔵する『映画教育』(1932(昭和7)年7月号)には、「鳥取県八頭郡八東村長源寺内 佛教宣揚會映画傳道班長 野崎鐵文」の印が押されています。同号には日本の視聴覚教育史に残る論争である「動く掛図論争」の発端となった座談会が収録されており、当時の八頭で、寺院や学校が主体となって視聴覚教育についての熱心な研究・実践が行われていたことが窺えます。

祥雲寺から寄贈を受けたスライド映写機

ここで県内の視聴覚教育の歴史を遡ってみると、1888(明治21)年11月24日に立川町立志小学校で実施された通俗教育談話会で幻灯が使用され、注目を集めました(『鳥取市教育百年史』1974年)。また八頭郡でも、1890(明治23)年に八頭郡教育会が幻灯機の購入について検討したとの記録が残っています(『新編八頭郡誌 3巻 八頭郡教育のあゆみ』1988年)。また映画と児童の関わりについては、日露戦争の孤児救済を目的として鳥取育児院(現在の鳥取こども学園)を設立した尾崎信太郎が、その活動資金を確保するために救児部を組織し、各地で慈善活動写真大会を開催したことも重要です。尾崎はその後常設映画館の経営に乗り出し、鳥取の映画文化発展の礎を築きました。

敗戦後の1948(昭和23)年8月、連合軍総司令部の占領政策の一環として、鳥取県にもナトコ映写機12台が無償貸与され、11月にはCIE映画占領下米国教育映画)のフィルムが23本貸与されました。巡回上映は翌年1月から始まりましたが、自分の村でもトーキー映画が鑑賞できるということで、各地域から上映希望が殺到したそうです(『鳥取県教育史 戦後編』1959年)。実際1950(昭和25)年度の記録では、年間のフィルム利用回数が鳥取市449回、米子市107回、岩美郡366回、八頭郡625回、気高郡740回、東伯郡1035回、西伯郡482回、日野郡478となっており、市内よりも郡部のほうが積極的な利用・活用が行われたことが分かります。

1950年代半ばには、いつでもどこでも誰でも利用できる視聴覚教材と機材を備えた施設の整備を進めてほしいという教育現場からの要望に応え、県下の町村議会で視聴覚ライブラリー設置の方針が決定(『鳥取県教育史』1979年)。1956(昭和31)年7月1日には中部地区、翌年4月1日には東部地区と西部地区に視聴覚ライブラリーが設置されました。こうした取り組みは当時としては先進的なもので、他県からもその動向に注目が集まります。1962(昭和37)年10月には米子市公会堂が主会場に選ばれ、第8回全日本視聴覚教育研究大会が開かれました。

鳥取県の町村誌では、「映画」の項目以上に「テレビ」の項目が目立ちます。小型のラジオやテレビを携帯して「山谷に持ち出してバカンスに、また歌声を聞きながら梨の袋かけをしたり、稲刈りをしている光景は、時代の変貌を印象深くさせる」(『気高町誌』1977年)といった記述があるように、テレビ・ラジオの普及が生活にもたらした影響は絶大なものでした。前章で紹介した郡部の仮設的な映画館や、いつでもどこでも誰でも視聴覚教材を利用可能にするライブラリーの整備、そして各家庭に浸透したテレビやレンタルビデオ文化は、移動する「見る場所」、すなわち、インターネットやスマホが普及する以前の「モバイル(携帯可能)な映画・映像史」を想像する手がかりになるでしょう。

Clara《北條館》(2023)

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