見出し画像

農民芸術の鑑賞――宮沢賢治「農民芸術概論綱要」の続きを書く(1)


「農民芸術の鑑賞」
……何故われらは芸術を見ようとしないのか……

われらはみな芸術家である ずいぶん忙しく仕事もつらい
いまわれらにはただ作品が 創造があるばかりである
宮沢賢治の予言は 肝心なところが外れていた
職業芸術家が滅び 誰もが芸術家となっても
その生活を保証する者は少なかった
いま芸術は未曾有の飽和状態にあり
在庫の山が密林の倉庫に積み上がっている
誰にとっての不幸だろうか
忘れ去られた作品の不幸であり
食えない芸術家の不幸であり
目の前の傑作にさえ気づかずに生き 死んでゆく
われら自身の不幸である
われらはいま 新たな鑑賞者を作り出さねばならぬ
優れた芸術家は常に 優れた鑑賞者である
見ることの喜びを知り 見ることの難しさを知る者である
遠くに想いを馳せる前に 目の前の作品に向き合え
過去の喪失を嘆く前に 現在の作品に向き合え
未来の喪失を恐れる前に 現在の作品に向き合え
芸術家の声ではなく 作品の声に耳を澄ませ
憐れみのためではなく
みずからの喜びのために芸術を求め
芸術家の生活を支えよ
われらに要るものは銀河に向ける透明なまなざし
熱を受け取る力である

鳥取銀河鉄道祭

 2019年11月2日から4日にかけて、とりぎん文化会館にて「鳥取銀河鉄道祭」鳥取公演がおこなわれた。鳥取銀河鉄道祭とは、「宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』を題材にした音楽劇」であり、また「「すべての人が芸術家である」という賢治の思想に基づき、県内様々な地域での活動や人々の暮らしを星座に見立てた88のトピックスで紹介」していくというもので、鳥取公演はその終着点となる(公式ウェブサイトより)。賢治の芸術と思想に共鳴し、そのユートピア的世界を現実化するための活動を続けてきたダンサー、木野彩子さんによる念願の企画である。
 私は2017年の秋頃に木野さんに誘われ、「映像リサーチ」というかたちでこの祭に参加することになった。賢治は私にとっても思い入れのある作家だ。卒業制作『彁 ghosts』(2008年)には『春と修羅』からの引用を散りばめたし、「農民芸術概論綱要」はいまも事あるごとに繰り返し読む。鶴見俊輔の『限界芸術論』と併せて、自分の芸術観の土台の一部を確実に作っていると思う。
 そして、だからこそ、木野さんから与えられたお題は私にとって非常に重いものだった。若い頃に賢治に対して抱いていた共感と違和感、その正体をそろそろ突き止めてください。自分なりの答えを出してください。そう言われているような気がした。生半可な回答ではダメだ。賢治に対しても、銀河鉄道祭に全力で取り組む木野さんに対しても、堂々と張り合えるだけのものを作らねば失礼だと思った。

すべての人が芸術家である時代

 あらためて「農民芸術概論綱要」を読み返してみる。序論と結論に挟まれるかたちで、「農民芸術の興隆」「農民芸術の本質」「農民芸術の分野」「農民芸術の(諸)主義」「農民芸術の製作」「農民芸術の産者」「農民芸術の批評」「農民芸術の綜合」という見出しが並ぶ。この中で、木野さんが「すべての人が芸術家である」と要約した賢治の思想が端的に表れているのは「農民芸術の産者」の項目だ。

「農民芸術の産者」
 ……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

 職業芸術家は一度滅びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方面に於て各々止むなき用言をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である
 創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
 そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
 創作止めば彼はふたたび土に起つ
 ここには多くの解放された天才がある
 個性の異なる幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

 2020年に生きる私たちには、この一文は当時とは異なる響きをもって聞こえるだろう。賢治の言葉は彼自身の意図を超えて、数多くの芸術家や表現者の心の拠り所、あるいはスローガンとして機能してきた。そして実際、「すべての人が芸術家である」かのような時代はすでに実現している。スマホが一台あれば、いますぐ撮影から編集までをこなし、映像作家としてデビューすることができる。無料ソフトを使えば、イラストレーターにだってアニメーション作家にだってなれる。YouTubeやVimeoに動画をアップロードすれば、自分のパフォーマンスやメッセージをいますぐ世界に発信できる。格安で書籍を出版したり、場所を借りてイベントを企画することだってできる。インターネットやDTPの普及もあって、何かを作ってみたいという人びとの願いを叶えることは随分と容易になった。
 しかしそれと引き換えに生じたのは、芸術家と作品の飽和だ。コメント0、高評価0、再生回数0……日々膨大に生み出される作品たちは、ほとんど誰にも見られぬまま、その存在に気づかれもしないまま、情報の洪水に呑まれて消えていく。激増した芸術家の数に比して、鑑賞者の数が圧倒的に足りていないのだ。芸術の道を志してその生活が保証されるのはほんの一握りの成功者だけであり、もちろん職業芸術家だって、今のところまったく滅びる気配はない。宮沢賢治の掲げた理想は、それが現実化した社会を目の当たりにした私たちにとって、いささか楽天的なものと感じられる。

鑑賞者の不在

 ようやく、私は自分の違和感の正体を掴むことができた。賢治は「農民芸術概論綱要」全体を通じて、農民芸術の産者については熱弁をふるっているが、農民芸術の鑑賞者については多くを語っていないのだ。先に引用した一文でも、「恐らく人々はその生活を保証するだらう」と弱気に展望を述べるにとどまっている。もっとも鑑賞者の問題に接近しているのは「農民芸術の批評」だが、「正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか」という問いかけから始まるこの項目において、鑑賞者の存在は自明視されているように見える。鑑賞者が居ない(あるいは足りない)という事態はそもそも想定されていない。
 周知のとおり、賢治は「オツベルと象」の白象や「雨ニモマケズ」のデクノボーのように、純粋無垢で、表現することへの意志すら持たない存在にこそ、理想の芸術家像を求めた。芸術活動に従事しているという自覚がない以上、彼らが鑑賞者の不在に悩むことはないだろうし、その生き方を理想とする賢治も、わざわざ「農民芸術の鑑賞」などという項目を付け足す必要性を感じなかったのだろう。
 しかし他方で、白象は、誰かの助けがなければ生きていくことができない儚い存在でもあった。ずる賢い資本家オツベルにこき使われ、反抗もできずにただただ憔悴していき、見かねた「月」や山の象たちに手を差し伸べられてようやく窮地を脱する。鶴見俊輔によれば、ここで賢治は、白象のような存在を「第一の芸術」として捉えると同時に、彼を救い出した象の仲間たちを「第二の芸術」として捉えていたのだという(『限界芸術論』)。そして両者の相補関係は、現実の農民と、羅須地人協会の活動を通じて彼らをサポートしようとする賢治の関係と重ね合わせられていた。だが間もなくして、賢治は病のために活動中断を余儀なくされる。その結果、農民/芸術家の生活を支える存在による「第二の芸術」は捨て去られ、白象を理想の芸術家像とする「第一の芸術」だけが後に残った。その新たな形象化が「雨ニモマケズ」のデクノボーなのだと鶴見は言う。要するに、芸術家の生活を誰がどのように支えるのかという問題、私の関心に引き寄せて言えば農民芸術における鑑賞者の問題について、賢治は決定的な答えを出すことができなかったのだ。問いはいまも未解決のまま、私たちの前に投げ出されている。

農民芸術の鑑賞(者)

 鑑賞者の不在。それは全くもって他人事ではなく、跳ね返って自分自身の心に深く突き刺さる。本来、偉そうなことを言える資格はない。私たち(とあえて書く)がふだん、どれほど隣人の作品を「見ていない」か、身近な芸術を貶めているかを、自覚しなければならない。
 私たちはしばしば芸術の不足を嘆き、「もっと人々が芸術に触れる機会が必要だ」とか「地域に芸術文化を根づかせたい」といったことを語り合い、頷き合っている。少し周囲を見渡してみれば、すぐ傍に絵を描いている人が居たり、小説を書いている人が居たり、歌をうたっている人が居るにもかかわらず、彼らの存在はスルーして、わざわざ遠方から高名な芸術家を招いて、自分たちの暮らす地域を卑下したり、芸術文化振興の妙案を尋ねたりしてしまう。
 若い芸術家が作品を見せてくれたとき、いま目の前にある作品を鑑賞し、解釈し、批評するのではなく、この人は将来芸術で食っていけるだろうか、食っていくつもりなのだろうかと、未来の心配ばかりしてしまう。はたまた、失われゆく過去の作品や記録を収集することに必死になって、いま目の前にある作品や出来事を見ることを怠ってしまう。それもまた近いうちに「失われゆく過去」となり、散逸していくのは目に見えているはずなのに、いつでも見られると安心して、実際に失われてしまうまで見向きもしないのだ。
 かくのごとく、私たちは驚くほど「現在」を見ていない。過去のノスタルジーに浸ったり、未来のビジョンを思い浮かべたりすることにばかり必死になって、目の前に差し出された作品から目を逸らし続けている。まずはこの態度を変革する必要があるだろう。鑑賞者という存在は自明のものではない。私たちは良き鑑賞者となるために、これまでの己の振る舞いを総点検しなければならない。新たな鑑賞者像を作り上げなければならない。宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の続きを書くこと。そこに新たな項目「農民芸術の鑑賞」を書き加えること。これが今後の課題となる。
 さしあたり、「すべての人が芸術家である」という前提がある以上、新たな農民芸術の鑑賞者は、必然的に農民芸術の産者でもあるはずだ。つまりは「すべての人が鑑賞者である」。これにより、芸術家の数と鑑賞者の数は単純計算すれば同数になるから、うまくいけば「芸術家と作品の飽和」問題は解消、もしくは緩和されることになるはずだ。あまりに楽観的と思われるかもしれないが、芸術家が鑑賞者の役割を担い、鑑賞者が芸術家の役割を担うのはそれほど難しいことではないし、珍しいことでもない。むしろ、優れた芸術家は常に優れた鑑賞者であると言い切ってしまっても良いぐらいだ。自らのテキストを詩ではなく心象スケッチと呼ぶ宮沢賢治が、「日本始まって以来のカメラマン」(草野心平)と讃えられるほど優れた観察眼の持ち主であったことが、その傍証となるだろう。

『映画愛の現在』

 そして、このような思索を続ける中で私が出会ったのが、鳥取で「自主上映活動」を続ける人々である。鳥取県内には、東中西部で一館ずつ、計三館しか映画館がない。例えば鳥取市内で上映されていない作品を見たい場合、一時間半車に乗って日吉津や豊岡に行くか、二時間半バスに乗って姫路に行くか、といった選択を迫られることになる。そのような環境で、「自分たちが選んだ作品を、自分たちの手で上映」(鳥取コミュニティシネマ・清水増夫さん)する道を選んだ方々にインタビューし、長編ドキュメンタリーとしてまとめるプロジェクト『映画愛の現在』を始め、それを鳥取銀河鉄道祭の「映像リサーチ」の成果として発表することにした。


 一言に「自主上映活動」と言っても多種多様で、取材対象を絞るような定義づけはあえて避けた。鳥取コミュニティシネマのように劇場公開されている映画やドキュメンタリーを中心に上映活動を続けている団体もあれば、水野耕一さんが代表を務めるよなご映像フェスティバルのように個人による映像表現を中心に紹介する団体もある。波田野州平さん(現時点プロジェクト)のように自分自身の作品や地域のドキュメンタリーを制作・上映する試みもあれば、家庭に眠る8ミリフィルムを募集・収集・公開・活用する、すみおれアーカイヴスのような試みもある。
 各個人・団体に共通する点があるとすれば、彼らの活動が、送り手と受け手、あるいは制作者と鑑賞者双方の側面を併せ持っていることだろう。一方で、彼らは(自作であれ、他人の作であれ)ある映画を人々に見せたいと願い、そのための場を設け、それに適した鑑賞体験をデザインしているという意味で、広義の制作者(≒芸術家)であると言えるが、他方で彼らは一観客として、人に見せるよりもまず「自分がその作品を見たい」という欲求や「映画を見て来場者と共に語り合いたい」という目的のために上映会を企画してもいるのだ。こうした両義的なあり方に、私は「農民芸術の鑑賞(者)」の手がかりがあるのではないかと考えたのである。
 いざ調べてみると、想像以上に多くの自主上映活動が鳥取県内で行われていることが判明し、結局、2019年のうちに『映画愛の現在』を完成させることはできなかった。11月の鳥取銀河鉄道祭では、中間報告として個人・団体計17組のアーカイブ映像展示を行い、長編ドキュメンタリーに関しては、2020年のうちに三部作の完成・公開を予定している。引き続き制作を進めながら、同時に「農民芸術の鑑賞」の文面も適宜更新していくつもりだ。

鑑賞者の革命

 先にも触れたように、私が暮らす鳥取市内には映画館が一館しかなく(鳥取シネマ)、自分が見たい映画を封切りのタイミングで見ることは難しい。けれども、週末に町に出かけてみれば、大抵、どこかしらで何かしらの映画を見ることができる。「私が見たかった映画」の代わりに、「誰かが見たかった映画」を見る機会が与えられているのだ。私はチケットを買い、上映開始を待ちながら、あれこれと考える。この自主上映の企画者はなぜこの作品を選んだんだろう? すでにDVDも出ているみたいだけど、それでもやるってことはよっぽど思い入れがあるのかな? 大きなスクリーンでみるべき作品ってこと? この人が観客に見せたいと思うポイントは、いったいどの辺りにあるんだろう……?
 こうした、小規模な自主上映活動を価値づけるためのロジックは、いくつか考えられる。例えば爆音映画祭や応援上映のように、一回性・ライブ性のある特別な鑑賞体験を味わえるとか、空き店舗を有効活用することで、地域共同体のコミュニケーションが活性化するとか、フィルターバブル(ユーザーの趣味嗜好に応じて、あらかじめ提示されるコンテンツが選別されること)を突破して、見知らぬ作品との偶然の出会いがもたらされるとか、単に作品を見る以上の「何か」を持ち帰ることができ、等価交換の外部へと誘われる、等々。いずれも間違っていないし、その通りだと思うし、大切なことだと思う。けれど私はそこに、もう少し素朴な価値も付け加えておきたい。すなわち、

 自主上映は、目の前の作品を丁寧に見るための時間と場所を与えてくれる。
 作品に新たに付加される価値を享受する以上に、作品そのものと向き合う機会を与えてくれることが、第一の価値である。

 ささやかな第一歩だが、鑑賞者の革命はきっとこの規模からしか始まらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?