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地方映画史研究のための方法論(21)初期映画・古典的映画研究③——デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。鳥取で自主上映活動を行う団体・個人にインタビューしたドキュメンタリー『映画愛の現在』三部作(2020)と併せて、多面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび上がらせていけたらと考えている。

ここが発信地!娯楽の殿堂・世界館──ノンフィルム資料に残された、鳥取の老舗映画館の足跡

また2023年12月には、杵島和泉さんによるオリジナル企画として、鳥取の映画館・世界館の歴史を紹介する展覧会「ここが発信地!娯楽の殿堂・世界館──ノンフィルム資料に残された、鳥取の老舗映画館の足跡」が行われる。鳥取市歴史博物館 やまびこ館の所蔵資料をはじめとして、これまで公開される機会のなかった貴重な記録写真や印刷物などを紹介すると共に、川端通り世界館→南吉方世界館→シネマスポット フェイドイン→鳥取シネマと名称や場所を変えながら興行を続けてきた老舗映画館の複雑な歴史を解きほぐし、その実相を明らかにする取り組み。展覧会のメインビジュアルはイラストレーターの湖海すずさんが手がけており、「見る場所を見る」で構築した方法論「イラストレーション・ドキュメンタリー」の新たな展開を作り出してくれてもいる。

イラスト:湖海すず

地方映画史研究のための方法論

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。杵島さんと行なっている研究会・読書会でレジュメをまとめ、それに加筆修正や微調整を加えて、このnoteに掲載している。これまでの記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」

デヴィッド・ボードウェル

デヴィッド・ボードウェル(1947-)  

デヴィッド・ボードウェル(David Jay Bordwell)は1947年生まれの映画理論家・映画史家。1969年にニューヨーク州立大学オルバニー校を卒業後、1974年にアイオワ大学で博士号を取得。ウィスコンシン大学マディソン校で教鞭を執りながら、従来の映画研究を刷新する重要な研究書を数多く発表してきた。2004年にウィスコンシン大学を退職した後も、同校の名誉教授として、精力的な研究活動を続けている。

今回紹介する「古典的ハリウッド映画」に関する著作以外では、『小津安二郎──映画の詩学 Ozu and the Poetics of Cinema. Princeton』(杉山昭夫訳、青土社、1993年、原著1988年)、『映画の様式──その変化と連続性 On the History of Film Style』(小町眞之 訳、鼎書房, 2003年、原著1997年)が邦訳されている。

古典的ハリウッド映画 Classical Hollywood Cinema

ハリウッド映画は国際的な映画市場の中心であり、世界中の国々に多大な影響を与えてきた。1917年以降、アメリカの映画スタジオが製作する作品は、他国における映画制作の規範ともなっている。

ボードウェルは、そうした規範に基づいた映画、言うなれば世界中の公開作品の大部分を占める「普通の映画」とはどのようなものかを問う研究を開始。1910年から1960年までに製作されたハリウッド映画計300本(無作為抽出100本、任意選択200本)を対象として、それらのフィルムがいかにして物語を語っているか、構図やスタイルをどのように選択しているかを統計的に分析して「古典的ハリウッド映画 Classical Hollywood Cinema」の形式的特徴を明らかにした。

この研究の成果は『古典的ハリウッド映画──1960年までの作品スタイルと製作モード The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960』(クリスティン・トンプソン、ジャネット・スタイガーとの共著、1984年)と『フィクション映画における語り Narration in the Fiction Film』(1985年)として発表された。どちらも邦訳は刊行されていないが、両書の要約的な論考「古典的ハリウッド映画──語りの原理と手順」(1986)が杉山昭夫の訳で『映画理論集成②──知覚/表象/読解』(フィルムアート社、1999年)に収録されている。

また2004年にクリスティン・トンプソンと著した映画の入門書『フィルム・アート──映画芸術入門 Film Art: An Introduction』にも古典的ハリウッド映画についての解説があり、こちらも日本語で読むことができる(藤木秀朗 監訳、飯岡詩郎・板倉史明・北野圭介・北村洋・笹川慶子 訳、名古屋大学出版会、2007年)。

本稿では、主に「古典的ハリウッド映画──語りの原理と手順」(以下『CHC』)を土台としつつ、適宜『フィルム・アート──映画芸術入門』(以下『FA』)を参照して補うことで、ボードウェルらが導き出した「古典的ハリウッド映画」とは具体的にいかなるものか、その主要な特徴をまとめていく。

映画の形式/タイプ/スタイル

映画形式(Film Form)

さしあたり、ボードウェルが映画を論じる上で用いている、基本的な概念を確認することから始めよう。

あらゆる芸術は、無秩序な要素の寄せ集めではなく、何らかの秩序やパターンに基づいて組織された「形式 Form」を備えている。人は芸術についての経験や知識を手がかりとして、特定の形式を持った対象を芸術(作品)であると見做し、「鑑賞」という特別な知覚活動を始めることができる。

映画もまた例外ではなく、「映画形式 Film Form」と呼ぶべきものを備えている。映画形式は、広義には「作品全体の構成要素間に認められる諸関係の総合的なシステム」(『FA』p.47)を意味し、システムの内部には、より小さな個別のシステム(サブシステム)が複数存在している。

映画形式
(『FA』p.370に掲載の図式をもとに筆者作成)

観客は、映画を構成する様々な構成要素を認知し、それらに様々な仕方で反応し、作品を意味づけていくことになる。例えばハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)を見る観客は、作中に何かしらの「物語」を読み取ることができる諸要素が存在し、それらが一つのまとまりとなって、映画作品全体のストーリーを構成しているのだと、すぐさま気づくことができる(物語上のサブシステム)。ブルースという男性と婚約中のヒルディ(ロザリンド・ラッセル)が元職場の新聞社を訪れ、編集長で元夫でもあるウォルター(ケーリー・グラント)と口論になる。まだヒルディに未練があるウォルターは、彼女の復職と復縁を画策。最後の記事を書くことと引き換えにブルースとの再婚を容認すると約束し、ヒルディの気を惹こうとする……というように。

ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)

また観客は、カメラワークや色彩、音楽の使い方などの技法が一まとまりになって、その作品や作家、ジャンルに特徴的なスタイル(後述)が構成されていることにも気づくだろう(スタイル上のサブシステム)。『ヒズ・ガール・フライデー』であれば、古典的な物語映画の形式に即して組み立てられていながら、その効率的な語り (語りの経済性) の技法を徹底することで、「サウンド期のコメディのなかでもっともペースが速い」(『FA』p.395)と言われるほど、強烈なスピードが印象に残るスタイルが確立されている。

観客はこうした複数のサブシステムを相互に結びつけ、全体的なシステムの内部に位置づけることで、一つの統一性を持った映画作品として鑑賞しているのである。

形式」はしばしば、「内容」と対になる概念として語られる。だが、コップやバケツのような外形のある容れ物(形式)の中に、何かしらの中身(内容)を気軽に入れることができるというような考え方で芸術作品および映画を捉えてはならない。先述したように、映画形式とは様々な要素が関連づけられた総合的なシステムである以上、そこには内も外もないのだ。

ボードウェルは、論者によっては「内容」として扱うものも、「形式」上の諸要素の一つとして扱うように求めている。例えば「主題」や「物語」は、様々な技法によって得られる結果(内容)であるばかりでなく、その主題や物語が、作中で用いられている特定の技法の意味や役割に影響を与えるなど、相互に作用し合うのである。

形式に関する二つのモデル
(筆者作成)

映画のタイプ(Type of Films)

映画形式が一定不変の容れ物ではなく、それを構成する要素次第でいかようにも変化するものである以上、すべての作り手が従わなければならないような絶対的な形式上の原則は存在し得ない。作り手は多くの場合、厳格に定められた規則や法則ではなく、慣例の集合体としての「規範」に従って——あるいは抗って——作品を制作する。

また映画作品は、それが従う規範・慣例に応じて、観客や作り手、批評家、研究者らによって様々な「タイプType」に分類される。第一に、何かしらの物語を伝える形式システムと、非物語的な形式システムが区別され、前者は「物語映画 Narrative Film」と呼称される。

物語映画はさらに、西部劇、ミュージカル、戦争映画、SFといった「ジャンル Genre」に応じた分類が為される。ジャンルもまた規範的・慣例的なものであり、単一の厳密な定義が可能なジャンルは存在しないと言って良い。

ギャング映画やSF、西部劇など、主題(subject)やテーマ(theme)によって識別されるジャンル、ミュージカル映画のように表現方法によって識別されるジャンル、探偵映画のように——謎の解決のための探索を行うという——特定のプロット・パターンに基づいたジャンル、ホラーやコメディのように特有の感情的効果が意図されたジャンルもある。いずれのジャンルにも当てはまらない作品や、複数のジャンルが混成した作品が現れることもあり、またそれが従来のジャンルの刷新や変化をもたらしたり、新たなジャンルを生み出すきっかけになることもある。

映画作品をグループ分けするもう一つの方法は、映画の制作方法と、それが生み出す効果に基づく。ボードウェルはその代表的な三つのタイプとして、世界のある側面を記録(ドキュメント)する「ドキュメンタリー Documentary Film」、映画の形式や慣習と戯れ、観客の期待を混乱させたり知的な問いかけをする「実験映画 Experimental Film」、線画や模型などを1コマずつ撮影することで動きを生み出す「アニメーション映画 Animation Film」を挙げている。

映画スタイル(Film Style)

映画スタイル Film Style」とは、特定の技法の選択をパターン化し、まとまったかたちで発展させることで、意味のある使い方にしたもののことである(『FA』p.171)。ハワード・ホークスやエイゼンシュテイン、ウォン・カーウァイなど、個々の作家に独自の映画スタイルを見出すこともできるし、ドイツ表現主義やソヴィエト(ロシア)・モンタージュなど、複数の作家や作品のグループを横断して共通している映画スタイルを見出すこともできる。

映画スタイルは、その作品全体の形式と切り離して考えることはできない。作り手は歴史的な制約の下で、何らかの技法を意図的に選択し、それらを首尾一貫して使用することで、一本の作品を作り上げている。それゆえ観客は、映画作品のシステム全体の中で様々な技法がどのように使われているのかを分析することによって、そのスタイルを理解することができるようになるのである(作り手が支離滅裂に技法を選択していると想定すれば、映画スタイルを分析することは困難になるだろう)。

ボードウェルは、映画スタイルを分析するための具体的な手順を以下のようにまとめている(『FA』pp.372-375)。

  1. 対象とする作品の映画形式が、物語的な形式システムか、非物語的な形式システムかを見極める。前者の場合は、基本的に物語映画(古典的ハリウッド映画)の原則・規範に支えられていると見て良いだろう。後者の場合は、それがどのような種類の形式に基づいているかを見極めなければならない(実験映画やドキュメンタリーなど)。

  2. 作中で際立っている技法を見出す。色彩、照明、カメラワークやフレーミング、編集、音声・音楽の使い方といった可能な技法のうち、どのような技法が目立っているか、多用されているか、通常とは異なる使われ方をしているかを見ていく。

  3. それらの技法が、作品全体の中でどのようにパターン化されているかを確認する。パターンに気づくためには、鑑賞時の自分自身の反応(どのような期待をしながら見ているか、どのようにして興奮の高まりが生じているか)を振り返ることや、物語展開などを強調するために作り手が意図的に設計しているスタイル(作中人物の状況や感情に合わせて画面の色彩を切り替えるなど)を探ることが有効である。

  4. 際立つ技法およびそのパターンが、作品全体の中で果たしている機能を探る。機能に気づくためには、その技法を通じてもたらされた効果(ショックや恐怖といった感情の喚起)や、もたらされた意味(登場人物の関係性の対比や強調など)はどのようなものであったかを振り返ってみるのが良い。さらに、もし別の技法が使われていたら同様の効果や意味が得られていたかを想像することで、映画スタイルに対する感覚をより研ぎ澄ませることができる。

古典的ハリウッド映画

物語映画──ストーリーとプロット

私たちが「映画を見に行く」と言うとき、大抵の場合、それは物語を語る映画を見に行くこと──すなわち「物語映画 Narrative Film」を見ること──を意味している。物語形式はフィクション映画に多く見られるが、ドキュメンタリーや実験映画、アニメーションなど他の基本的なタイプにもしばしば見られるものである。

ボードウェルは「物語Narrative」を「時間と空間のなかで生起する因果関係をもつ出来事の連鎖」(『FA』p.66)と定義した上で、映画作品の物語の厳密な分析を行うために、「ストーリー Story」と「プロット Plot」という語を導入する(なお『CHC』では、ロシア・フォルマリズムの用語を導入してストーリーをファーブラ、プロットをシュジェートと言い換えているが、本稿ではストーリー/プロットで記述する)。

ストーリー」とは、「物語上のすべての出来事のまとまりで構成されているもの」(『FA』p.67)である。ここで言う「出来事」には、作中で明示される出来事と、観客が想定・推測する出来事の2種類がある。ストーリー上で示される世界全体は「物語世界 Narrative World」と呼ばれる。

プロット」とは、「観客の前に映し出される映画作品中で、視覚的・聴覚的に示されるものすべてを言い表す用語」(『FA』p.67)である。ストーリーとプロットは「作中で明示される出来事」という点では重なり合うが、プロットには、タイトルやテロップ、BGMなど、非物語的で、ストーリーの領域外にある要素も含まれる。こうした部分的に重なり合う関係を、以下のような図で表すことができる。

ストーリーとプロットの関係(『FA』p.68)

古典的ハリウッド映画の原則──因果関係の連鎖

一口に「物語映画」と言っても、実現可能な物語の数は無限にある。だが歴史的には、物語映画は特定の物語形式の形態に支配される傾向があり、そのような形態が「古典的ハリウッド映画 Classical Hollywood Cinema」と呼ばれる。古典的ハリウッド映画を「古典的」と呼ぶのは、この形態が1910年代後半から1960年代まで──あるいは現在に至るまで──長期にわたり安定した影響力を持ってきたからであり、またそれを「ハリウッド」と呼ぶのは、この形態をもっとも精巧に形作ったのがアメリカのスタジオ映画作品であったからである。

古典的ハリウッド映画の物語において、もっとも重要なストーリー構成の原理は「因果関係」である。登場人物の心理の動きが行動を生み、その行動によって生じた出来事がまた次の心理の動きと行動を生み……というように、原因と結果がドミノ倒しのように連鎖してストーリーが語られていく。

例えば『ヒズ・ガール・フライデー』冒頭のシーンの終わりに、ウォルターは、ヒルディとブルースを昼食に誘う(原因)。すると次のシーンは、三人がレストランに到着するところから始まる(結果)。このように『ヒズ・ガール・フライデー』では、ほぼすべてのシーンが「原因」を示すだけで終わり、その「結果」は、次のシーンの冒頭で示されるのである。

因果関係に基づくシーンの移行──『ヒズ・ガール・フライデー』

心理的な側面から言えば、古典的ハリウッド映画の物語は主に登場人物の「欲望」によって駆動し、因果関係の連鎖が生じていく。何かしら問題を抱えた人物や目標を持った人物が、様々な他者や外部環境との対立・葛藤を経ながら問題解決や目標達成のために努力し、やがて決定的な勝利か敗北へと至る。『ヒズ・ガール・フライデー』であれば、ウォルターのヒルディとの再婚を求める「欲望」がそれに該当するだろう。これを出来事の側面から言えば、冒頭で設定した平穏な状態が何かしらの要因によって侵犯され、再び正常な状態に戻ろうとするのが、規範的なパターンである。

また古典的ハリウッド映画では通常、二つの因果的構造に基づくプロットラインが示される。一つは異性同士の恋愛であり、もう一つは仕事や事件、使命や探究などそれ以外の領域に関わっている。二つのプロットラインは独立しながらも相互に依存し合っており、大抵の場合、クライマックスで一致する。そこで一方の解決が他方の解決のきっかけとなり、時間差を置いて順にプロットラインが閉じられる。『ヒズ・ガール・フライデー』では、①ウォルターとヒルディ、ブルースの恋愛の三角関係と、②ヒルディが取材する犯罪事件の背後にある政治的陰謀——ニューヨーク市長が無実の男アールに警官殺しの罪を着せて、自らの再選に利用しようとしている——という、二つのプロットラインが同時に進行するのである。

理想的には、因果関係の連鎖によって起きた一連の出来事の論理的な帰結が映画のエンディングとなるはずである。多くの古典的な物語映画は強い「終結性」を持ち、未解決なものをほとんど残さずに物語を締めくくろうとする。だが作品によっては、未解決な問題を残したまま中途半端な終わりを迎えることもある。その場合は、激しい抱擁を伴う男女の恋愛の成就など、慣習的で型通りなハッピーエンドにすることによって、強引に物語を閉じようとすることがしばしば行われる。

『ヒズ・ガール・フライデー』でも、最終的にウォルターはヒルディと復縁し、また市長の陰謀を阻止して、アールの死刑執行を阻止することに成功するのだが、実はまだ未解決な問題が残っている。というのも、映画の後半、アールの恋人モリーが新聞記者たちの注意をそらすために窓から飛び降りた後、彼女がどのような顛末を迎えたのかが一切描かれないのだ(飛び降りの直後に、どうやらまだ生きているらしいということが示されるのみである)。古典的ハリウッド映画において、もっとも優先すべきは「終了」ではなく「終了の効果」あるいは「偽りの終了」である。たとえ未解決な問題が残っていたとしても、映画が結末を迎えたという印象を観客に与えることができれば良いのだ。

古典的ハリウッド映画の時空間

古典的ハリウッド映画の「空間」は、観客が生きる現実世界のありように準じたものであることを大前提として、ストーリー構成の必要性に応じた配置がなされる。『ヒズ・ガール・フライデー』の主要な舞台となる新聞社のオフィスには机とタイプライターと電話が不可欠であり、タイプライターは重要なニュース記事を書くために、電話は人物間のやりとりのために使用されるだろう。とりわけ電話は、同作の物語を進行させる上で必要不可欠なものとなっている。ウォルターは偶然オフィスに掛かってきた電話を利用して急な取材の仕事をでっち上げ、ヒルディに仕事に戻るよう迫ったり、食事中に電話の呼び出しを受けたふりをして席を外し、ヒルディとブルースの再婚を遅らせるべく裏工作を繰り広げるのである。

物語の進行に不可欠な電話──『ヒズ・ガール・フライデー』

またその空間は、観客に矛盾を感じさせない安定したものでなければならない。例えば向かい合って対話する二人の登場人物を切り返しで見せる際には、両者を結ぶ線(イマジナリーライン)をカメラの視点が越えないようにする「180度ルール 180-Degree Rule」を設けるなど、厳格な決まりがある。

180度ルール
(緑の領域からのショットと赤の領域からのショットをつなぐと、人物の立ち位置が入れ替わって見えてしまう。)
180度ルールに基づいた編集──『ヒズ・ガール・フライデー』

古典的ハリウッド映画の「時間」もまた、物語の因果関係を明らかにするような仕方で、出来事の順序や頻度、持続時間が決められる。

古典的ハリウッド映画では、登場人物が特定の時間に出会うことを動機づけるための「約束」と、その「期限」が設定されることが多い。期限に向けて進んでいく時間はカレンダーや時計の変化などを通じて示され、最終的には、土壇場の救出劇の成功や失敗によって期限切れが表される。また多くの場合、映画のクライマックスと最終期限は一致しており、作品の持続時間は主人公が目標を達成する(もしくは失敗する)までにかかる時間として、構造的に決定されるだろう。

『ヒズ・ガール・フライデー』の場合は、恋愛プロットの制限時間(ウォルターはヒルディの再婚が予定されている時間までに何かしらの手を打たなければならない)と、犯罪・政治プロットの制限時間(アールの死刑執行が行われる時間までに真実を突き止め、刑の執行を止めなければならない)という、二つの制限時間が設けられている。

コンティニュイティ編集

以上のように、古典的ハリウッド映画において、あらゆる技巧はストーリーを明瞭かつ効率的に語るための手段として用いられる。ストーリーは因果関係に沿って進行しているように見えなければならないし、登場人物は首尾一貫した行動をとっているように見えなければならない。観客に余計な混乱や誤解を生じさせないように、奇抜なプロットや特殊な技巧は避けるのが無難だ。

こうした方針を実現させるための編集、すなわち、首尾一貫して安定した時空間を作り出し、因果関係の連鎖としての物語を明快に語るための編集を「コンティニュイティ編集 Continuity Editing」と呼ぶ。これは批評家のアンドレ・バザンが古典的デクパージュ(Decoupage)と呼んだものに相当し、編集の不可視性(観客に編集点を意識させない)や連続性(各カットがなめらかに持続していくこと)が何よりも重視される。こうしたコンティニュイティ編集(古典的デクパージュ)は、例えば、矛盾・対立したショット同士の止揚を目指すエイゼンシュテインの弁証法的なモンタージュとは対照的だと言えるだろう。

ソヴィエト・モンタージュ弁証法的なモンタージュ
セルゲイ・エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』(1925)

ソヴィエト・モンタージュは、主にその技法やスタイルによって評価される。それに対して古典的ハリウッド映画は、コンティニュイティ編集を中心として観客が予測可能なパターンや馴染みのある技法同士を組み合わせることを基本方針とする以上、必然的にスタイルやプロットはあまり目立たず、意識に上りにくいものになる。そのため作品の革新性も、スタイルやプロットより、ストーリーのレベルで判断され、評価されることが珍しくない。

古典的ハリウッド映画の「観客」──期待と仮説

古典的ハリウッド映画の「観客」は、何も知らない状態で映画を見るわけではない。あらかじめ様々なルールを内面化し、社会的な常識も活用しながら、十分に準備を整えた状態で映画館に向かう。

観客は、明確な因果関係に基づくストーリーとそこに至るまでのサスペンスが用意されていることを期待しながらその作品を鑑賞し、作中で起きる重要な出来事の原因と結果に関して、様々な仮説を立てる。典型的な行動をとる登場人物、反復される台詞や行動などが、仮説を根拠づけるためのデータとなる。また大抵の場合、シーンの冒頭には状況設定ショット(エスタブリッシング・ショット Establishing Shot)が置かれており、そのシーンがいつどこで起きている出来事なのかを説明すると共に、登場人物や重要な事物の位置関係を把握するための手がかりを提供してくれるだろう。

状況設定ショット──『ヒズ・ガール・フライデー』

作中、手がかりは数多く提示されるが、仮説が即座に正解であると気づいてしまえば、観客は映画に対する興味を失ってしまう。それゆえ、映画は複数の要素を介在させて、仮説を確かめるまでのプロセスを複雑化する。最終的な答えを示すのを遅らせて観客をじらしつつ、注目すべき事物を登場させたり、『ヒズ・ガール・フライデー』のように速いリズムの「語り」が為されることによって、退屈をせずに鑑賞ができるような工夫が為される。例えばクライマックスと最終期限を一致させる技法は、映画の終わりまで観客の関心や興味を惹きつけ、最終的な仮説を構築するよう促すだろう。

見るべき対象を際立たせる画面設計

観客が物語を容易に把握できることを最優先課題として、古典的ハリウッド映画の画面設計(照明や色彩、構図、カメラワークなど)は、見るべき対象を際立たせるために最適化される。人物を撮影する際はアメリカンショット(膝から頭部までを収める。腰の拳銃が収まる構図のため、カウボーイショットとも呼ばれる)とミディアム・クロースアップ・ショット(胸から頭部までを収める)の間で枠取られることが多く、音声も台詞が明瞭に聴こえるようにしなければならない。極端なロングショットやクロースアップ、ハイアングルやローアングルを目にすることは滅多にないが、ストーリーやジャンル上の必要性があれば、特殊な構図が用いられることもある。

アメリカンショットカウボーイショット
(左)『ヒズ・ガール・フライデー』
(右)セルジオ・レオーネ『荒野の用心棒』(1965)
ミディアム・クロースアップ・ショット──『ヒズ・ガール・フライデー』

同様に、例えば照明に関しても、コメディではハイキー・ライティング、暗い街路は単一光源照明、女性のクロースアップは光の拡散度を高めるなど、ジャンルや被写体に応じたライティングが設定されている。

光の拡散度を高めたライティング
ジョセフ・フォン・スタンバーグ『間諜X』(1931)

特に重要な事柄は、台詞や行為などを反復することで繰り返し提示し、強く印象づけようとする。シーンの終わりには、次のシーンに関係する事物を映したり、その後の展開を予見させる顔の表情などを映すことでシーン間に連続性を持たせる。どうしても唐突な場面転換が必要な場合は、字幕や慣習的な手がかりを示すことで、観客が混乱しないような配慮が為されるだろう。

古典的ハリウッド映画に対するオルタナティブの物語映画

古典的ハリウッド映画は、現在でも多くの物語映画に見られる形式的特徴であるが、それがすべての物語形式にとって不可欠だというわけではない。例えばジャン=リュック・ゴダールは『勝手にしやがれ』(1960)において、ジャンプ・カットを用いることで空間や時間の連続性──あるいは画面の視覚的な連続性──の慣例に違反している。同一の被写体を捉えた二つのショットが、カメラの距離や構図を大きく変えることなくつなげられることにより、僅かに背景が変化し、ストーリー上の時間もいくらか過ぎたことが示される。こうした技法は、画面上の飛躍(ジャンプ)を非常に目立たせ、古典的ハリウッド映画に慣れた観客を混乱させることになるだろう。

ジャンプ・カット
ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1960)

あるいはウォン・カーウァイの『恋する惑星』(1995)では、二組の登場人物の恋愛を巡るプロットラインが示されるが、その二本のプロットラインは平行的な関係を保ったまま進行し、最終的には一まとまりになるだろうという期待を裏切る。同作は意図的に観客の期待を再調整し、その関心を「物語の平行性」(『FA』p.394)に向け直しているのである。

ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1995)

 





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