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今日も今日とて、お母さん。-生まれる編-


あれから一年。
よく歩き、笑い、泣き、怒る。
今日でこの子は一歳になった。

子が生まれてからは、毎日頭も身体も心もフル稼働、HPを使い切る日々。私の場合、HPを使い切るとその日の出来事を記憶しておくことができなくなるらしい。子が3ヶ月になった頃から焦って日記をつけはじめたけれど、だからもう新生児の頃はどうやって毎日過ごしていたのか、あまり思い出せない。

出産の日のことなんて絶対に忘れるわけないと思っていたのに、これも正直なところ少しあやふやなのだ。「人生で一番HP使った日だししょうがない!」と開き直っているけれど、大切な日の記憶がこれ以上薄れていかないように、覚えていることをそのまま書こうと思う。

***

麻酔を入れてから陣痛の痛みはほぼ感じなくなり、なんとなくお尻が押されるような感じがする程度だった。麻酔が入っているので立ち歩きは厳禁、私はただただベッドで横になっていた。

不思議だったのは、麻酔の効きを確認する作業。助産師さんが濡れたガーゼで私の太ももを触るのだけど、麻酔がちゃんと効いていると、その冷たさを全く感じない。冷たさは感じないのに触れられている感覚はある。どういう理屈なんだろ…と不思議に思いながら、数時間おきに何度も濡れたガーゼは登場した。
そのたび子宮口の開き具合も見てくれた。たぶん、すっごい手を突っ込まれていたと思うんだけど、あれも麻酔のおかげだったのか、痛みは全く感じなかった。

出産に立ち会うために休みを取っていた夫は、私が入院し麻酔諸々終わったあと、深夜に一度帰宅し、翌朝飲み物などを携え病院きて、そこから出勤し、結局午後休を取ってまた病院に戻ってきてくれた。何をせずとも、とにかくそばにいてくれるだけで心強かった。「この人は私にとって、自分が究極に心細いとき、親よりもそばにいてほしい人になったんだなぁ」と、夫を見ながら思ったりしていた。


夕方になり、赤ちゃんも下がりはじめ、そろそろかなという雰囲気を帯びてきた。
分娩台のある部屋へ移動すると、途端に緊張しはじめた。陣痛の痛さの代わりと言っちゃなんだが、長時間麻酔を入れてることによる吐き気がものすごく、それが結構キツかった。そのくせ、私は「すみません、お腹空きました」と助産師さんに訴え、分娩台の上で白ごはんをかっ込んだりもした。(「あんまり食べたら吐き気強くなるから少しにしてね」と言われたけれど、夢中でかっ込んだ)


と、ここまではなんとなく覚えているけれど、このあとあたりからの記憶がほとんどあやふやのぽやぽや。
たしか破水をして、だけど子の心拍がどんどん弱まってきてしまい、ちょっと急がないとということになり、陣痛促進剤を使ったり、でも実際のお産は促進剤を止めて自然にくる陣痛のタイミングでするからねー!と言われ、いきみの練習なるものをしたりした(いきみの練習て)。

諸々準備が整い、ついに本番、産み出す段となった。
本来なら陣痛に合わせていきむところだが、無痛分娩の場合は痛みもなければなにもわからないので、先生の合図に従い踏ん張るしかない。踏ん張ってはみるけれど麻酔が効いてるからそれも一苦労。隣りでずっと手を握ってくれている夫は「じょうずじょうず!」と励まし続けてくれた。
1,2回かな、いきんだあと、先生が「次で出すよ!」と言った。だから私は次で出るんだなぁと思った。
だけど赤ちゃんはなかなか出なかった。急がないと赤ちゃんが苦しがっている、ただでさえ心拍が弱まっていたのに、早くしないと。
結局吸引分娩となり、故に会陰切開をすることになった。裂けることを恐れて会陰パックとかすごく頑張ってたのに、あっさりさっくりと切られてしまった。


先生の「いきんで!」の声。
「んーーーーー!!!!」と踏ん張る私。
なんかもう一人の先生にお腹おもいっきり押されてたような気もする。
強く手を握る夫。

どぅるん、と現れた赤黒い色をした私の赤ちゃんは、「アァ」と一回小さく泣いたあと、全然泣かなくなってしまった。


…あれ?臍の緒は夫に切ってもらうってバースプランに書いたのに、やってないじゃん。というか生まれたら私の胸のところに来るんじゃないの?顔もあんまり見れてないのに、赤ちゃんどこいった?


麻酔のせいなのか、出血のせいなのか、とにかく意識が朦朧としていて、でもなんだかただ事じゃない感じはわかって、私からどぅるんと出てきた赤ちゃんは、私の横をすぐに通り過ぎ、頭の上の奥の方にある処置台でたくさんの大人に囲まれていた。「吸引」とか「急いで」とかそういう言葉は聴こえてきたけど、赤ちゃんの声は聴こえてこなかった。

すべてを見ていた夫は、「赤ちゃん大丈夫?赤ちゃん大丈夫?」と繰り返し聞く私に、ただ「大丈夫」と答え続けてくれた。なんの根拠もなかったはずなのに、自分も怖くて仕方がなかったはずなのに、赤ちゃんが処置されている様子を私に見せまいと必死に私の真横に立ち、手を握り続けてくれていた。


どれくらい経ってたんだろう。15〜20分くらいかな。気がつくと、赤ちゃんは私のところへやってきた。無事に命が繋がったようだった。胸に抱かせてもらったけれど、「赤ちゃんちょっと疲れちゃったから、このあと保育器の中で休んでもらうからね」と言われ、赤ちゃんはすぐに行ってしまった。

肺に濁った羊水が入ってしまい、そのための処置を行っていたとのことだった。とても怖くてどうなってしまうのかと思ったけれど、翌日には保育器からも出ることができたし、本当に、本当に良かった。

切開した傷の処置は、あとから夫に聞いたら1時間弱かかっていたらしい。吸引したからなのか、傷は広く深かったようだ。会陰切開って1〜2センチちょろっと切る程度だと思っていたのに、いったいどこをどれだけ縫ってるんだ?と思い、途中「まだかかりますか…?」と息も絶え絶え先生に聞いたとき、「今中の方やってますから、もう少し頑張ろうね」と言われて考えるのをやめた。中の方て。怖すぎ。


こうしてなんとか私たちの出産は終わったのだが、あまりよく覚えていない私とは違い、バッキバキに全てをはっきり見続けていた夫は、とても大きなトラウマを抱えてしまった。今でも出産のときの話をすると本当に辛くなってしまうらしい。
生まれた子は土気色をしていて泣かない。
大人に囲まれてたくさんの管やらなにやらで処置されている。
一方の妻は血まみれで顔面蒼白意識朦朧。
何もできずただ立っているしかできない自分。
トラウマにならないほうがおかしい。同時に二人を失うことも頭をよぎったと言っていた。

よくぞ正気でいてくれた。よくぞ手を握り続けてくれた。
立ち会わせてしまったことを少し後悔しているけれど、でも立ち会ってくれていなかったら、私は今こうして私として居てられなかったと思う。夫よ、ありがとう。


全ての処置が終わったあと、先生の「一番強い痛み止めにしよう!」という声が聴こえたような聴こえなかったような。引き続き意識は朦朧とする中、両親とも対面することができ、涙ながらに「よく頑張った!」と褒められた私は、そのまま気絶するように眠ったのだった。


***

以上が私の、出産当日の記憶です。こうして私は、お母さんとしてのスタートを切りました。
たびたび“意識朦朧”と書きましたが、あのときは本当にぽやぽやしておりました。麻酔の影響もあったのかもしれませんが、たぶん血が足りなくなってたんじゃないかと思います。
私のお産時の出血量は1650mlでした。母子手帳の【出血量】の欄、【多】に丸してあったのですが、それがどの程度の多なのかがわからず調べたところ、経膣分娩時の出血量というのは通常500mlらしいんですわ。ちょ、3倍超えしとりました私。そりゃ顔面蒼白意識朦朧なりますわ。
それでも母子共に健康で産院を退院することができ、こうして今日も元気に暮らしております。子の生命力と、自分のタフさに感謝です。

そしてこれは笑い話なのですが、分娩時にいきむことでうんちちゃんがね、出るって話はよく聞いてたんですけどね。私は誰からも何も言われなかったんで、「綺麗にお産できたんだなぁ♪」と思っていたんですが、そんなことは全然なかったんですよね。
産む前から便秘で、産後もなかなかでなくて不安に思ってたんですが(傷が開くのではと怖くてトイレなかなか行けなかった)、それをポロッと母に溢したとき、母から「夫君に聞いたら『全部出てたので大丈夫だと思いますよ』って言ってたよ」と衝撃の事実を知らされました。

全 部 出 て た の で 大 丈 夫! ?

どうやらいきむ瞬間にターボ全開してたらしいです。全然綺麗なお産じゃなかったみたいです。そんな姿を見てもなお愛してくれる夫よ、ありがとう。


出産はただ事じゃないですね。怖いことも辛いことも痛いことも恥ずかしいこともたっくさんありました。子育てだってきっと同じ、ただ事じゃないことの繰り返しなんでしょう。それでも私はお母さんとして、今日もこれからも生きていきます。

長くなりましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
子育ての日々について、日記代わりに今後も綴っていけたらいいなと思っているので、また読んでくださると嬉しいです。


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