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「ダウト」プレビュー 2021.11.30@風姿花伝 観劇感想

風姿花伝プロデュース公演。もはや年末の風物詩(笑)
末永く、末永く、続いていかれることを願いつつ、今年はプレビュー公演から拝見させて頂きました。プレビュー公演とあって開演前に演出の小川さんからも御挨拶が。小川さんのプレビュー開演前の御挨拶は今までも何度か伺ったことがあるのですが、始まる前の客席の微妙な緊張感?を良い感じに解して下さる微笑ましい可愛らしさでした(^^)

以下、公演の内容に触れています。
未見の方は読まれない方がよいかと思います。
この作品はサラの状態で観た方が面白いですよ~(^^)


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登場人物は主に4名。
まだパンフレットが売っていなかったので役名が微妙に判らず。
間違えちゃうのも何なので、大雑把に。
 ☆校長(那須さん)
 ☆担任(伊勢さん)
 ☆司教(亀田さん)
 ☆お母さん(津田さん)
上演時間、105分くらい(休憩無し)
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以下、プレビュー公演時点での観劇感想です。
(ちなみに筆者は「ダウト」自体、初見です)

見終わった後での、作品全体の第一印象は
『4人それぞれに解るところがあるなぁ・・・』でした。

<あらすじ>
作品の時代背景は恐らく今から五十年くらい前。
舞台となった場所はミッションスクール(共学)の中。そこに他校で暴力の被害にあった黒人の少年(十二歳の少年)が転校してくる。が、学校に馴染めず、ここでもまたイジメの被害に合いそうな気配。それを案じて体育教師である司教が彼を礼拝の担当に任命し、目をかける。そのことで生徒たちによるイジメの危惧自体は和らいだものの、校長は別の問題を危惧していた。司教が生徒である少年に性的な関係を迫っているのではないか・・・という『疑惑』だ。


<以下、感想>

今ほどLGBTの方々が市民権も得ていない時代だったのでしょうし、カミングアウトする人も殆どいなかったでしょうから、表立って話すことさえ憚られる、そうした社会背景でしょうか。

恐らくは、白人系の人達が多い居住区で、黒人の少年がイジメの対象となる。社会の中の人種差別に個人が抗ったところで限界があることを誰よりも知っていたであろう少年の「お母さん」が、そうした人種差別的な社会から息子だけでも救い出してあげたい(=このミッションスクールを無事に卒業させてエリートコース?に乗せたい)、その為には清濁合わせ飲んで(しかも息子自身がそうした性的傾向を拒絶しているわけでもないことを母親としても察しているので)司祭とのことは目を瞑って欲しいと校長に願う。そうした「お母さん」の気持ちも、解る。

でも、相手はまだ12歳の少年で、今の法で言ったら児童虐待に該当するのでしょうか? 自分の状況を正しく理解して判断するのは難しい子供であり、学校の中でたった一人の黒人(しかも転校生)という孤立しやすい子供をターゲットにしている、その時点で教師であり司祭でもある男性の卑怯とも思える面もあるのですが、一方で、そうした立場の子供には学校の中に味方となる人間が必要であり、その庇護がなくなれば、反って少年は今まで以上に苦しい立場になる、という「司教」の弁明も、解る。

そうは言っても、それは詭弁に過ぎず、自分の目的の為に学内で一番弱い立場の子供をターゲットにしている時点で司祭の利己的な面は非難されるべきことだし、事実であれば犯罪であり、第二、第三の被害者を出さない為にも、司祭を学校から除外することが必須であると考える「校長」の意見も、解る。

担任の先生は、まだシスターになって2~3年も経っていないのでしょうか? 新入社員(新米教師)にありがちな、熱意?だけで進んでしまう、良く言えば「真っ直ぐ」、悪く言うと「花畑」。何が正しいのか?自分で判断することも出来ず、自分は自分が抱く理想の先生になりたいだけなに・・・と願う「担任」の気持ちも、少しだけ解る。

4人それぞれが、互いの立場で自分の意見を通そうとする。しかし、解っているのは、事実以前の『そうかもしれないという「疑惑」』のみ。
その一つの「疑惑」でさえ、見方や捉え方が変われば、浮かび上がるものが変わり、何が解決方法として「正解」なのか?も、判らなくなってしまう。

今の世の中でも、必ずしも「正義」が絶対的な「正解」でもない面があったりして、「正義」を振りかざすことで、他の誰かが傷つく場合も多分にありますよね。例えば現代の感覚で言うと、司祭が生徒である12歳の少年に本当に手を出していれば司祭は犯罪者ですけれど、もし手を出していなければ、司祭自身も冤罪の被害者となる。


劇中の後半、校長に追い詰められた司祭は教区の上役?と交渉し自ら学校を去る。しかし、司祭は司教として栄転している。そのことから浮かび上がる社会が抱える問題の数々。

男性のみが着任出来る司教や司祭職。
シスター(女性のみ)は彼らに直訴することも難しい。
そこには圧倒的な強者と弱者の構造(パワハラの温床)があり、性別によって就ける仕事が分けられているという男女差別もあり、また背後には黒人への偏見を主にした人種差別もある。

この話の先で。
もしかしたら・・・という想像にしか過ぎないけれど、栄転した司教が権力を持ち、校長が免職になるように手を回すかもしれない。エンディングの、どこか晴れ晴れとしない空気が、そう予感させるもののようにも感じられて。

そうした色々な差別や偏見、強者と弱者の構造は、程度の差こそあれ今を生きている私達の社会の中にも沢山ありますよね。自分が居る場所の中で。先ずは問題に気付けるか?否か?は、校長が冒頭の場面で言うように周りを見ているか、人を観察しているか、色々な事に疑問を持っているか、そうしたことを考えることが必要なんですよね。

そして、その問題が見つかった時。
自分ならどうするのか?
何が「正しい」と考えるのか?
その「正しさ」を通す為に失うものがあることを覚悟出来るのか?

シスターのように、自分の見たいものだけを見て、あまり気にせず、考えず、自分のことだけを優先して生きていく道もあるかもしれない。確かに、それで自分が被害に合わなければ(実際には被害にあっているけれど気付きさえしなければ)、楽だし、表面上は幸せかもしれない。

それでも貴方は自分の中の「信じるもの」に向き合いますか?
この戯曲は、観ている人間にそう問うてきているような気がします。


<戯曲に対するもの>
上記までは、プレビュー公演の観劇当日に、観劇アンケートとしてお送りしたものとほぼ同じ内容なんですが、その時点で自分の中ではまだ腑に落ちないというか「ダウト」の劇作家が何を言いたいのか?つかみかねていたんですね。
あれから数日たって、改めて考えてみると。
当初、主な登場人物として4名出てくるので、その関係性は「四角形」なのだと思い込んでいたんです。
でも、よくよく思い返してみると。
「校長」「司教」「お母さん」の3名は、互いの立場や主義主張は違えど、渦中に居る12歳の少年のことを考えていて、その対処法について意見が分かれている。けれど、一人、担任であるシスターだけが、その少年のことよりも自分自身が間に挟まれ苦しんでいることを嘆き、全てが丸く収まりすればいいと現実の問題から目を逸らしている。言わば「3:1」の構図なんですよね。
そうした視点から改めて「作品」を見つめた時、シスターが劇中に居る意味って何なんだろうなぁ?という疑問を感じて。
もしかしたら、シスターの姿は「現実の問題に気付かず目を逸らしたまま自分が見たいものだけを見ている貴方(=観客)は客観的にみるとこうした「お花畑」みたいな人なんですよ?」って目の前で見せられてるんじゃないかと。自分の姿って、なかなか自分では気付けないから。

ちょっと、その辺りは改めて本公演を拝見してみて、改めて考えてみたいなと思います。


戯曲自体は「考えるのが好きな人」は好きだと思いますし、届けて下さるキャスト陣の腕っぷしも頼もしいので、これから19日の千穐楽に向けて作品の精度が上がっていくのではないでしょうか。この先も楽しみです。