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「桜の園」@PARCO劇場 観劇感想・第2弾(2023.08.13+2023.08.20)

現実逃避。人間、多かれ少なかれ、皆、現実逃避したことの1回や2回、ありますよね。ありませんか?(私は数えきれないくらいありますよ~笑)
今回の「観劇感想第2弾」は、第1弾の中で書ききれなかった13日に感じたことと、20日に観劇した時に感じたこと、改めて今回の「桜の園」の中で演出家のショーンさんを通して感じた事を書きたいと思います。
概要は目次を参照なさって下さい。
なお、ショーンさんが作品を立ち上げる為に詰め込まれたものも、それを具現化して舞台上に立ち上げた演者さん達の創意工夫も、細密であるが故に客席で受け取る情報量もとても多くて。元々、自分が感じたことを言葉に落とすのが苦手なものですから(言い訳です)「こう感じた人もいるんだな~」くらいの気軽な気持ちで御読み頂けたら幸いです。(長くて、すみません)



観劇感想の第1弾はこちらです。公演詳細等は第1弾を参照下さい。
また、今回の2023年ショーン・ホームズ版の演出で立ち上げられた「桜の園」が第1週目の時はどう観えたのか?その辺りの第一印象も第1弾に書いています。
御時間ありましたら、下(↓)の第1弾から読んで頂けると第2弾の内容とつながってくるんじゃないかな~?と思います。宜しければ。


以下、作品の内容に触れています。
未見の方は御注意下さい。
また、個人の感想です。





「登場人物にみる、(人間)あるある」


ある日の夕方。「明日、期末テストだけど、殆どテスト勉強してない(やばっ)」そうした状況の中、(今更勉強しても間に合わないし・・・)と思ってTV観始めちゃったりしたことありませんか?
私は毎回、TV観ちゃうか、漫画読んじゃうタイプでした(笑)
(当時のポリシーは最低限の労力で平均点が取れれば良い、だったもので)

それと「桜の園」が、何の関係がある?
そう思われた方々。目の前の現実から目を逸らして、もしかしたら自分に幸運が舞い込むかもしれない(=テストに数少ない知ってる部分が出るかもしれない)と思ってる学生時代の私とピーシチクはそっくりです(^^;
私も1回だけ、とうとう詰んだ!と思った時がありました(赤点取りました!)。残念ながらピーシチクのように土壇場の幸運が舞い下りて来た!なんてことは、なかったんですよね。現実の世界はそんなものかも?しれません。

それでも当時の私は(平均点の羅列でも)これだけ勉強しなくて平均点が取れるなら、勉強したら(やる気になったら)出来る子なのかもしれない?という、何の根拠もない楽観的な考えも持っていました。そんな所は、まるでガーエフかな?(笑)

でも、「ちゃんと、こつこつ、続ける」ことも、一つの才能なんですよね。努力し続けられる才能、能力。目の前の現実と向き合って、一歩一歩、階段を登っていくように。誰が見ていなくても、自分を誤魔化さず。ロパーヒンにはその才能があった(=地道な努力をした)んだと思いますし、それは学生時代の自分との圧倒的な差なんだと思います。

そんな風に、この「桜の園」の登場人物には「人ってそういうところあるよね~」という一面が沢山ありますし(全員ですよね)、同じ人の中に相反する部分もあったりして、すべてが理路整然と表現されているわけではないけれど、ショーンさんの演出を通して、人間って、そういう所もあるよね~、と感じるんです。そういう意味では、チェーホフが生きていた時代も現代も、ロシアもイギリス(英語版翻訳のサイモンさんや演出のショーンさん)も日本も、人の根っ子の部分は、さして変わらないの部分があるのでしょうね。

例えば。
ラネーフスカヤに侮辱されたトロフィーモフ。いくら相手が(大好きな)ラネーフスカヤでも許せない!と激怒して彼女の側から去っていったはずなのに、パーティーの騒ぎに巻き込まれて?またラネーフスカヤの所に戻ってきて、あれだけ侮辱されて激怒したのにラネーフスカヤが一言謝って「踊って♪」と御詫びに誘ったら、瞬殺で許しちゃって一緒に踊っちゃう。with笑顔。
(しかも笑顔で踊るんかーい!?)※13日
もう、心の中で爆笑しましたね(笑)※13日
まぁ、でも、ここまで極端でなくても、好きな人には人間弱くて。どう考えたって相手の方(今回の場合はラネーフスカヤ)が悪いのに、いつまでも怒り続けられなくて許しちゃったりしますよね。
縁が切れる時は、怒るんじゃなくて「冷めた時」とは言いますが、この「桜の園」にはその場面もあって、さすがチェーホフ、抜かりなく。ちなみにどの場面かと言うと、ラネーフスカヤが胸元のハンカチを取り出そうとしてウッカリ落としてしまった(パリの夫から毎日届く)電報。彼女は気付かないけれど、トロフィーモフはそれと気付いて、彼女が気付く前に脚で踏んで隠すんです(これは13日、20日の時は屈んで拾ってましたが、落ちたところによるのかも?)。あの時の(トロフィーモフの)冷ややかな表情。
(あー、冷めたんだな・・・)と言外に伝えてくるショーンさんの演出&トロフィーモフの表現に、(あるある・・・)を感じませんか?

そうした、ショーンさんが「これでもか!」と詰め込んだ、作品の核心部に辿り着く為の布石(ヒント)達。でも「桜の園」という戯曲の中の必要な場所にだけ的確に置いてらっしゃるように感じるので、邪魔じゃないし、寧ろ(そうしたヒントに気付きながら芝居を観ていくことが)宝探しのようで楽しいんですよね。
私自身も、まだまだ、気付いてない、見つけていない布石が一杯ありそうなので、東京千穐楽の29日までの間、じっくり、じっくり、拝見していきたいな~と、思っています。
(この「桜の園」を創ったショーンさんの頭の中を覗いてみたい、そうした興味も沸く作品になってきたようにも感じるので)

13日の時点では、(個人的に)そうしたショーンさんの意図が見えてしまう部分もあったように感じたけれど(13日時点)、1週間たって(20日時点)、演者さん達の中に上記のような意図を含めて各々の役柄が浸透しつくしたのか?、役柄というよりは目の前にその人が居て生きている・・・そうした感覚に近くなって、演出の意図的なものは奥の奥に隠れ、そこに生まれたのは、チェーホフの「桜の園」の外皮を剥いて剥いて最後に残った純粋な「種の核」みたいなものだったように感じました。
20日の公演、素晴らしかったと思います。
(ショーンさんに今日の舞台、見て頂きたかったなぁ・・・)
カーテンコールの時、客席で、そう思ってました。

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せっかくなので、引き続き「登場人物にみる、(人間)あるある」を。
今回のショーンさんの演出は、特に初日の頃からずっと登場人物それぞれにスポットを当てているように感じられて、その人がどんな人なのかな~?と感じる部分を一度まとめて書いてみたかったんですよね。
基本ベースは13日の時の印象ですが、20日に大きく変わってたなと思う部分は特記してあります。

「ラネーフスカヤ」
(※観劇感想第1弾で書いたものと一部重複してます。)
彼女は自身も浪費癖と言っているけれど、それは彼女だけのせいでもなくて、帝政崩壊前後の代々続く貴族の家に生まれた女性が子供の頃から受けた教育といえば恐らく教養的なもの(語学、芸術、音楽、ダンス、手芸等)で、政治経済などの基礎を学ぶような機会は無かったでしょうし(現代の義務教育制度は当時ないので)、いくらロパーヒンが借金返済方法を説明しても理解出来る素地がラネーフスカヤの中には無かったんですよね。
現代の教育システムではなく当時の状況を元に考えれば、彼女が「解らないんだもの」と言うのは聞く気が無いわけではなくて、本当に解らないだけなんじゃないか?と思うんですよ。でも、無学な状況から実地で経済を学んできたロパーヒンには、そうした状況が察せられないので残念なことに二人はすれ違ってしまって・・・。
女主人として桜の園が破綻する前に、時代がどんどん変わってきていることに気付いて、自分自身も変わっていこうとすれば、手を差し伸べてくれる人(=ロパーヒン)は居たのに。
居たけど、現実の危機的状況を見つめるより一人の女性として彼女は生きたかったし、仮に破綻しても誰かが助けてくれると根拠なく信じてる・・・それがラネーフスカヤという周りの人を魅了する天性のものを持って生まれた人の幸せであり不幸だったんじゃないかなと感じました。
ラネーフスカヤは、「理性」か?「感情」か?で言ったら、「感情」が行動原理になってる女性なんでしょうね?
一昔前、「男性脳」と「女性脳」という話題もありましたけれど、左脳と右脳を繋ぐ部分が女性の方が男性より太い場合が多いので、(脳の構造的に)女性の方が感情豊かな場合が多いらしいですし、そういう意味でもラネーフスカヤは女性らしい女性なのかも。
情が深いというのか、その先に破綻しか待っていないと心の奥では察しているのに、パリに居る(どうしようもないダメな、しかも自分を騙して捨てた)夫が見捨てられない。共感は出来ないけど、そういう人もいるんだろうな・・・と思う人。
反面、彼女は子供の頃から自分が誰からも愛される素養を持っていることを自覚していて。ロパーヒンに対しても、トロフィーモフに対しても、それを自覚して利用している面もあるんですよね。いつまでも清廉無垢な少女のような面影や雰囲気を持ちつつも、それを利用する大人の女の知恵と妖艶さ合せ持っていて。そういうものって、演じるだけでは出せないものがあるのかも?しれない・・・例えば、存在自体の説得力のようなものが。
<以下20日>
時代の変化が早すぎた時に桜の園の女主人となってしまったことの不幸(女主人に向かない性格)に気の毒さを感じつつも、言葉は厳しいけれど自業自得な一面もあったけれど、競売後のロパーヒンがこの日は変わったこともあって、競売の結果を知り泣き崩れるラネーフスカヤの姿に自業自得と感情的に切り捨てられない想いが生まれた日でした。人生を時代の変化という運命に翻弄された人の気の毒さとでもいったら伝わるでしょうか・・・。
その場面の後、彼女は舞台床面より一段上がった場所(下手側)から降りるんですよね。その事で、桜の園の女主人としての自分はもう終わったのだと自覚した寂しさが言外に伝わってきたように感じました。13日に時点では、ロパーヒンとワーリャの結婚を勧めるのも、娘の幸せを願うと同時に、その後の(困った時の)布石も半分あるように見えたけれど、20日のラネーフスカヤからは、心からワーリャの将来を心配し幸せを願っている母の想いが強く感じられたようにも感じました。

「ロパーヒン」
(※観劇感想第1弾で書いたものと一部重複してます。)
幼少の頃から彼女に魅了されたロパーヒン。代々の百姓で、桜の園の代々の主人に所有されてきた家族。詳しくは語られないけれど、彼の父親も酔って子供(=ロパーヒン)に暴力を振るうくらいなので、父親自身も幸せではなかったのだろうし、幼少期のロパーヒンもまた(恐らく唯一の)楽しく美しい想い出がラネーフスカヤとの出会いだったことから察するに、幸せな子供時代ではなかったのだと想像しています。
そうした負の記憶の元である「桜の園」。小作民一家として代々の桜の園の当主一家に所有・搾取され続けてきた一族の子供が時代の転換(農奴解放)と共に財を成し実業家となる。
同時に、自分の(心の)支えのようになってきた愛するラネーフスカヤ。
彼は、周りからは金儲けにしか興味がないようなえげつない人に見られていたのかも?しれないですが、こと「桜の園」の売却問題に関しては、彼は心からラネーフスカヤの為に尽力しようとしていたよう感じるけど、その真意も手段も彼女には受け入れられないどころか理解もされなかったですよね。
もう、どうにもならない状況になって(この段階になって、後ろのフェンスの上に鉄条網が張り巡らされる)、彼はラネーフスカヤを救うことを諦め、自分の過去の記憶(代々の領主の地であった桜の園に所有・搾取され続けた一族の記憶)にピリオドを打つ為に、自分の力(財力)で桜の園を自分のものにした。彼は時代の変化の中で、人の欲望と向き合い、人の清濁併せ持つ本性を知り、貨幣経済の中で生き抜く道を選んだのでしょうか。
<以下20日>
競売後の場面。この時のロパーヒンの姿によって、対するラネーフスカヤから観えるものが変わってくる。そのことを痛感した20日の観劇でした。
13日の段階では、桜の園所有者となったロパーヒン(夢が叶った)の高揚と同時に、彼の心の中に居続けるちっちゃなお百姓さんが大好きなラネーフスカヤを傷つけることで自分自身も傷ついて、その痛みが客席にも伝わってきたように感じましたし、そういう意味では、ロパーヒンに同情してしまう面が強かったのかもしれません。
しかし、20日の時点ではそうした印象は影を潜め、逆に何が浮かび上がってきたのかな?と改めて反芻してみると・・・。私が感じたのは、代々、この土地の当主に所有され搾取され続けた(自分の代々の家族も含めた)農奴達の怒りとか報復のような想いがあったように思えて。彼の個人的な感情と言うよりは、時代の転換点に起きた革命だったり反逆のような印象でしょうか。
トロフィーモフとの会話の中で、ロパーヒンが行おうとしている事を想像してみると、(トロフィーモフのような思想的な革命ではなく)これからの社会(資本主義的な世界)の中で力を持つ貨幣を使って、今まで当たり前のように行われていた不平等を正していこうと考えていたんじゃないか?と、ふと感じたんですよね。その答えは恐らく書かれていなくて、この作品に触れた人達の想像に委ねられているんじゃないのかなぁ・・・と思いました。
上記のラネーフスカヤの項でも書きましたが、彼女への想いから手助けしようとした一面も真実ならば、長年の(解放されたとは言え)農奴達の恨みを彼もまた持っていたことも真実だったんだなぁ・・・と。
別の場面でトロフィーモフがアーニャに語ってましたよね。桜の園の中の人達は美しい桜の木はみても、それを支えてきた人達の姿はみようとしない、と。その中に、ロパーヒン自身の想いも重なってたんじゃないかなぁ・・・と、記憶を反芻してみて、思っています。

「トロフィーモフ」
(※観劇感想第1弾で書いたものと一部重複してます。)
人そのもの、人の欲を知っている、それがロパーヒンという人の(地に脚がついた)強さの一つなんだと思いますが、それが学生であるトロフィーモフとの決定的な「差」なのかと。人の清濁を見つめた上ではなく「清い」理想を追い求めると言ったらいいのでしょうか・・・。
人は思想だけでは動かない。机上の空論だけでは人は生きていけない。
しかし、新しい未来、平等な社会を理想とする(当初の社会主義でしょうか)トロフィーモフの視点は、自分の中から外(社会)に向けたもので、外から自分に向けた視点が欠けている・・・そのことで、どこか現実と乖離していることに気付いていない危うさも同時に感じる人でした。
彼の未来がどうなるか、現実の「人」を実態として知っているロパーヒンは、トロフィーモフの思想や理想通りにはならないであろうことを予知しているけれど、二度と出会わないであろう「友」に本心は言わなくて、せめて餞別(お金)でエールを贈ろうとする。ロパーヒンにとって、トロフィーモフは数少ない理解者の一人だと思えたから。数少ない救いだったから。
<以下、20日>
トロフィーモフは、学生らしい(いや、もう、卒業していてもおかしくない年齢らしいけど)理想論を語っているようにも見えるし、それは机上の空論のようにも見えるけど、それが実際にどうなったのか?は、未来(=歴史)が決めることで、今、生きている誰にも未来はわからないんですよね。
トロフィーモフ自身は、自分の思想を、未来を、後に続く人達が成し遂げてくれると信じてる。そうした面が舞台上でもトロフィーモフの言葉が熱を帯びることで客席にも肌感覚で伝わってきたかと。
人間、誰もがジャンヌ・ダルクや(レミゼの)アンジョルラスになれるわけじゃなくて。武力で戦うことも革命ならば、言葉で戦うことも革命なんですよね。
肝心なのは、自分の頭で考えなきゃいけない「時代の転換点」というものが人類史の中には幾度もあって、社会(が抱える問題)に対し考えたことを皆で話し合って、この転換点で、どう進めばいいのか?を皆で考えたり話し合うことが大切なんですよね、より良き社会、より良き未来の為に。
それは、この時代のロシアでもそうだったし、日本や世界中の国々も歴史的な大転換点にいる今、特に必要とされることだと思うけれど、問題が大き過ぎて、皆が現実逃避に走っている。それでいいのか?という事を感じさせてくれる今回のトロフィーモフ。そういう意味では、初日以降、観劇する中で印象が変わっていった人物でした。
反面、ラネーフスカヤに対しても自分の愛が解りますよね?と詰めより、アーニャに対しても恋心を抱くけれどリアルな恋には発展しようとしない。冒頭でも書いたように、ラネーフスカヤに罵倒されても、その直後に彼女の謝罪で許し笑顔で彼女と踊る。思想に向ける純粋な強い想いとは裏腹に、何処か自分自身を客観視出来ないような?現実との乖離を感じる役柄であるトロフィーモフって、人として1本筋が通り難くて(客席で受け取る方も)難しいなと思った回でもありました。人間が内包する矛盾と言えばそうなんですが、簡単に言うと役柄自体が矛盾が過ぎる人物像のような。人としての面に、一人一人スポットが当たる今回のショーンさんの演出が故の難しさかなとも感じました。

「アーニャ」
アーニャは、あの年齢(17歳でしたっけ?)にしては、冷静ですよね。恋に恋するようなところがあってもおかしくない年頃なのに、トロフィーモフ自身に恋してしまうんじゃなくて(恋をしかけたのかも?しれないけれど、いつまでも煮え切らないトロフィーモフに呆れて恋心も冷めたのかも?しれませんね)、彼が自分の人生に登場した事で社会や時代の変化を知り、自分の今までの人生を見つめ直す。自分が生まれ育った家や土地を失って離れなくてはいけなくても、それに気付くのが遅かっただけだと現実を見つめ自分の歩みたい道を考え、自分の力で人生を切り開いていこうとする。賢い。聡明さは年齢じゃないんだなと彼女のような人物に出会うと思うことがありますが、やっぱり昔からそうだったのかな?
<以下20日>
桜の園が売られ、またパリに行くという母。また、全てを無くして此処に戻ってくるんだろうなぁ・・・という未来が見えていても、それでも母を見捨てようとはしない娘。優しいけど、自分の幸せを第一に考えた方がいいよ~?とも思う。彼女の未来に幸あれ。

「ワーリャ」
ワーリャは、自分は実の娘ではないという引け目があるのか、元々、そうした性格なのか、母(ラネーフスカヤ)に対しても、ロパーヒンに対しても、本音でぶつからないような所があるように感じるけれど(時代的にもそうなんですよね、まだ男女は平等ではなかった時代だし、自分で自制してしまっているような)、現代の日本だと(まだまだ男性社会の世の中なので)それは美徳とされがちなんですよね。
そういう意味では、現代日本の中でも非常に身近に感じる女性だけれど、彼女はそれで幸せを逃したかもしれなくて。だとしたら、それは「(人間の)本来あるべき姿ではない」んじゃないか?、そう彼女を通して(今の日本社会に)問われてるようにも感じるんですよね。
<以下20日>
一挙手一投足が切ない・・・。
荷物がちゃんと家の中に運ばれたのか確認しに行く(=誰か手伝ってくれないかな~?)と言っても、その場にいた男性数名(ロパーヒン、ピーシチク、そして伯父のガーエフも)誰一人として自分の言葉に反応してくれないし母のラネーフスカヤに見惚れている・・・。そんな男性陣と母の会話を後ろの方で悲し気に(諦めているかのように)眺めている・・・(切ない)。
最後の(ラネーフスカヤが機会を作った)プロポーズの場面も、自分の柵みたいなものを全部捨てて素直に気持ちを伝えたら、もしかしたらロパーヒンも応えてくれたかも???しれない。(ロパーヒン自身、どこまで悩んでいたのかなぁ・・・と考えているんですが)
怒って見えるのは、彼女なりの「在り方」を誰も解ってくれないし、気をかけてもくれない、そのやるせなさなどが、思わず外に出ちゃって、そう感じさせてしまうだけなのかなぁ・・・と思うと、また切ないんですよね。

「フィールス」
フィールス。村井さんが演じられるだけで、フィールスの若い頃からの話で一作品出来ちゃうような気もするフィールス。存在自体がチャーミング。
余談でした(笑)
彼は農奴解放の時?、自ら「桜の園」に残ることを選んだんですよね。それは主人であった「桜の園」の先代&先々代?を敬愛していたからでしょうし、その気持ちは代替わりした当代の主人である「ぼっちゃま」ガーエフやラネーフスカヤにも向けられていて、「桜の園」そのものが彼の人生であり家(生きる場所)であったのかなぁ・・・と思うと、あの家で最後を迎えたことは強ち不幸とも思えず、あの最後の「馬鹿もんが・・・」が何に対してなのか?、色々と考えられるしなぁ・・・と考えつつ、簡単に決め打ちしてしまうのも勿体ないので、最後まで自分の宿題にしたいな~と思ってます。
<以下20日>
その「馬鹿もんが」ですが、一人残されてから、なんどか「馬鹿もんが・・・」と言われますけれど、一回、一回、その意味するところが違うのかも?しれない・・・そう感じたのですが、わかりません。
下の「美術について」で書いていますが、あの石棺みたいなコンクリートブロックが「桜の園」の負の歴史の暗喩ならば、彼自身は自分で此処に残ることを決めたとしても、その負の歴史の一部として石棺の中に封印されるのかなぁ・・・とか、色々と想像していて。書かれていない、具体的に示されてもいない部分も想像してみることって楽しいですよね。色々な可能性があるかも?しれないですし。
ちなみに、最後の御姿がうつ伏せに変わられた?(偶々?)
あの後、半透明のシートが被されるので、うつ伏せの方が(息がしやすくて)良いですよね。

「ドゥニャーシャ」
ドゥニャーシャ。この家に仕える若いメイドさん。この若さだったら、誰かに告白されたら舞い上がりますよね。特にメイドという狭い世界の中で日々過ごしていたら。渋谷に居る10代の女の子が観ても、そういう共感はあるんじゃないかな?と思う、というか、予想してます(何せ、世代が離れてるもので・・・^^;)。
彼女はヤーシャが気になるみたいだけど(止めておいた方がいいよ~?、あの男は自分にしか興味ないから・・・)と内心思う。ごめんね。そういう事って自分で体験してみないと解らないんだよね、きっと。(ヤーシャもごめんね)
<以下20日>
初々しかった若いメイドさんが、エピホードフに告白されたり、ヤーシャにコクったり、他の世界の若い?男の子(郵便局の人?)と出会ったりして、徐々に大人になっていく。その変化が、ちょっとした仕草だったり表情とか醸し出す空気感とか、そういうもので変わっていく姿が鮮明に。

「ヤーシャ」
そのヤーシャ。彼も同郷?なんだろうから、この「桜の園」辺りのが故郷として嫌なんだろうな。パリに、というよりは都会に憧れて、この田舎(&ロシアという国から)から出たかった。ラネーフスカヤは、言わばその実現の為の糸口という面も強いんだろうけど、御多分に漏れず、彼もまた若干ラネーフスカヤファンクラブの会員なのかも?とも思ったけれど、トロフィーモフとラネーフスカヤの口喧嘩(パリ夫の話)の時に冷めた空気感で居たから、そうでもないのかも。(やはり手段か・・・)
彼自身は、何処か周りを見下しているような言動が多くて。でも、彼自身の力では何もやってないんですよね。ラネーフスカヤの恩恵で望みを叶えてるだけのことで。これから先、ヤーシャのような人はゼロからやり直すか、自分の殻に閉じこもっちゃうのか、2択のような?予感もしますが、まだ若いんだから自分の力で頑張りなさいよ~~~っ?と、思います。
<以下20日>
この作品に出てくる人達がみんな濃いので(笑)、作品の中での役割自体がちょっと浮いて見える存在ですが、よくよく考えれば、今の日本に居てもおかしくない、ごく普通の青年なんですよね。今の渋谷にも居るかも?しれないし、私が大学生の頃の同級生とか、そういう子が多かったように思う。
せめて、息子の顔が見たいお母さんに会ってあげればいいのに・・・。後で後悔することになるかもよ?と思うけれど、それに気付けないのが若さなのかな~なんて、思ってもいました。

「シャルロッタ」
シャルロッタは、自分で語る半生からしか伺えないけれど。幸せな子供時代でもなかったようだし、御両親が亡くなった後、引き取られた先で決められた人生を歩むしか選択肢が無かったのかな・・・。
あの当時だと、女性の場合は後ろ盾となる家(実家)が無いと生きていくこと自体が非常に難しくなるので、選択肢なんて話どころじゃなかったのかも。彼女の、どこか寂しさと悲しさを感じさせる諦めが、そうしたところからくるのかなぁ・・・とも思いつつ。でも強そうでもあり(笑)、面白い、謎の多い登場人物ですよね。
<以下20日>
ふと、気付く。
パスポートが無くて、どうやってパリまで同行したんだろう?
いや、そんなことは気にすることでもないんだけど(笑)、パスポートが無い=自由が無い、ことのように感じられて。
いつか、彼女が自分で自分の生き方を選べるようになることを願う。

「エピホードフ」
そして、一番謎が多いように感じるエピホードフ、「世界一運のない男」と影で言われているらしい。あの転び方、絶妙な間合い。(あ、アクシデントじゃないんだな)と察して笑える有難さ。
ちなみに、パンフレットだと「運がない」と紹介されていて、舞台上だと「運が悪い」と呼ばれてるんですよね。御稽古中に変更になったのか?単なる誤植なのか?は判りませんが、運に見放されちゃってることは確からしい・・・。
飄飄とも違うし、本人は普通に生きているだけなのに、運が無い。だからこそ喜劇。会社の中にエピホードフのような人が居たら「いい人なんだけどね・・・」と女性陣に残念がられているかも?
トロフィーモフは未来を語るけれど、エピホードフは未来なんて判らないと言っていたような?その辺り、もっとじっくり観たいなと思う場面であり、そう想う人物なエピホードフ。彼がドゥニャーシャと結ばれることはないんだろうなぁ・・・。(幸運を祈ります!)
<以下20日>
この日も絶妙な間合いで色々起こる。冴えわたる運の無さ。
それでも、ドゥニャーシャに対する想いは一途だし、君(ドゥニャーシャ)だってそう言ったじゃないか!(大意)と想いを告げる言葉が切ない。

「ピーシチク」
ピーシチク。あなたの土壇場の運が羨ましい(笑)
でも、ちゃんと借金を返しに来るところが律儀(まだ全額じゃないみたいだけど)。そういう所があるから、憎めないというか、みんなに「しょうがないな~笑」って許されちゃうキャラクターなのかな?
ロシア文学に出てきがちな典型的なロシア人っぽい。御酒か、ギャンブルか。娘さんのこと、大好きですよね。娘さんが頼めば御酒止めてくれそう。無理かな?(笑)
<以下20日>
所有地の土(陶土)がイギリス人に売れて収入があった途端に、息せき切って借金を返しに来る。(返す気、あったんだ・・・)口約束じゃなく。良い人じゃん、と株が上がりました(息せき感がリアルで)。

「ガーエフ」
ガーエフは、ほんと、坊ちゃん育ちなんでしょうね~。
こういう時代の転換点に生まれていなければ、多少、資産を擦り減らしたくらいで次世代に引き継げたかも?しれない。生まれた時代と合わなかった不幸が気の毒だけれど、ね・・・(で、言葉が止まってしまう)。
でも、悪い人でもない。良い人、悪い人、という単純な物差しじゃ、人は測れないんですよね。ひたすら、時代に合わなかった男、でしょうか。
親戚が集まると、こういう伯父さん、一人くらいいそうですよね(^^;
<以下、20日>
どれだけ妹が大好きなんだろう(笑)
「桜の園」を離れるよりも、数年ぶりに再会出来た妹と再び別れることが悲しくてしょうがない。涙目。
妹が過去を想い出して沈んでも、どうしようもない(笑)話をして笑わせようとする優しい妹想いのお兄さん。
それでも、過去にとらわれず、過去に縛られず、雇われの身になることも厭わない柔軟さが、もっと早くにあれば・・・とも思う。

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そんな感じで、自分の中だったり、自分の過去の記憶の中だったり、自分の身近な人だったり、社会の中で接する人たちが「桜の園」の登場人物たちと似たような面を持っていたり、「そうそう、そうなるよね・・・」と思うようなところなど、御観劇の皆様も同じようにあるんじゃないでしょうか?そういう所を接点にして作品の中に入っていくのも一つの入口ですよね。

演出のショーンさんが描く「桜の園」の登場人物達は、どこか「そういうの、あるよね~、わかる~」と思わせてくれる接点があるし、演者さん達が皆それぞれ粒だっていて、目がもっと欲しいと思うくらい色々なものが見逃せなくて。
私自身、まだまだ見落としている布石(ヒント)があるんだろうなと思いますし、それらを見つけられるように、じっくりと作品と出会っていくのが楽しみなんですよね。今の手持じゃチケット足りないと思って追いチケしました(笑)



「フェンス」のこっちとあっち


上演の最初から最後まで存在感抜群の、舞台後方にある「フェンス」。
上手から下手まで、どどーんと、20枚くらいしょうか?
ちょっと見えにくいけど、その「フェンス」の後ろには(今の新幹線用のような)鉄道の高架が「フェンス」と平行して建っているんですよね。
近代化(工業化、資本主義化)の波が、桜の園にも来てる象徴のようでもあります。

で、初日を拝見した時からずっと考えているんですが、「フェンス」のあっちは、どんな世界なのか?どんな世界を暗喩してるのか?
皆さんはどんな風に想像されますか?


「フェンス」の内側は代々続く「桜の園」。
つい最近まで、近隣の土地と労働者達(農民・農奴)を所有してきた一族(貴族)の敷地。限られた人間しか居てはいけない場所。
かつて「桜の園」の桜の木になったサクランボは、そうした農民(農奴)たちの労働によって維持されてきたものなんだろうけど、その収益は平等に分配されることなく、代々の当主の所得となってきたのでしょうか。
ラネーフスカヤは、ただ「綺麗~」と桜の園を愛でているけれど、その綺麗さを維持してきた労働者達に心を向けることはなくて。それは、ラネーフスカヤがとりわけ尊大だったわけではなく、当時まで続いてきた帝政時代がそういうもので、彼女はそれらを当たり前のこととして子供時代からこの「桜の園」の中で生きてきたんですよね。

でも、近年になって、近隣に貸別荘が立つようになり観光客が入ってきたり、今回の作品の中では「浮浪者ほか」と銘打たれた、元々ここにいないはずの人間(=いたかもしれないけれど、ラネーフスカヤの視界に入っていなかった人間)が現れるようになって。そういう人達の存在をラネーフスカヤやガーエフは嫌い怯える。排除しようとする。

ラネーフスカヤが愛息グリーシャの事故死という現実から逃避するため(その直前には先代の当主であるラネーフスカヤの父も亡くなってるのかな?)、離れていた桜の園。その周りの、フェンスの外に広がる世界。まるで軋む音が聞こえるかのように、否応なく、この「桜の園」は安住の地では無くなってきていて。


冒頭、まるで石棺のようなコンクリートブロックの前を横切る男性。
その服装は林業従事者のようでもあり、ブルーウォーカーなんだろうなという雰囲気。彼が「ちぇ~~~え~り~~~(いきなり替え歌 笑)」と口ずさみなから横切る冒頭は、もしかしたら、この作品の中で一番現代寄りの時間軸なのかも???(全てが終わって皆が去った後であり、桜の木も全て伐採された後なのかな~?と、何となく・・・)。

やがて、石棺が上がり、中の時間が徐々に過去に戻っていく。
(ロパーヒンとドゥニャーシャが現れ、桜の園が始まる)

かの「浮浪者ほか」と名付けられた存在は、桜の木の伐採の為にロパーヒンが雇った林業従事者なんだろうなと推察する一方、かつて領主達に所有されてきた元農奴の象徴かもしれないし、暗喩としては、現代世界中で大きな問題となっている難民(難民問題)なのかもしれないし、行き過ぎた資本主義が産んでしまった失業者や低所得者層の人達なのかも?しれない。色々と想像が広がりますよね。

歴史を振り返れば、変わっていかない時代(歴史)などは無くて。
その当時の人達が気付いているかどうかは別にして、小さな転換、そして大きな転換、そうしたものが連なって人類の歴史は続いてきてるんですよね。
今、私達の足元を見れば、以前は「失われた20年」と言われた日本経済が、いつのまにやら「失われた30年」になり、今も失われたまま過ぎて、失う前の日本経済がどうだったのか?それを知る人々は過去の遺物(まるでフィールス)のようになりつつありますよね。



美術について


初見の開演前。客席開場と共にステージ近くまで近寄り、美術を見回すのがMYルーティーンです(幕が無い場合だけですが・・・)。
今回も、あのコンクリートブロック(に見えるもの)をマジマジと見上げて、どういう構造になってるのかな?なんて芝居とは関係ないことを確認したりしてました(趣味ですね)。

イメージは、石棺?
ステンレスワイヤー(に見えるもの、スチール的な錆仕上げ無し)か?
断裂に見えるように加工してある部分にターンバックルあり(調整用)
吊り元は舞台の吊りバトンに固定してあり昇降はそこからか?
形状は5面体、鋼orアルミ角管構造に下地合板+表面材?(樹脂系かな?)
5面体の背部に外開き?の子扉あり(演者さんの出入り用かな?)
(でも、丁番っぽいものも見えるような?だとしたら内開き?)

重量は見た目のイメージほど無いだろうし、これだけ吊ってあれば安全だろうな・・・若干心配なのは上演中の地震だけか・・・なんて余計なことばっかり考えちゃったもので、脳内に「コンクリートブロック=安全」がインプットされ、本来の意図を感じ難くなっちゃった自分が大失敗でした(笑)

で、肝心の、あの「石棺」っぽいものが、何の暗喩なのかなぁ・・・と考えてみたとき、ふと、頭の中に浮かんだのは、トロフィーモフがアーニャに桜の園のことを語る場面の言葉でした。
この桜の園を維持する為に歴代の当主は領地の農民(農奴)を所有し、その労働力を搾取してきた。そうした犠牲の上で、今、この桜の園はある(大意)と。
桜の園の歴代当主がとりわけ悪徳だったわけではなく、帝政ロシアの時代(=中世)ならは、そのが社会の在り方だったんですよね。でも、時代が変わり、そうした過去は「負の歴史」であり「負の遺産」となってしまった。その象徴が、あの、桜の園にのしかかるような石棺(コンクリートブロック)なんじゃないのかなぁ・・・と、漠然と感じました。

じゃあ、それは、中世の時代だったり、ロシアだけの話かと言えばそうじゃなく。
現代における歴史的な負の遺産と言えば、例えばオゾン層の破壊(産業革命以降の、炭素系燃料・・・石油とか石炭とか・・・を使い過ぎてきた人類、特に先進国)だったり、熱帯地方の砂漠化や気候変動もオゾン層破壊と関連があるのかもしれないし、未来に生きる人々が困りそうなことは世界中の現代の人々が関わっている負の遺産なんですよね。
家具や衣装が現代的だから「桜の園」が現代につながるわけじゃなくて、当時の人々が抱えていた問題が、今も同じような問題があるよね・・・と芝居を観ながら気付けるからこそ「古典ながら現代につながる作品」と成りえるんじゃないかな~と、思いました。



今回の「桜の園」を通して、感じ考えていること@8月20日時点


戦後の義務教育の中で、「答えを覚えて、一つの(同じ)正解を出すこと」だけが評価され、その事を親世代も子供達も疑わずにきたこの何十年、その完成形が今の日本の社会を支える人々ですよね。自分達がその中で生きてきたから、何かおかしい?と思うことさえ、中々難しくなっていて。

本来、そうした状況に対して「何が問題なのか?」を提示して、皆が問題に気付き、自分の頭で考え始める、その為の手段が「演劇」だったはずではないんでしょうか・・・?
演劇そのものも、この40年くらいでしょうか・・・、高度成長期の後押しと小劇場ブームを発端とする演劇の多様化によって(それ自体は日本の演劇界を豊かにした側面もあれど)、そうした「演劇がやるべき事」や「演劇の効能」を軽視して歩んできてしまった側面があるのではないでしょうか?

端的に言えば、創作側と観客側の双方向を「あえて遮断し」、演劇を創作側のものとしてきた(舞台上と客席の間に透明な壁を立てた)こと、一番象徴的でよく聞いた言葉で言うと「素人は(解るはずがないんだから)口を出すな」。
でも、そもそも、演劇は社会に生きる全ての人のものであって、演劇業界の方々の為だけのものじゃない。その誤解が、演劇業界の中の常識のような当たり前となり過ぎて(昔の帝政時代みたいですよね)、現在もなお、そういう風潮は続いてますよね。

特に、2020年春にコロナ禍が本格化して演劇そのものの存在が社会から問われた時期がありましたよね。その時に改めて「演劇って何の為にあるんだろう?」ということを一人の観客の立場から考えるようになりました。
丁度、その年(3年前)の夏に書いた記事が、↓ です。

今は、こうしてネットでも個人の観劇感想を開示する術もあるし、電子アンケートを設けて(かなり文字制限なく)観劇感想なども主催者側に送れるようにはなりましたけど、(密かに)抑圧され続けた観客達に対し、抑圧されない人々(演劇関係者)の多くは、そういう問題が続いてきたことの自覚もないように感じますし、問題自体の理解や改善への運動も行われないかと・・・。
観客側もまた、舞台を観始めたころからそうした風潮の中で(問答無用で)居させられたので「そうか・・・素人には解らないよね・・・」と、考えることさえ諦めてきてしまった先で、演劇を観て考えるという習慣自体が消滅目前になってきているようにも思えて(社会の風潮として)。
結果、上記で書いた「考えさせない義務教育」と「観客には考えさせない演劇界」のダブルパワーで、舞台上(演劇業界)と客席の間には、透明で分厚い壁が立ち続けてきたのが、この3~40年の日本の現代演劇なんじゃないかと私は思っています。

2020年にコロナ禍が始まって、社会の中での存在意義が問われてしまった演劇界。元々、こうした転換期ほど必要とされるものだったはずなのに、自分達で観客が考えることを排除し続けてきたが故に、社会に根付くものでさえなくなっていた現実を、皆さん、実感されたのでは?と思います。
そこからやっと、演劇業界の細分化された人々に横のつながりが出来始めて、観客側にも向き始めたのかなぁ・・・という気配も一時期ありましたが、3年経ってコロナ禍と経済が共存し始め、その途端、またそうした「本来あるべき姿への模索」は影を潜めてしまいました。
また、現実逃避でしょうか?
この40年で失ってきてしまったものを、気付かない&見ないふりをしても、社会から必要とされない、本来の機能や効能を失った単なる娯楽となり果てた未来しか(演劇界には)待っていないかも?しれないとしても、そうした問題から目を背け、自分達の時代さえ良ければいいと、未来の世代に負債(負の歴史)を先送りするのでしょうか?
(まるで桜の園をみるかのようで・・・)


2020年頃から顕著ですけれど(実際にはこの30年でしょうか)、かつて経済大国と言われた日本は埋没し、世界の大国と言われる国々も資源を持つ国々(中国やロシア)に変わっていって、かつては世界の警察と呼ばれたアメリカも自国優先に身をひるがえし、最後の砦であるはずの国連でさえ大国を制御出来なくなりました。
そうした時代の転換は、多かれ少なかれ、私達の生活に直結します。誰もが無関係ではいられないほど、日本の国は弱体化してきています。それは、国民のせいではなく、自分達の利権の為に政治を利用した政府のせい(=政治に無関心で参政権を放棄した国民の問題でもあります)。

「むずかしいことは、よくわからないんだもん」
まるでラネーフスカヤの言いそうな事ですが、今の日本国民の多くもまた、そうですよね(自戒含めてですが)。
でも、誰もが無関係では済まないし、気付いた時には「詰んでた!」のが今の社会ではないでしょうか。残念ながら、ピーシチクのような土壇場の幸運は殆どの人に訪れません。自分で気付き、自分で何とかしていく方法を考えなきゃ拙いですよね。

「浮浪者ほか」の彼が客席に与える不穏感。
それは正に、今の時代、今の日本(世界各国も恐らく似たような問題を抱えているのでしょう)が、「なんか、やばいかも・・・」そう観客達に気付いてもらいたいが為の、ショーンさんの最大の布石なのかな?と私は感じますが、皆様はどう思われますか?


最後に。
20日の終演後、PARCO劇場にてアフタートークショーがありました。
(公式twitterより引用)

13日の皆様の公演Tシャツ姿も御似合いでしたが、20日の皆様も御似合いですね(^^)(笑顔も素敵!)

この日、東京公演の中日(なかび)だったそうですが、ラスト8月29日の千穐楽まで、途絶えることなく、幕が上がりますように、と、願いつつ。
過去、最長の観劇感想となりました。
(ざっと17000文字らしい・・・ひゃ~)

ここまで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました!
演劇、楽しいですよね !(^^)