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競技プログラミングとエンジョイと誠実さ

競技プログラミング界隈で、"怪文書"が流行っています。
この文書の誤読がリトマス試験紙になる...
正しいけど絶望的な状況について、なんだろう、感情を揺り動かされてしまい、その状況をもう少しお互いにわかるようにするための「解説」をするためのものです。とにかく"誤読"というか、相互で見えない立場が気になってしまった。それに尽きます。
はじめに、どういうスタンスで自分がこの記事を書いているか?という事を示しておきます。

chokudai氏は、頂上じゃないところにも価値があるという事をきちんと思っていて、「(当人を含めて)化け物は化け物と割り切って、それでもエンジョイできる事に意味がある」という考えと思うので、その点においては、私は彼の考え方を支持する。支持したい。(もし違ったらすみません、、、)

でも一方で、才能をどう使うべきかという点においてはカピバラ氏の言うことが正しいとも思う。ごく一部を見た時に、競プロによるスポイル的な事を感じるのは間違いではないと思う。(終了、滅殺すべきという程かはわからないけど、、、)

また、頂上以外のことを一旦保留するとしたら、KOHSUKE氏の言うように一つの頂だけを唯一の頂上とは思わない方が良いと思う。ただし、じゃあ頂に居ない人はどうなるの、と私は思う。あるいは、頂上に居たくない人に対して、頂上に居るものとして扱ったり、それを期待することで、逆にプレッシャーをかけてしまうという事もある。(私はそれで沢山失敗しました、、、)

それぞれの記事とリンク

誠実さが嫌味に見えること

まず、私が思うには、"この記事から読み取るには"カピバラ氏は非常に誠実な人です。そんなこと無いのでは?と思う人も居るかも知れませんが、簡単に説明します。
・彼は天然物と言われる才能や真の学問に囲まれて育った
・必ずしも天然物ではなくてもエンジニアとして通用する=人間の理性が素質・天与の物を部分的には凌駕する、あるいは神に対して"一撃"を加えられる事を示したい
・そのために"ハック"、例えばGoogleに入るのは簡単で実際に再現性もある事なので、遊びを兼ねつつ模擬面接を行っている(簡単というのは、彼の尺度において)
・その取組の中で、複数の才能のある人が、必ずしも業務的に成果を残すこととは結びつかない別種のハックないし娯楽である「競技プログラミング」に浸かりすぎたように見えた(全く不要とは言っていないし、一定の効果も認めるものの、行き過ぎということ)
・この事例を見た時に、才能や時間のスポイルという事を強く感じた
・そのいくつかの具体的な事例については、軌道修正をしたら"上手くいった"が、逆にその成功を語ったことが呼び水になって、競技プログラミングが一層就職ハックの側面で強調される事になった...実態と乖離しているにも関わらず
・このスポイルについて苦々しく思っている上に、大学の頃の自分達が競技プログラミングという物が日本に根づく上で与えた影響が確実にあると思うと、その事について大きな責任を感じた
→真摯な反省に基づいて、以下の言葉が生まれる:
我々の目的の一つは、我々が始めてしまった競技プログラミングを我々が終わらせることです。

いかがでしょう、これ、私は物凄く誠実だと思うんですよ。人間がいかに後天的に変わるかという事、いわゆる理性というものをある種信仰していて、理性によって世界が変わるという事を示したいと思う中で、その障壁になる要素を見出した時、自分の過去の行いと結びつけて「他の良いやり方がある」という事について真摯に反省をして、目眩を覚えるような感覚の中で是正を促そうとする。
偏執的ではあるかもしれませんが、誠実な事だと思います。
(そもそも、自分の行動についての信条とか思想に関して、突き詰めて考えて目眩を覚える人って、どれぐらい居るものですかね?)

一方で、どこまでを意図したものかは不明ですが、その繋がりが読みにくいようにも書かれています。
例えば、東大の女学生のくだりや神学のくだり、学問のくだりというのは、誠実さを示すための一つの記述ですが、なぜこれを書いているのか・ここにそれを入れ込む意味はなにかという事をニュートラルに考えないと、正しく理解することができません。言い換えると、この部分については、ただただ自分の知識を並べて「常識の無い人」との差を示そうとしているだけのようにも読むことができるという事です。
先程引用した文言はかなり刺激的なので、その文言や前評判によって変な先入観を持つと、そうした意図を読む事ができなくなります。
この文章の中に「人は思い込んだら説得が効かないようにできているのだと私は思ってます。」とまで書いてあるのは皮肉なことで、この文章の本意を誤読するという事自体が、そもそもまともな専門家・常識から隔絶した環境にあるんだよ、という事をメタ的に示すような文章になっているわけです。そうすると、たしかに嫌味のように読める部分はあり、また「これだから上位男子校ホモーソーシャルセクターは...」みたいな事にもなるのですが、「これを嫌味として読むという時点で、まさに長々と説明されている常識のない人に該当する」という構造によって、優秀なリトマス試験紙として機能してしまう部分があるわけです。

きびしい。
(このような構造がある事もあって、彼の周りの沢山の人に意見を求めたという事でもあるのでしょう。)

浸かりすぎ、を自分の言葉で表現する

ここでいう「浸かりすぎ」という事について、端的に私自身の言葉で表現すると、「学校で学問ではなくて受験対策だけをして、かつ受験対策がゴールであると思いこむこと」みたいなものです。
例えば、2000年代前半、競技プログラミング(またはその原型)が流行った界隈では、競技プログラミングはあくまでもゲームであって、学問と共通する部分はあれど、学問や教養そのものではないという事への認知があり、それだけを過剰にすればよいという事はありませんでした。
この事については、少し表現の違いはあっても、chokudai氏含め問題意識がそれなりに共有されているように思います。
ただ、ここで敢えて私が自分の言葉でこれを表現したのは、「単純な娯楽にハマりすぎる」という事以上に問題と思われる部分がなにか、を端的に示す為でした。私が感じるのは、まさに加熱した受験対策みたいな事と同じようなことです。受験勉強にもある種のゲーム的な側面はあって、道を間違えるとそれ自体を目的化してしまいますが、本来はその先を見据えての受験勉強であると思います。しかし、クイズ王みたいなものが流行する風潮を見ると、ちょっと受験勉強ハックによって違う方向に物事が進んでいるのでは、と感じる部分があります。(クイズ王が必ずしも悪いものだと思ってはいないですが、まあ違和感があるということで)
その意味で、本質的に競技プログラミングをゲーム化・目的化することそのものへの懐疑も少し存在していると思い、この部分の問題は本当はもう少し根深いのではないかなと感じています。
まあ、とはいえ、ざっくりとしたレベルでは皆同じような事を考えているとは思うので、一旦これぐらいにしておきます。

常識がなければどうすれば良いのか・どう"しても"良いのか

この怪文書は、常識が無い人については直接的に触れることはせず、あたかも透明人間であるかのように扱っているように見えるところがあります。存在には触れて居ますし、先に説明したリトマス試験紙としての文章構造の通り「読み手としては常識が無い人が含まれる」という事も折込済になっていますが、まともな人間として扱われていないように見えるという事です。
常識がない事への対策としての答えは単純で、常識のある沢山の人と話をする事です。しかし、単純でも簡単ではないので、結局どうすればよいのだろうね、みたいな事は残ります。実際、常識のない人がそれでも独学をしないといけないと思う場面はそれなりにあって、それによって独学大全という本が流行っています。独学大全の中でも、本来は専門家同士での話を踏まえて形成される常識が重要であるという事を伝えていて、それでも独学しないといけない人は...という事を述べていました。そのような世界の現実を直視していないのでは、という事です。
(余談...なんとなくですが、カピバラ氏の価値観は独学大全のある意味での反対の位置にあるのかな、という事を思っています。私自身、カピバラ氏の価値観に同意できる部分が少なからずあり、例えば怪文書で述べられていた数学徒の中の数学を学ぶことを理解している学生・理解していない学生みたいな事については、挙げられた比率込みで非常に同意しますし、これまで解説した過適応というか目的化みたいな事についても、少なくとも部分的に同意する事はあります。一方で独学大全の考え方には、漠然とした違和感がありました。今この話を整理していて、こういうことなのかな、と思いながら書き進めています。)
競技プログラミング自体は、単純にそれ自体に面白みのある事で、かつ、彼の求めるレベルでの常識は有しないが、普通の世間的な意味での常識は有するという人が趣味として楽しむ対象でもあるということです。
もっと言うと、彼の求めるレベルの常識/理性を有さずに生きている人の方が圧倒的多数であるというのが世界の現実です。
敢えて、彼の求める常識を持たない人からは反感を買いながらも、意見を届けたい人に対しては正確に意見を届けるという手法は見事ですが、常識や理性がなくても人間は人間です。
本人が非常に誠実に生きて、努力を重ねてきたのであろうという事は怪文書一つでもよく分かるつもりです。しかし、理性の有無で人をぞんざいに扱ってよいのかというと、たとえそれが後天的な要素であったとしても、そういう事ではないと私は思います。

エンジョイ

この世の中には、カピバラ氏のように本当にストイックな人もいますが、そうでない人が大半です。
現在、競技プログラミングに興じる人にも、ストイックな人からエンジョイできればよいという人まで、実に様々です。
現在、既に多様な人で構成された競技プログラミングの世界に対して、ストイックな人からストイックな人へのメッセージとしての「競技プログラミングを終わらせる」という言葉が仮に正しかったとしても、その他の人も含めた現状への言葉としては適切ではないと思います。
この事についてのカピバラ氏の"謝罪"は、そのあたりでchokudai氏が本質的に何について怒っているのかという事を捉えそこねていて、斜め上のように思います。
例えば、カピバラ氏の中では「ストイックな人においてもスポイルが発生しているのだから、常識のない人においても当然スポイルが発生する」と思っていたとしても、それは全く自明ではありません。
例えば、現在のAtCoderでいう緑のランクは競技プログラミング的な側面ではG社に入れる(しかし、当然それだけでは入れない)というような事ですが、開始直後にすぐに緑・水色・...とランクアップして、その後橙や赤までいく高校生もいれば、長い期間をかけて緑や水色に到達するプロの開発者まで、様々です。物事を構造的に見抜く事・いわゆる仕事をする事やビジネスの本質を見抜くことに長けていたり、常識を持ち合わせていても、競技プログラミング的な素養の部分は不得意という人も沢山います。
競技プログラミングに興じることは、そのような人に対して、苦手な部分を補強するという効果もありますし、あるいは自分が苦手な事を得意な人が存在するという事を自覚する事によって、よりそれぞれの得意不得意を見極めた戦略を考えないといけない、という自覚を促すこともできます。もちろん、それが競技プログラミングでなければならないという事は無いと思いますが、その一つであってもよいのではないか、という事です。
そうした見識を深め得る趣味の一つとして、エンジョイする対象の一つとして、競技プログラミングは本当に終わらせるべきものなのか?と考えると、私は必ずしもそうではないと思います。
また、単純に自分自身がどういう世界観で生きていきたいか、というような事でいうと、chokudai氏のような世界観なのではないかな、と思います。それぞれの人には、才能や常識も含め到達できるレベルの差がある、でもそれは世界のよくある不条理の一つとして受け入れた上で自分にはできる事をコツコツと進める。もちろん、競技プログラミングは決して万能ではないし、万能であるかのように誤認される事は避けないといけないが、しかしストイックで誠実な人から終わらせると言われるような対象でもない。
ただ、逆の見方をすると、カピバラ氏は非常に誠実な立場で、実際にスポイル/過剰ハックのようなことが発生しているという事を真面目に憂いて問題を提起している。競技プログラミングは万能、それだけやってればOK、みたいな勘違いが産まれてしまうと、それはそれで良くないし、もっと言えば、本来の競技プログラミングの魅力はそういう事ではないと思うので。本来ってなんだ、みたいな事はありますが。元々は、単に楽しかった、ですよね?

(この「元々」が唯一無二の競技プログラミングのあり方であるとは当然思っていないですが)

あと、スポーツ的にそれ自体を対象化することも、他のスポーツと同程度には許されると思うので、特化して楽しむという事も、問題のあることではないと思います。(当たり前かもしれませんが、一応)

なんでこんな事を書いているのか

このリトマス試験紙が有効に機能してしまい、表面的な内容への反論(反論になっていない)が噴出する現状が、いろいろな意味で厳しいと思ったからです。
極論すると、「これだから常識のないやつは」みたいな事をまざまざと示す事実になっているというか。そうではなくて、もっとお互いに理解してほしい...という事を、個人的には強く思います。
ただ一方で、個人のレベルで、このぐらいの大きな差のある常識を埋めようとすると、それはそれは労力が必要になるという事は感じています。
でも、できれば、お互い"それなり"にはわかりあえた方がよくないですかね?そうでもないのかな?

余談:「優秀さ」はそうかもしれないのだけど

この話と関連して出てきた「優秀さ」について。
上品な考え方で、ベースの考え方としては同意するのですが、一方で気になることもいくつかありました。あまりそのことへの言及を見かけなかったので、それにも言及してこの記事を終えることにします。

まず、「羽生名人が田舎初段を捻り潰す」ような動きをしているのは、自己顕示などではなくて、ここで述べたように純粋にリソースの使い方としてもったいないからだ、というだけだと思います。実際、理Ⅲから医師になって、おそらくその中でも優秀な部類の人を紹介され、実際にやっていた事がなにか聞いたらこれだけかよ、みたいな事が何度かあったのかなと思います。それを自己顕示と思ってしまうと、ちょっと話が違ってきますし、怪文書に対して違った印象を与えてしまうかなと思います。

また、頂は一つではないという事について。それは全くその通りです。
一方で、頂に到達していない人については、どうすれば良いのか?
この記事でエンジョイというところに書いた内容のうち、頂上まで到達できない人のことです。
それぞれの人には可能性があって、頑張れば何かしらの分野で「何者か」になることはできると思う一方、実際には「何者か」にならない人の方が多数です。頂、何者か、表現は色々とあると思いますが、自分自身とかではなくて、周囲にそういった人がいたときに、どうすれば良いのか?
これは本当に難しくて、私個人の場合でいうと、過剰評価や過剰な期待をかけて失敗するという事が多かったです。

本筋には同意しますが、一方でこの優秀さの価値観にも難しい部分はあります。もしこの優秀さ(後天的になんらかの物事を成すこと)を軸にしてしまえば、おそらく本質的にはカピバラ氏と同じ考え方ですし、結局分野によらず頂に到達しなければ相応の扱いをするみたいな事になります。一方で、頂に到達したいと本心から思っていない人(でも口では頂に到達したいと述べる)を頂に到達するものとして扱うと、それはそれで結局ダメという事を多く経験して、この辺の話は本当に難しいなあと思います。

...という、何の答えにもならない、迷走の過程を記してこの記事は終わりです。とりあえず、それぞれの考え方の相互理解が深まるといいなと思いました。

さらに余談:10年後

終わりにすると言いつつ、書き忘れていたので追記します。
これは揶揄する意図はないのですが、10年後、
我々の目的の一つは、我々が始めてしまったGoogleハックを我々が終わらせることです。
と言ってそうだなと思いました。なんだろう、本当はGoogleハックにはその後に価値を作るという目的があったのに、後から参入した人によって手法だけが流行して、目的なきGoogleハックが流行り、それを終わらせることになるのかな、みたいな事でした。
いたちごっこというか。
難しいですね。

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