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我々の視点・観点は条件付けされている

私が敬愛している1人でもあるアーノルド・J・トインビー博士。博士の著書『歴史の研究』を改めて読み返すことにしたので、その考察をとりまとめようと考えています。

『歴史を眺める際に、われわれはすべて、われわれの見地が、たまたまわれわれのおのおのが生まれた時代と場所によって、大部分決定されていることに気づく。人の見方は、要するに、特定の個人、特定の国民、特定の社会の見方がある。(「歴史の研究」日本語版への原著者の序より A・J・トインビー)』

1,誰もが一人で今の価値観を持てた訳ではない

確かに、私達の考え、視点、価値観は、自分一人で築いたものではなく、周りの人的・自然環境等からの影響を知らないうちに受けながら形成されて来ました。

 国民単位で考えるには、例として、隣国K国を想像して頂けると、我々日本人と大いに違う見解をお持ちなのでご理解頂きやすいのかもしれない。

K国の方々は、知らない内に価値観を持った訳ではないのは、今日本人のほとどんどは知っています(批判するつもりで例としたのではありまんのでご理解下さい)。

2、友人から見地の違いを認識する

一つの例として、「自分は何でも知っている」と雑学をひけらかし、自分よりも雑学がないと思っている友人Aさんを「視野が狭い」と小馬鹿にするBさんがいたとしてします。

Bさんは、自分基準(ユリウス・カエサル「人は全てを事実として認識できる訳ではない。多くの場合、自分が見たいようにしか事実をみない」)で考えているので、Aさんの知識の方が少ないと一方的に判断している。

Aさんにしてみると、「Bさんは何を持って視野が広いとか狭いとか言っているのか。Bさんが興味を持たない話は、一緒にいても話をしないのにな。なに勝手に決めつけているのだろう。宇宙の全てから比べたら、Bさんのみならず、自分自身の知識量だってたかがしれているのに。」と考えているとしたらいかがでしょうか。

自分達が依って立っている見地の違いが、ここまで違っていたら、話は噛み合わないでしょうね。きっと。

3,歴史をあるがままに見るには

『歴史をあるがままの姿のおいて見ようとするならば、われわれは、最初はどうしてもそこから出発するほかない、この局部的な見方を超越しなければならない。(同上)』
博士は「歴史学者」なので「歴史をあるがままの姿」で見ようとするならばと仰っていますが、「他者・他社・国同士との関係」においても同じように捉えることができるのでないでしょうか。

勿論、この『局部的な見方を超越』しようとするのか、しなくても良いとするかは人それぞれです。

4,Aさん、Bさんで想像してみる

Bさん:ご自分が『局部的な見方』『狭い見方』に捉われて生きていることにも気づかない。気づいても気にしない。同調する友人・知人と生きていく。

Aさん:自分の視野を広く持とうと、他人の言葉に素直に耳を傾ける。異なる友人・知人の価値観を尊重。但し、他人への悪感情を抱く人とは距離間を保ちつつ付合う。

どこかでお互いに、お互いの違いを理解する姿勢が大事ではないでしょうか。その姿勢がなければ、片方が一方的に価値観を押し付けることになってしまう。そうなってしまうと、そもそも友好関係を保とうなどど考えていない証拠と受け止められて致し方ない。

まとめ

AさんとBさんのどちらか片方しか選択できないとしたら、私は「Aさん」の方が良いです。どんなに雑学があっても、そこで満足したらそこで終わりのような気がする。

最近の私の結論の一つは、「自分の価値観や知識に捉われていると、意識を開放していれば、聞こえたはずの声なき声や気付きもあったはずなのに。それを聞けない、気づかないのは勿体ない。僕は宇宙に比べたらほこり程度のものだけど、宇宙の一部でもあり、知らないこと気づかないことが沢山あるという姿勢が正しいのでは」というものです。

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