見出し画像

足利義満という上司、大内義弘という部下

(1700文字)

皆さんの職場に、嫌な上司はいますか?

南北朝時代に、上司が自由奔放なばかりに、かなり苦労した人がいます。

大内義弘おおうちよしひろさんです。

彼は南北朝から室町時代にかけて、周防を治めた武将です。(子孫に、戦国時代に有名な大内義隆がいます。)

もし大内義弘が教科書に載っているとしたら、彼が室町幕府に対して起こした反乱(応永の乱)ではないでしょうか。

反乱のイメージからか、義弘は気性の荒い武闘派だと言われることが多いですね。
その通り、彼は前半生を九州平定に注いだ猛将です。

しかし、短気というのとはちょっと違うのではないかと思います。

なぜなら大内義弘の上司は、

一度機嫌が悪くなるとなかなか治らなかったり、

強制参加の飲み会を頻繁に入れてきたり、

突然仕事の日程を早めたり、 

(花を見たりゆっくりしてから義弘のもとへ向かうと伝えておいて、真っ直ぐ義弘のもとへ向かい、3日も早く到着。何の連絡もなし)

雨を止ませろと命じたり、

(お花見がしたくて命令。義弘は雨を止むことを願う和歌を詠んで対処)

業務以外の仕事を言いつけてきたりします。

(金閣寺の造営を大工ではなく、なぜか武士に依頼する。義弘はさすがに断っています)

そうです、足利義満のことです。


このフリーダム将軍は、厳島神社にお参りに行った際、厳島を治めていた大内義弘に初めて出会うと、そのまま京に連れて帰ります。

義弘に何か光るものがあったのでしょうか。
足利義満30歳、大内義弘33歳のときのことです。

これが義弘の苦労の始まりでした。

足利義満にスカウトされた義弘は、33歳で初めて京の地を踏み、戦ではなく、義満のもとで事務・交渉役などとして出仕することになります。
転職するようなものです。

しかし義弘は忠実に義満に報いました。

南北朝合一に奔走し、和睦をとりまとめて南朝の後亀山天皇らを帰京させることに成功します。

足利義満にも厚く信頼され、

一ぞくの准に思ひ給へ候

明徳4年12月の御内書

「足利一族と同じように義弘のことを思ってるし、そう扱うよ!」

とまで言われています。

足利義満の裏切り

義弘は得意な戦でも足利義満に尽くします。

山名氏との戦いでは、なぜか少ない兵で最前線に置かれたりもしますが、奮闘し、見事山名氏清を討ち取ります。

また、九州では少弐しょうに氏・菊池氏が蜂起。
義弘に鎮圧が命じられました。

ただちに平定した義弘ですが、そこで義満のある計画を耳にします。

後日に承れば、入道(義弘)を退治すべきの由、少弐・菊池が方へひそかに仰せらると云々

『応永記』


足利義満は、義弘を滅ぼすために少弐・菊池に挙兵を命じていたというのです。

義弘は不信感を抱えたまま京に戻りますが、そこでは義弘と関係のあった者たちが、こじつけのような理由で義満によって迫害を受けていました。

我慢ならなくなった義弘は、ついに謀反を決意。

死を覚悟した義弘は、出陣前に自分の葬儀を行い、7日供養も終わったところで反乱を起こします。応永の乱です。

しかし圧倒的な力を持つ義満に勝てるわけもなく、堺で討たれ、47年の生涯を終えました。

なぜ義弘は討たれた?


義弘は戦や交渉だけでなく、何より貿易が得意でした。
朝鮮と大内氏の独自ルートをつくり、貿易で栄え、さらには朝鮮に領地まで持っていました。

さらに山名氏を倒して大坂の堺を手に入れた義弘は、堺の港を整備し、立派な商業都市に仕立て上げました。義弘の貿易手腕がここでも発揮されたのだと思います。

土岐氏、山名氏に力があるうちは足利義満も気にしていなかったようですが、2つの家が義満によって弱体化した後は、おそらく大内氏は疎ましい存在になっていたのでしょう。

(また反乱の理由としては、『応永記』に九州の鎮定に大功をたてながら何ら報われなかったことが理由だと書かれていますが、それだけではなかったのではないかと😅)



あとがき

歴史は様々な方向から見て考えなけれはいけませんが、義弘さん全く知られていないし、あまりにも報われないので今回は思い切り義弘目線で語りました。

足利義満みたいな上司じゃなくてよかった!
皆さん、今週もゆるく(謀反の疑いをかけられないくらいに)頑張りましょう。


参考文献
小川剛生著『足利義満』
川添昭ニ著『今川了俊』

イラスト
・フリーイラスト素材集 ジャパクリップ
・ソコスト

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?