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「まじでしんどいときどうする?」友達との電話

先日、友達と電話で話をしているときに、ふと話のテーマが「まじでしんどいときどうする?」になった。深夜の電話はお昼には考えないような考え事を語りがちだ。

まじでしんどいときが私にも何回かあった。人からの信頼をすべて無くしていいから、今持っているものもこれまで築いてきた関係性も無くしてやりたい。1人になりたい、と思って人との繋がりの中で確かに生かされている自分を恨んだ。

「まじでしんどいときどうする?」ー私は、自分の中で許容できる「最低の」未来を想像する。具体例を出してしまうと、確かに存在する誰かの現実を私が「最低」とラベリングしていることが言葉になってしまうが
例えば、満を持して就いた仕事がうまくいかなったとしても、愛してくれる他人がいなかったとしても、心がボロボロになってしまったとしても
自分が誰かに助けられながら、息をできる場所にとりあえず存在しているというのが私の中での「最低」な未来であり、
それでも生きていけるという未来を想像することが、まじでしんどいときに明日を生きられる安心材料になる。

逆に、「最高」の未来に存在する自分しか許せなかったら、きっと私は怖気付いて生きることが嫌になると思う。誰かの役に立つことが、誰かにとってかけがえのない1人になることが、自分を存在させるための重要な要因になっている状態を想像してはゾッとする。誰かに関係なく、私の身体はあたりまえに存在しているのだから、存在する理由くらい自分の中に持ちたいよ。人を喜ばせることで、人の役に立つことで得られる幸せには恐る恐る手を出す。

「まじでしんどいときどうする?」ー電話した友達は、遺書を書くらしい。とりあえず書き始めて、書き切ることなく、自分がいなくなったときに悲しませる人がたくさんいることを確かめて、またとめどなく現れる明日を生きる。それともう一つの処方箋が、明日や来週にある近い未来の楽しみを想像する、らしい。

確かに、しんどい時とか今は食いしばって頑張らないといけないときだなっていうときは未来にご褒美を用意して踏ん張る、というか乗り切ろうとする。友達のその処方箋を聞いてはっ、とした。逆に明日や明後日、来週や、来年も苦しいと決まっていると思っていることは相当苦しいな、と。今日もなんだか苦しいし、明日もきっと苦しいんだろうな、と思いながら過ごす日々を想像したら心がズン、と重くなった。電話してた友達から、「そうだぞ〜、明日が楽しみだと思えるから、週末の飲みがあるから生きていけるんだぞ〜」と言われた時、今まで言葉にすらしてなかったけれど、自分が明日を当たり前に迎えようと目を閉じることができる理由には楽しい未来を想像している、ということが確かにあることが心に保存された。

まじでしんどいときの処方箋の他にも、その友達は大事なことを言葉で教えてくれる。前に、友達が辛そうにしていると泣けてくる、という文章を書いた。その文章は、「お願いだから、苦しいときくらいは優しくされて惨めな気持ちにはならないでくれよ」という祈りで締めくくったのだが、その言葉には苦しい自分がいることを受け入れてほしい、という願いがあったように思う。苦しい自分を受け入れる、ためには結構な理性が必要だ。というのも、友達がこういった。「まじでやばい時って、自分でも本当に自分の状態がわからなくなるんよな。」

自分の状態がわからない、というのは私にとっても大きな不安になる。だから、こうやってすぐに自分の内側を言葉に書いているし、感情について分析しようとする。自分の感情に対してのセンサーが鋭いというのは、一見感情豊かなように見えるが、実はとても理性的で、第三の耳をすまして自分の身体の声を聞いているのだ。

友達や家族、大事な人が辛そうにしていると泣けてくるし、その当本人でもわからないかもしれないその人の言葉を聞いたり、その人と一緒にいることには少し勇気がいるように思えた。大事な人だからこそ働かせたい、勇気だけどね。

この友達から電話がきた日、動物園に行った。キリンを見て、ヤギに餌をあげて、イヌをよしよししてすごく楽しかったのだが、
この楽しさに一昨日の自分は生かされたんか〜と思うと、楽しい思い出のパワーの大きさがとてつもなくて、これから楽しいことがあった時は、昨日の自分のためにあった今日に感謝して、その時一緒にいる人と楽しまないとな、という言葉にすると幼いけれど、私の中ではとても大きな学びをゲットしてしまった。友人、生きていてくれてよかったよ。

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