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光の元で「差し」向かう | 映画「窓辺にて」を見て

先日、今泉力哉監督の「窓辺にて」という映画を見に行った。主人公の稲垣吾郎は妻の浮気を知るも、妻に他する悲しみや怒りの感情が湧かず、なおかつそのことにショックを受けるという、かなり自分に対して分析的で正直な役を演じていた。劇中には主人公以外の登場人物も"一筋縄ではいかない"恋愛をしている。そんな登場人物たちをめぐって、さまざまな人間の関係性が描写される、あまり起承転結も何か一つの確固たるメッセージも見つけることが難しい映画だった。

今泉力哉監督の映画は「愛がなんだ」を見たことがあり、いつまで経っても彼女にしてくれないマモちゃん(主人公)とそんなマモちゃんを好きなテルコの物語でこれもまた一筋縄ではいかない恋愛ストーリー。見たときは、一緒にいるんだけど彼女にはしてくれないマモちゃんの感じと、好きとは言えないし彼女にはしてくれないことに悩みながらも離れることができないテルコの感じ、ふたりの関係性のリアルさにはぁ〜〜〜となったのを覚えてる。

ふたつの作品に共通して私が特に惹かれるのは、関係性の表現の仕方なのだが、友達や恋人、家族のようなわかりやすいラベルでは表現することのできない、そのふたりの間に確かに存在する関係性のあり方そのものの描写も好きだし、その関係性を描写することによって「そういう関係性がただある」ということを認めてくれるような今泉監督の映画は好きだ。

窓辺にては特にたくさんの関係性が登場するけれど、その関係性は画面上にふたりうつされて、そのふたりが会話を繰り広げる様子が定点で撮影されている描写で表現されている。

この上の感じ。

定点で撮影されるというのは、画面上に映るふたりのどちらかに寄ったカットの切り替わりなどがなく、ふたりがずっと同じ配置で映る映像が流れているということ。カフェで自分の席から少し遠い席で、会話をしているふたりを見るように。

フリーライターとして働く主人公と文学賞を取った高校生作家。主人公と浮気をしている主人公の嫁。編集者として働く主人公の嫁と浮気相手でもあり自分が担当する売れっ子作家。主人公と高校生作家の彼氏。
映画にはあまりにも多くの関係性が「サシ」で描写される。

サシでいうと、一対一でご飯に行ったりお出かけしたりして解散したあとに「サシに限るな〜〜〜」とふと思うことがある。一対一で同じ時間を過ごしたからといってそう思わない時もある。

また話は少し変わるけれど、マッチングアプリでいろいろな男性に会っていると特にその違いを感じているような気がしていて。その違いってなんだろうなぁ、って考えると会話に大きな違いがある。初対面でお互いがお互いの情報を共有して、その会話がどちらがしゃべりすぎることに偏ってもなく、時々お互いに質問しあって、お互いを知ることに言葉を使えた時、サシで話した甲斐あった、になることが私は多い。これは別にマッチングアプリで会う男性に限る話でもないか。

「哲学の勉強してるんだよね」
「そうなんだ〜。俺は法哲学好きだけど、○○って人知ってる?その人ってめっちゃ面白くて△△△で〜〜。知らないの?」
「私は勉強したことのない分野だったから知らなかったな〜」
「え、めっちゃ有名じゃん。じゃあ誰なら知ってるの?」
「私はフッサールを専攻してるよ。」
「その人ってどんな哲学者なの?」
「フッサールの中でも私は現象学っていうのやってて、特に□□□っていう考え方に興味あってさ〜」
「それって答えあんの?なんかずっと考えててもしょうがなさそう(笑)俺さ、答え出さないこと大っ嫌いでさ〜女の子とかも☆☆☆なのが苦手でさ〜」(続く)

私の会話の記憶より引用

こんな会話の時に、あちゃ〜別にこの人とサシであってもあんまり楽しくなかったな……と。シンプルに自分の話が多かったからっていうこともあるけれど。お互いのことを話しているようで、どこかお互いを知るために言葉や時間を使うのではないような。

先ほどから言っているサシという言葉、漢字では「差し」と書いて、ふたりで向かい合って何かをすることを表す「差し向かい」という言葉を語源として持つ。昔の男女ふたりがお酒をお互いに差し合う(注ぎ合う)様子から生まれた言葉だというが、その言葉に「差」が当てられていることにキュンとした。

「差」という感じの意味には特に相手に向かい合ってどうこうするとか、そういう双方向的な意味は見当たらない。点差とか差異のような言葉が表すように、「差」は物事の違いを意味にもつ。「差し向かい」は「差」を向かい合わせることであり、ひとりとひとりの違いがそこに存在し、ふたりで共有することとも言えると思う。

映画「窓辺にて」ではふたりの会話に「で、あなたはどう思ったの?」というフレーズが頻繁に出現する。浮気されたことをどう思った?彼氏に別れようって言われてどう思った?私のことあなたはどう思ってるの?一方的な会話は描写されず、いつも双方向の会話があり、その会話でお互いを知り、ふたりの間だけに築かれる関係性が生まれる。窓辺にてに出てくるふたりは「サシ」の関係だと思う。

友達、恋人、家族、先輩、後輩、仲間、親友、知り合い、のような関係性を表す言葉はたくさんあるけれど、その名詞で表現できるようなわかりやすい関係性では表現に足りないと思う関係性がある。一般的に言ってしまったら友達なんだろうけど、そういってしまうにはあまりにも惜しいくらいの大切にしたい関係性の人がいたり。

映画では、そんな「サシ」の関係がたくさん出現し、そんなにいろんな関係性がある中でじゃあ「好き」っていうのはどういうこと?というテーマに発展しているので公式では「<好きという感情そのもの>について深く掘り下げた、美くてちょっぴり可笑しい大人のラブストーリー」と表現されている。

恋愛に限らずだが、日常生活の中でその人とだから話せることがあるような「サシ」の関係性に救われることがある。このひととはお酒を飲みながら元彼の愚痴を言い合うような関係性、日々あったことをつらつら言ったり言わなかったりでも同じ空間で暖をとる同居人との関係性、忙しい時にふと連絡をくれて夜にシナモンロールを焼いてくれる友達との関係性、離れていても日記を共有して頑張っていることや悩みをふと共有する友達との関係性。どの場面でも、自分の中にあるけれどどれくらいあるのかはわからない多様な面の中から私もひとつを選んで、相手も同様にひとつを選んで、その違うひとつを共有して向かい合わせる。

その人との「サシ」の時間で共有されている言葉や雰囲気、一緒に食べたものや見たもの、思い出たちを大事にしながら関係性を築くこと、当たり前のようで少し難しかったりする。マモちゃんとテルコは一緒にいる時間を楽しみながらも、男女でこの距離感でなんで「恋人」じゃないの?に悩む。男女は特に難しいかもね。私とあなたの関係性だけではない情報によって、「差」を向かい合わせられなくなる。

映画では、パーフェクトな食べ物という意味だけど全然パーフェクトじゃないよねって言いながらパフェを食べて会話をする。違いを持つふたりがパーフェクトな意味を持つパフェを食べながらお互いの差を向かい合わせる、あたかも何かの意味がありそうな描写があったり、
光が差し込む窓辺で会話が繰り広げられる描写に、意味を込める美しさと細かさを感じて、映画鑑賞後は一緒に見た友達と思わず熱く語り合った。

私も差し向かえるような人間でありたいし、「サシ」の関係性をもっともっと大切にして過ごしたいと思ったし
劇中に出てくる言葉の美しさが好きだったし、
見た後にこんなに考えさせられる映画に出会えたことが嬉しかった。以上、映画「窓辺にて」感想。

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