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【小説】西日の中でワルツを踊れ② 見渡す限り真っ平らな海のまん中にぽつんと一人浮かぶ経験。

前回

あらすじ。
記憶を失っている西野ナツキ。川田元幸という男を探す紗雪。公園を待ち合わせした二人は岩田屋の町を歩き出す。

「はい」
 紗雪は諦めたように頷いた。「ナツキさんは記憶を失い、私が電話をした時には放心状態だったように思います」

 槻本病院の前にぼくが捨てられていたのは十四日前の二〇一三年九月七日土曜日の早朝だった。
 気を失って倒れたぼくの身体には擦り傷や打撲があった。
 病院側は誰かと喧嘩をしたのだろうと判断して警察に連絡をし、病院で簡単な治療がおこなわれた。

 持ち物は携帯電話と千円に満たない小銭がポケットに入っていた。
 記憶を失っていると分かったのは、目覚めた後だった。

 当然と言えば当然だが、ぼくも周囲も戸惑った。
 事情を聞きにきた警察の受け答えに対して、まともな返答ができなかったぼくは紗雪の言うとおり放心状態だったのだろう。
 今から振り返っても、目覚めた最初の頃の記憶は曖昧だ。

 ただ、痛みの感覚だけは目覚めた時から強く脳に残っていて、最初の頃のぼくはベッドの上から立ち上がることさえできなかった。
 記憶を失う、というのは見渡す限り真っ平らな海のまん中にぽつんと一人浮かぶようなものだった。

 果しなく広がった海の中心で何処へ行けば良いの分からず、自分の居場所は此処ではないということは分かっている、そういう経験だった。
 体から力を抜き、海の底へ沈んでいく方が良いのかも知れない、そう思った頃、携帯が震えた。

 知らない番号からの電話だった。
 出ると女の声がした。彼女は、紗雪と名乗った。

 会話が成立していたとは言い難かった。
 海に沈みはじめたぼくの意識はぼんやりしていたし、目覚めてからのぼくは言葉を発すると言うより、音を発しているに近い状態だった。

 脈略のない返答しかできないぼくに対し、紗雪は辛抱強く状況を尋ね続けてくれた。どうしようもないほどに長く不毛な時間が流れても、紗雪は電話を切ろうとしなかった。
 沈んでいたぼくを紗雪は電話によって引っ張り上げようとしてくれた。
 ぼくは水面に顔をだし、溺れた後の人のように咳き込み、途切れ途切れに自分の現状を口にしていった。

 ぼくはぼくが知りうる現状を紗雪に話すことで、パズルのピースが繋がっていくように現実を把握した。

「紗雪さんがぼくの恩人なんだと思う。電話をくれなかったら、今も放心状態だったと思います」
「それは良かったです。ナツキさんが、携帯だけはしっかりと握り締めていたおかげですね」

 ぼくが発見された時に持っていた携帯にはパスワードが設定されていた。
 ロックのかけられた携帯にできることは受信したメールの件名と本文の冒頭の表示。
 そして、携帯の着信に出ることだけだった。

 受信した幾つかのメールによって、ぼくは自分の名前が西野ナツキだと知った。
 紗雪がぼくをナツキさんと呼んでくれることで、ぼくは辛うじて自分の存在に納得ができた。

 更に、紗雪はぼくに彼女の兄を探す、という目的を与えてくれた。
 過去の記憶を失う前の、ぼくが知っている紗雪の兄の行方。

 ぼくはポケットから携帯を取り出す。
 紗雪から電話があってから、メールも着信もないロックされた携帯。

「記憶が戻ったら一番に紗雪さんへ伝えますね」

 正しい四ケタの数字が分かることで携帯のロックは解除されるように、いつかぼくの中にある記憶が浮かびあがってくるはずだった。
 その日に、ぼくは川田元幸の行方を紗雪に伝えられる。

 紗雪が立ち止まって、ぼくを見ていた。
 ぼくも足を止め、紗雪を振り返った。

「どうしたんですか?」
 しばらく、紗雪は何も言わなかった。
 錆びたガードレールの向こう側で車が走っていた。

「いえ」
 と小さな声で紗雪は言い、「ナツキさんの記憶が戻るのを待っています」と続けた。

 小一時間ほど駅周辺を歩いた後、紗雪が寄りたい所があると言った。コンビニ前で信号待ちをしている最中だった。
「一つ、いいですか?」
「もちろんです」
 頷いてから「紗雪さん、岩田屋町にはよく来るんですか?」と尋ねた。

 信号が変わり、紗雪が先に歩きだした。
「昔お世話になった家から近いんです。もう終わってしまいましたけど、夏祭りには花火大会も催すんですよ」
「そうなんですか」
 頷くも、ぼくに岩田屋町の花火大会の記憶なんてない。
 あるのは紗雪から電話があった時、電話の住所を伝える必要があって、同室の人から聞いた時の「イワタヤチョウ」という響きだけだった。
 病院の入院患者や看護婦の話を聞く限り決して都会にある町ではないようだった。知識として都会と田舎の風景はあるものの、その違いは漠然としていた。

 紗雪が寄りたい場所は神社だった。
 石階段を見上げても、到着地点が見えないほど高いところにある神社だった。
 階段の中腹辺りには高い木が茂って影を落としていた。
 風が吹くと木々がざわめき、何か大きな生き物が唸っているようにも感じた。石階段の一段目に足を乗せて、体重をかけるとバランスを崩しかけた。
 階段の表面の石が綺麗に整備されたものではなく、荒く削れた石が積み重なっている。
 足の裏に力を入れながら、靴の裏ごしに石の不規則な形を感じた。

「一応、車で行く為のコンクリートの道もあるんです。でも、少し遠回りになるので、このまま登ってしまおうと思うんですけど。大丈夫ですか?」
「大丈夫です」

 紗雪の平然とした表情を前にすると頷く他なかった。
 石段の階段を登るのは一苦労だろうという気持ちと同時に、高いところから岩田屋町を見下ろしてみたい、とも思った。
 今、ぼくが立っている町。

 世界で唯一、ぼくが知る町。
 それを一望することで、失った記憶の一部でも戻ってくるかも知れない。何の確証もない実感だったが、不思議とそう思うことで階段を登ることの理由にできた。

「じゃあ、行きましょう」
 言うが早いか、紗雪は軽かいなステップで石段を登っていく。彼女はもしかすると整備されていない道を進むのが日常の生活を送っていたのかも知れない。

 ぼくも紗雪に習うように足と身体を動かしてみたが、途中からリズムが崩れてしまい、すぐに息も上がった。
 周囲を高い木々が並ぶ中腹辺りで、ぼくは意識を集中して慎重に石段を進んだ。
 一歩一歩進みながら常に後ろに引っ張られる感覚があった。

 楽になれ、と誰かに言われているような気がした。体から力を抜けばすべてが楽になる。
 甘い誘惑を押し殺すように、奥歯をしっかりと噛みしめた。

 顔を伝う汗さえ拭えぬまま、ぼくは影になっている中腹を抜け、日の光に背中を焼かれながら最後の一歩を登りきった。
 汗で濡れた髪をかきあげ、吐息を漏らした。

 その場に座り込みたい気持ちを押さえて後ろを振り返った。
 ずっと僕を引っ張っていた甘い誘惑の正体がそこには広がっていた。

つづく


 本当はもっと早い更新をしたかったんですが、季節の変わり目のせいか、風邪ぎみで本日になってしまいました。
 舗装されていない石段の階段が永遠と続いている神社は僕の地元に実際にあります。大阪で出来た友人に写真を見ると樹海にある神社と言われてしまいました。


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