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『レジリエンス こころの回復とは何か』 願いが叶うことか、光が見えることか

『レジリエンス こころの回復とはなにか』,セルジュ・ティスロン著,白水社発行,2016年刊行

「あなたにとっての『レジリエンス』の意味を言い給え、そうすればあなたがどんな人かを言い当てて見せよう」——かのブリア・サヴァランの名言をもじった言葉で、著者はこの本を締めくくっている。何とも絶妙だ。

 とにかく生きてるだけで青息吐息だと、みんなが思っているこの世界で、レジリエンスという言葉はもう盛りを過ぎたかも知れないと思うほどに咲き乱れている。
 この本は、その「レジリエンス」という言葉が、発している人が想像している以上に、様々な違った意味合いで使われていることを出発点に、「レジリエンス」概念の繊細さを考える本だ。

 なので、「どうやったらレジリエンスを身につけられるかを知りたいの〜」という立場で読んではいけない。たぶんそのつもりで読むと絶望してしまう(笑)。
 ただし、誤解してはいけないのだが、著者はレジリエンス概念を批判・否定しているのではない。「なんか最近レジリエンスってよく聞くけど、ウソ臭い自己啓発系のキラキラワードなんでしょ」「みんなが好き勝手に意味を突っ込んでるジャーゴンなんでしょ」みたいな話では全くない。
 レジリエンスという言葉が、重要で人間の幸福にとって不可欠な何かを示しているからこそ、そこに宿る危険性を認識して注意深く扱わなければならないのだというスタンスだ。

 レジリエンスという言葉がどのように生まれ、どういった文脈でどのように発展していき、いかにして、多様な意味を含みながら「でも言ってる本人はこの意味が唯一だと思っている」という不思議な状況が生まれるに至ったのか……という過程を懇切丁寧に解きほぐしているので、ある種の心理学史のように読んでも興味深い。

★★★

 ひとは、立ち直る(こともある)。
 というのが、レジリエンスという言葉のほとんど唯一の共通イメージだ。そしてそれ以外の部分に宿っているものは恐ろしく違っている。
 苦しみを糧にしてさらに成長していく英雄譚であったり、有名人の歪みに対する免罪符であったり、フラッシュバックがやっと間遠になったというささやかな安堵であったり、政策評価のパラメータのひとつであったり、「どんな攻撃も無効化するアストロン使いのメタルキング」という幻想であったり。

 そしてそのそれぞれに、よい影響もあれば危険性もある。
 苦しみに負けた人間を敗残者と責めてしまったり、有名人の罪を免責してしまったり、PTSDが消えてなくなるような間違ったイメージを植え付けたり、「レジリエンスを高めるために必要」という名目で個人情報を権力者が利用したり、「あの人はレジリエンス高いから大丈夫」と無理難題を押し付けたり。
 それらの危険性は、本の中でひとつひとつ提示されれば、確かに「あ、そうだ、やりがち……」と思い当たるのだけれど、この本を読む前に自分でいつか気付けたかと問われると、全然自信がない。
 むしろ全力で誤解していた気がする。私のように「レジリエンス高ければ、もっと生きやすいのにな〜」みたいな魔法の杖感覚で使っている人が、大半なのではあるまいか。

 人が様々な苦しみを受けても、死なずに何とか持ち堪えて生きている。という現象において、その苦しみがどんな風に影響していったかを完全に知ることはできないし、ましてや外から都合よく操作することは決してできない(し、しようと思うこと自体が罪深い)。
 印象深いエピソードのひとつが、画家のピカソが「幼少時の苦しみを芸術で克服できた事例」のように称賛された一方で、実は彼が周囲の人間に塗炭の苦しみを味あわせる破壊的な人物だったことが次第に明らかになっていった話だ。
 外からは見事に立ち直っているように見えても、本当のところは棺を蓋いて事定まる、いや棺自体が朽ちてなくなる時間が経ってもわからないかも知れない。
 そもそも、そんな風に「立ち直ったかどうか」を「判定」することが正しいのかどうかもわからない。

★★★

 この本を読んでいて、実に色々なところで考え込まされたのだけれど、最も印象に残ったのは

トラウマを受けた人へ介入する人にとって第一に必要な特質は、「レジリエンスのプロセスをコントロールして導こうとする願望を断念すること」である。

という著者の指摘だ。この指摘は、専門職として治療的立場を取る人々への警告なのだが、もっと広く、われわれが自分自身に対して行う振る舞いにおいても、心するべきことなのかも知れない。
 もっとできるはず。あんなことを言われても対抗できるはず。あれをすれば癒やされるはず。色んなことをうまくさばいて上手に処理して、自分が望んでいる結果を出して、思い通りかそれ以上の未来を掴めるはず。
 そういう自分の人生の手綱を握っている感覚は確かに必要で、それを持てなくて苦しんでいる人もたくさんいるのだけれど、それを「自分が望んでいる結果が得られる」というゴールへの過程だと位置づけてしまうと、別の何かが失われてしまうこともあろう。

 以前、タレントのタモリさんが話していたことのうろ覚えの記憶なのだが。
 どこかのお寺の住職さんが以前新幹線の予約をとろうとして、JRの係員に
「のぞみはありませんけど、ひかりならあります」
と言われたそうで、要はのぞみ号のチケットは完売だがひかり号なら取れるということなのだが、これは仏のことばだと感じて、お寺の掲示板に書いたのだそうだ。
 人間の小さな頭で考える希望や欲望は叶わないけれど、仏がもたらす慈悲の光は常にわれわれの上にある。ということなのだと思うのだが、レジリエンスについての本を読んでいて何故かこの言葉を思い出してしまった。
 立ち直ろう、ストレスに負けないようにしよう、何ならこれを糧にしてさらに成長しよう、と頑張ることが、人によっては時によっては救いになることもあるのだけれど、その過程が常に実る訳ではない。その頑張りが、かえって思いも寄らぬ害をもたらしてしまうことだってある。
 けれど立ち直れる可能性はいつもある。レジリエンスという言葉が示してくれるのはその光だけで、それ以外のことは自分の中にあるものなのだ。それを覚えておこう。

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