【詩/散文】棺の沈黙

土に納められる時を待つ棺の静寂、それを囲う人々に漂う動かぬ時間、腐りゆく体の放つ酸味がかった死の匂い、雨に濡れた雲間から刺す一筋の清冽な光、それらすべてがその人の瞳の中に鎮座し、音も無く暴かれるのを待っている。人の手で暴かれるのではない。鋭利で滑らかな言葉の刃で、自らの皮膚を、筋肉を、脂肪を割いて開腹し、膿を取り出し、それからまた言葉の糸を紡いで縫い留めるだろう。その様を人は物語と、もしくは幻視と呼ぶ。だが実のところ薄皮を剥がすだけのことなのだ。人の目に映る世界の皮膜に針を突き刺し、骨ばった指を使って柔らかく緩慢な手つきで擦り上げ広げられた覗き穴、それはその人自身であり、また俺自身でもある。

人と獣の合間の、酷く自由で曖昧なものでいい、それより優れた歓びなど在り様が無い。高慢で無知で、毒を喰らって生きるほか術のない、憐れな一個の、ぐにゃりぐにゃりと揺れ動くもので在ろう。誰もがそんなものに過ぎない、にも拘らず器に入れた自分の姿を好く思っては、本来何が自分だったかなどは忘れている。可哀相で疎ましく、かしましい妹を見つめるような面持ちで俺は人を見ている。だがそんな事は殊更取り立てて如何ということもない。自由と放埒と傲慢の違いの分からぬ連中は、今まさに其処に座る薄い皺を寄せた男に似ている。人の善い笑い方をしているが、強欲に身を浸し、人の顔を見て己の顔を洗い、それでも脂下がった顔を隠せず、薄っすら立ち昇る煙を消そうと奔走している。男は裸の夢を見ている、白夜の朝に。男は降らせる雨を持たぬ雲だ。悲しみから逃れるものは漂うほかない。涙を零せぬものは暗い霧を抱いて流れるほかない。そして遂には、凍えていたことにすら気づかず足を縺れさせて行き倒れるのだ。

雨よ、降りしきる夕立の向こう、泥を跳ね上げる粒の大きな、草熱れを肺に運ぶ雨よ、お前の力であの人の裡に眠る棺から咽返る死を拭ってくれ。脈打つ鼓動を明瞭と感じるようあの人の体を打ってくれ。あの執着の途切れた目の中に光は届かぬだろう、手を握ろうと蠢く俺の姿にさえ気づかぬだろう、一人きりで座り続けることを辞めぬ椅子の隣り、希薄に透けた布地に飜えるのは、希望という言葉に引き裂かれた忸怩たる悔恨と、それを生み出した無力で平坦で凡庸な、ありふれた人間であるが故に誰にも避けられぬ喪失だ。友情や憧憬や憐憫、思慕や勘定の産まれるずっと前、原始の時代から在ったものの名を誰も精確に言い得ぬだろう。限られた記憶を辿り、遊ぶ子どもらを見遣り、思いついたものにそれらしき言葉を当て嵌めるに過ぎない。言葉なき者を軽んじるのは命の由来を知らぬ人間だけだ。
雨よ、光よ、分かたれた世界の構築者、生と死とを一つに繋げる紺青と岸壁の統率者、意味ある言葉を忘れた記憶の埋葬者、引き摺られた罪を解放し得る者達よ、もしも慈悲がこの世で最も尊いと言うならば、窓を叩く亡霊達に掛ける言葉の一つもあろう筈だ。

俺は夢を見ている。俺の死因が正しく解剖される日を夢見ている。俺は夢を見ている、あの人の手の中にある俺の骨の重みに包まれ泣いている。

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