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死と向き合う

死に対して、特別感を持っている方は、少なくありません。

少なくないどころか、(ほぼ)すべての方がそうかもしれません。

結論から言うと、死に対して特別感を持っているうちは、死を理解してません。

理解とは

理解とは、どうなっているという事か知る事だと考えるかもしれません。

それを否定するものではありませんが、理解の本質は違うところに在るように思います。

わたしは、多くの方が、死という機会を愚弄しているように見えます。

先日、祖母が亡くなりましたが、おばさん(祖母の娘)たちを見ていると、生きている時に向き合わなかった、ツケを払っているようにも見えました。

そして、「もっと、長き生きていてほしかった」というような話をしていたようですが、そこに様々な浅はかさ(思考停止)が潜んでいる事に気付きません。

これは、おばさんたちだけに言えることではないように思いますし、世の中の、多くの方に当てはまる事のように思います。

人間が、理解に対して真摯な姿勢になるなら、この世は進化していきます。

人間の理解は、個人的にフィットする考えを握る事です。

それではいつまでたっても、本質的な理解は訪れません。

本質的な理解とは、それらが、幻想であること・・・つまり、個人的な考えであり、それに囚われているという自覚が起こっていく事です。

それは、捉えられていたという事実に気付くという事でもあります。

この理解は難しいですか?

難しいからこそ、そこが理解できる土壌をつくるところからやっています。

これは、本当に大切な事ですが、大切だとわかる事も土壌が変化しないとわからないのです。

そのパラドックスをわずかでも超えかけている方に届くように書いています。

それ以前の方には、まだ届きませんし、この世、この時代限定の価値に魅了されている状態です。

死について

さて、死ですが、死を知ろうとすると、途端にパラドックスが起き始めます。

ですから、死を知りたければ、死にフォーカスをしてはいけません。

また、死について語られた何かを覚える事も、思考停止を起こす最も多いパターンです。

本当に死に向き合うなら、生に向き合わなければいけません。

生に向き合ったとき、「私自身を知る」という事を避けて通れません。

それを知れば知るほど、死とは何か体感するようになります。

一生懸命何かをやる事ではありません。

今に向き合う姿勢が整えば整うほど、「私」への理解が深まっていきます。

死とはその中にある一つの機会です。

ですから、死にフォーカスする必要はないのです。

本質的な理解は、自分自身の中からしか起こりません。

ですから、様々なところで語られている死を信じて、「私」を蔑ろにしてはいけません。

ですから、わたしは、答えを教える事はしません。

はぐらかしているわけではありません。

答えを教えた瞬間から、その答えが、あなたの本質を曇らせ、本当の理解から遠ざけるからです。

しかし、知っておいてほしいのは、わたしは、そこまでお連れできる核心と実績があるという事です。

それでも、この道を進まないなら、それも悪くないのです。

強制はありません。

強制など、個人的な幻想でしかないのですから。

ですから、わたしは、伝えるのみです。

どんなに、頑張ったところで、その方の心を変えるのは、本人の意思であり、意識です。

インスタントな理解は、死に直面した時に剥がれ落ちます。

わたしには、必要ない理解です。

しかし、人間は違います。

死と向き合う事を避けるために、手っ取り早く、誰かが語った死の考えを受け入れます。

そして、その時まで、安心を続けようとします。

さらに、その時になっても、勉強したそれに囚われ、そこで死を迎えた者に向き合う事すらできません。

感情が起こる時、理解不足を示唆しています。

大切な方が無くなった時、悲しみが起こらない方はどれほどいるでしょうか。

本当に、大切だからこそ、本質を知り、向き合う事が大切つだと思っています。

こんなに悲しいのに、向き合っていないというのか?

と、お叱りを受けそうですが、向き合っていないからこそ、悲しんでいる暇があるのです。

こういった事を書くと、悲しまない教えを勉強した方が、「私は解っている」と言いたくなります。

そうではないのです。

思考的に理解する事が、すでにフィルターとして、働いているのです。

ここを超えることは、悟りと言われているように思いますが、自覚は、悟りさえあるようにする「私」を知る事でもあります。

正直、意識の成熟度によって、今回の人生で悟る事ができない方は、いらっしゃいます。

しかし、悟りに近づくことはできます。

これは勧誘ではありません。

あなたにとって価値が有るとならない限り、あなたは動きません。

わたしは、その行動を否定しません。

仮に、あなたが行動しない事によって、この地球が、ダメになると知っていても、あなたの行動を全肯定します(笑)

わたしはそんな在り方です。

冗談ではなく、本当にそのように生きています。

わたしの周りで、大切に思う方が亡くなる時、それは一つの区切りではありますが、わたしは、その方との向きあい方を省みる事はあっても、亡くなったことに対して、否定も肯定もありません。

それは、世界中すべての方に対して一緒です。

悲しんで引き留めるような考えも出ませんし、あの世で元気でやっていく事を願う事もありません。

ただ、すべて起こっている事に対して敬意をもって向き合うだけなのです。

すると、そこから理解が広がっていきます。

その理解は、誰かから聞ける理解ではないのです。

追伸

死後の世界について語られているモノも沢山あります。

また、生まれ変わったという話の中で出る死生観

それらは、本当に体験したモノであると考える事も出来ますし、夢と考える事もできるのです。

同じ体験をしているから本当なのではないか?

と考えるかもしれませんが、それも、人間の思考の枠内での話なのです。

同じシチュエーションでの夢を見させられていたなら?

だから・・・人間は、死んでも思考の網目から外に出ることができないのです。

自覚人は、本当にそこに在るか?または思考なのか?

という、理解が進んでいる者でのあります。

自覚しない限り、それらの虚構性を知る事ができません。

そこに至っている方がいるのなら、その方には、必ず自覚が起こっているのです。

最後に、地球が滅亡しても、あなたの行動は、肯定されています(笑)


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