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言語化するとなぜ悩みが解決したり、救われたり、嬉しい気持ちになるのか?

言語化について書いてみたい。

書いてみたいけど、どんな風に書いたらいいが迷っている。

出だしも3回ほど書き直した。

出だしが変わるだけで、そのあとの構成もガラッと変わる。出だしって大事なんだと改めて思う。

本題に戻る。

言語化について書いてみたい。

なんで書いてみたいかというと、最近数人の人たちから「言語化が上手だ」と評価してもらったことが続いたから。

というのと、自分がやっていきたいサービスをいくつか考えていて、そのうちの一つを「心のモヤモヤ言語化サービス(仮)」にしてみたらどうだろうと、そんなことを考えているから。

なので言語化について書いてみたいと思いました。

そもそもだけど、言語化ってなんだろうか?

気持ちや感じていること、心や頭の中にあることを言葉にして表現すること。

でも、基本こうやって言葉を書いたり、普段人と話すときも言葉にして表現している。

そういう日常の書くや話すは、それだけでは言語化とは言わない。

普通に話していたら言葉にはなりにくいものを言葉にできたとき、それを言語化っていうのかな。

きっと、僕のことを「言語化が上手だ」と言ってくれた人たちも、自分だけでは言語化できなかった心や頭の中のものが、僕と話すことで言語化できたり、僕が「こんなこと?」と提案した表現がドンピシャだったりしたんだと思う。

そしてそれは「ありがとう」と言ってもらえることなんだ。

確かに思ってることを言葉にできるのは嬉しい体験だ。

ときには言語化によって救われることもある。

悩んでることも、言葉になると解決することがある。

なんで言葉になると、悩みが解決したり、救われたり、嬉しい気持ちになるんだろう。

僕が今言語化したいことはあるだろうか。

とここまで書いてみて、自分が全然乗れてないことに気づいてしまった。いや、もうだいぶ前から気づいてはいたんだけど、なんかそういう不安や違和感が来たからといって、すぐにそれを書いてしまうのもなんだか甘えや逃げな気がして、今書いてること、言語化への興味や探究を最後まで貫いたらそれなりの結果が出るかもしれないのに、ここでそれをやめて違和感について書き始めたら、うーん、ここはうまく言語化できない。

まぁとにかくこのまま書かなければという感じになってしまって、でも完全に興味が消えかかってて、書かなきゃに意識がいっていて、なのでもうしんどいというか、つまらなくなっていた。

つまらないことは早急にやめるべし。流れないことは早急にやめるべし、という坂口恭平さんが本に書いていた。

それを鵜呑みにするわけではないけど、流れていくというのは大切なことだとは僕も思う。

たぶん読んでる人も、文章が流れてるか流れていないか、気持ちがこもっているかこもっていないか、分かる人は分かるのではないだろうか。

そんな僕の不安とは関係なく、言語化の話を面白く読んでくれていた人がいたとしたら、途中で書くのやめちゃってすみません。

言語化のことは、気持ちが乗るときにちゃんと書きたいと思います。

でも、今まさに自分が書きながら感じていた違和感について、ちょっとだけで言語化できて、そのおかげで僕はちょっと楽になりました。

もし、違和感を感じて、書くのやめたときに、違和感を書くという形でこの投稿を書か続けるということをせず、昔のようにもう書くのが面倒くさくなって投稿自体を「下書き保存」かなんかして終わらせたら、僕はきっと後悔したと思う。

今はこうやって、前半で生じた書いてるときの違和感やつまらなさを少しでも言葉にできたから、今ちょっとエネルギーが上がっている。

エネルギーが上がっているというのを別の表現で書くとら自分の身体の感覚や輪郭がはっきりしているという感じだろうか。身体や自分がここにいるという感覚が普段よりよりはっきりある。はっきり感じられる。

これが言語化の効果の一つかな。

言葉にできると自分の身体の感覚や輪郭がはっきりする。それは僕がここにいる、生きているという事実がはっきりするということか。自分がしっかり立っている感じがする。ここからまた一歩と自分で歩いていけるような気持ちが生まれてる。

だから、悩みが解決したり、救われたり、嬉しい気持ちになったりするのか。

脱線したつもりが、気づいたら書きたいことに突然繋がりました。まさかの展開でびっくりですが、正直に素直に行動すると、こういうこと、必要なことがちゃんとやってくるということなんですかね。面白いですね。

というわけで、今日は言語化について書いてみました。

今日も最後まで読んでくれてどうもありがとうございました。

さとし

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