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#124 読書録 中動態の世界(第3-5章)で少しわかった世界観

こんにちは!今日は中動態の世界の第3-5章を読んだので、読書メモとして残しておきます(20240217一部更新)

この本、日本語で書かれているのですが、一度、二度読み返した程度では全く理解できません。自分の頭の能力では。

第一、第二章の全く理解できていないnoteの投稿はこちらです笑

今、Miroを使いながら、それぞれの章でどんな主張がされているのか、引用されている過去の哲学者が何を述べているのかを並べてみて少しづつ整理ができてきた感じです。

ということで、自分の理解をより深いものにすべくまとめておきます。
めちゃくちゃ誤読が多いと思いますが、誰かの参考になれば幸いです。

ちなみに、なかなか読み進めれない楽しい読書体験を与えてくれている本はこちらです。


少し理解が進んだかもしれない言葉たち

中動態に活用しているとき、動詞の示す操作は主語に作用を起こすことを含意している(第三章P78)

中動態の定義が書かれていて、ありがたい!と思ったので自分がサッと振り返れるように残しておきます。

1、中動態の意味はむしろ能動態である
2、動詞の表す動作が主語の利害関係に感心している場合が多い
3、しかしその意味は多義的であってこのような説明で汲み尽くせるものではない
4、したがって毎回、辞書を使って意味を確かめるべきである

中動態の世界 第3章P78より引用

動詞の示す操作は主語に作用を起こす。だと私の頭では自分の言葉に変換できません。

書かれていた、馬のつなぎを外す例をもらいようやくわかった気がしました。意味としては、馬のつなぎを外すいとは、単につなぎを外す。という動詞だけがあるのではなく、これから続く可能性がある馬にのるという次への行動に対する作用を及ぼすと理解できた。たぶん誤読ではない笑

自分の理解が確かならば、種をまく(今後収穫する、食べる、売る等が続く)やヒトを育成するなども背景の意図が隠れているから中動態にあたるのでは?と思ったので、後に読書メンターと語ってみたいと思います。

能動と受動の対立はするか、されるか。中動態の場合は主語が過程の中にあるか外にあるか(第三章P88)

今の生活で受動、能動態を意識して使い始めたのは、たぶん中学生の頃だったと思います。そして日本語ではなく英語の文法を理解する為だった記憶。

理解としては、自分を中心としてするか、されるか。これでこの本を読むまでは全くの不自由をせずに生活をできていた。

いや正確にいうとこの本を読み、中動態の世界観を知っても、きっとこの言葉が普段目に見えない所にいるということは、知った後も生活をする上では何も変化がないと思います。支障があるかないかというレベルでは。

ただし、能動と中動態の対立構造を見た場合に、受動態との差分は何か?と問われたら主語が過程の中にある外にあるか?という存在を知識として得る事ができたという差分は生まれました。

今はこの本の第3章周辺をグルグルと回っている所なので、これ以上でもこれ以下でもないと思います。

いつか、この知ったことが何かにつながれば面白いかな?と思って頭の片隅に置いておきます。

意思と選択は明確に区別されなければならない(第五章P131)

意思の概念は責任の概念と強く結びついている。このことは、「意思」が、その日常的用法においても何事かを始める能力としいて思い描かれている事を意味している。何らかの行為を自らの意志で開始したと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである。

中動態の世界 第5章P131より引用

そもそも、意思と選択という言葉の意味について明確に定義しないと困るという場面に出会ったことがない自分にとって、意思と選択を明確に押さえる必要がある論理構成にまず面食らいました。

これまでの全体的な読後感になるのですが、一つ一つの言葉の意味でさえしっかりと説明できない事しかなく、さらに、他の言葉との差分を言語化することの難しさについて気づきました(わかったではない)

で、選択というものはというと、不断に行われているもの。人は意識していなくても行為をしており、あらゆる行為は選択である。

これの定義が来ると、選択というものに、意思が包含されていないと行為にならないのか?無意識でおこなわれた行為は選択という言葉をあてることができるのか?など自分の頭で問いを立てられるレベルまでになってくる。

選択とはこの世界にあふれている事実である。行為は常に実現されなかった行為を伴っている。

中動態の世界 第5章P131より引用

行為は、常に実現されなかった行為を伴っている。これも考えたことが無い世界観だったので、新しい視点というものを得る事ができました。

もう一度言いたくなります。行為は常に実現されなかった行為を伴っているのだよと(かっこいい)

意思は過去からの帰結ではあってはならず、過去から切断された絶対的な始まりでなければならない(第5章P137)

われわれは、純粋で絶対的な始まりなどを考える事ができないのである。

これも本当に新しい学び。

確かに、ココロに起こるいかなる想念にもそれに先立つ何かがある。

想念や行為には必ずそれを引き起こす原因があるというのに、人間は物事の結果しか受け取れないから、その原因に思い至らないだけである。

やっぱり哲学についても、体感値が伴うと、何となく理解のスタートに立てる気がします。

人間、無から何かを生み出すことができない。常に意思にかかわらず過去に見たモノ、経験したものが駆動して何かの起点になってしまう。

DNA自体も過去からの引継ぎものと考えたらと思ってみるとなるほどと思える。ここでも新たな視点に感謝しかありません。

まとめ

第一、二章の衝撃的な難しさに対する防御反応から、第3ー5章はまずはわかりそうなところを自分の言葉に変換してみる。

また、あまりにもいろいろな情報が散りばめられすぎていてパニックになったので少し整理してみると何となく理解の入り口までは立てた気がします。

全体的な流れを理解するという壮大なものでなくても、今回まとめている新しい視点を得られるだけでも良い!とすると、もうプラスしかない!!となり努力が必要な読書というよりも、学びしかない!!掘ったら掘っただけ得をする!ってメンタルに変わりました。

進んでみるって良いですね。

だれかの選書の参考になれば幸いです。

ではでは

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