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エゼキエル書14章

「のがれん」
人生には何が何でも逃げ切らないといけない事態があります。神は罪のおそろしさを誰よりもご存じのお方です。だからこそ、すぐに悔い改め、心を神に向き直し、罪からはなれるようにと望んでおられます。イスラエルの長老がエゼキエルに助言を求めても手放しでは喜べません。何故なら、彼らは偶像崇拝の罪を続けながら、二股をかけて神を求め、しかも自分に都合のいい助言が欲しいに過ぎません。神はその祈りに答えることはできません。

私たちも祈りがなかなか届かない現実を体験します。理由は幾つか考えられるでしょう。けれども、もしかしたら私たちの罪が、私たちと神との間に断絶を引き起こし、交わりが絶たれている場合もあり得るのです。そうであるなら、祈りを捧げる前に、しないといけないことがある。まずは悔い改めて、罪から急いで離れ去ること。それが先決です。もしも神に心探られることがあるとしたなら。神に罪がゆるされた確信を得てからです。

ところで民が自分の罪に対して反応が鈍いのにはそれなりの背景がありました。自分たちの先祖は信仰的だったからという自負です。先祖が立派だったから、その立派な血筋に免じて、神も自分たちの多少のあやまちには目をつぶり、祝福して下さるだろうという見通しです。冗談ではありません。信仰は個々人です。たとえユダヤの血を引かない外国人からであろうと神はノア、ヨブ、ダニエル(ダニエル書とは別人)と言った義人を起こせる程に。

気をつけないと私たちも同じ発想を持ちかねない。親がクリスチャンだから。主人が信仰者なので。妻が熱心なので。その信仰に免じて自動的に自分もゆるされ、救われるとでも言うのでしょうか。いいえ。信仰だけは外注が通じない。その点、信仰は徹底して個人的なのです。あなたがひとり自覚的に神の前に立つ必要があります。たとえ信仰者の環境に育ち、その背中を見て成長しても、あなたがわたしの神ですとの告白への決断が迫られています。

とは言え、何もかもが個人の問題ですでは済ませられない事態もあります。罪の問題がそれです。罪は犯した本人を傷つけるだけではありません。被害者を生み、犠牲者を苦しめ、共同体全体に恐ろしい影響をもたらす。神が急いで罪から離れよと命じるのも、そこなのです。罪は必ず誰かを苦しめる。裁きが慰めだと言うのもそのためです。正義の神が罪を罪として処理されることによって、罪の犠牲者は解き放たれ、慰めが与えられるからです。

私たちも誰かの罪によって苦しみます。また私たちの罪が知らないうちに誰かを傷つけます。誰もそのおそろしい影響から逃れられない。だからこそ、この問題を解決する道をお持ちの神にすがらないといけない。神が罪を裁く方という事実は旧約も新約も一貫しています。神は罪の裁きを独り子イエスキリストに負わせられました。ここに慰めがあります。回復もやり直しもここから生まれる。自分の罪、相手の罪に苦しむ者は、十字架の主を仰げ。

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