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マタイによる福音書2章16節ー23節

イルミネーションで華やかなクリスマスの夜。しかし聖書の告げるクリスマスは深い闇に包まれています。幼児大量虐殺が起きたというのです。時の権力者ヘロデが救い主の誕生をおそれた。誰が当事者かわからない彼はベツレヘムに住む2歳以下の男の子を片っ端から殺していくのです。この場面は残酷すぎて日曜学校の降誕劇ではほとんど取り上げられません。しかし、新約聖書中、最も悲惨な出来事が、クリスマスストーリーの一場面なのです。

猜疑心の強い人物でした。残酷だったと伝えられています。この一族の中から第二第三のヘロデが出てきます。しかし実はこれは私たちの姿でもないのか。自分の立場を守ろうと、自分の主張を通そうと、平気で人を排除していく。誰かを傷つけてもなんとも思わない。その行きつく先は悲劇です。神がこんな酷いことを予定していたわけではありません。人の闇が深まるところ、すべての母親の悲しみは極まると預言者エレミヤの警告が心に響きます。

今も世界中のどこかでわが子を嘆く母親の叫びがこだましています。この国の片隅でわが子のために何もできない親の無力感が現実にあります。単純に親の自己責任だけで片づけていいはずがない。自分の居場所にあぐらをかこうとする誰かが何かが、人をそこまで追い詰めていくのです。思っている以上に罪の闇はどこまでも深い。しかしこの闇のさなかに、だからこそイエス様がお生まれ下さった。この恵みもまぎれもない事実なのです。

この時、ヨセフとマリヤはエジプトにいました。難を逃れたわけです。生まれて間もない主は難民生活を強いられたことになります。エジプトにはユダヤ人共同体があったとは言え危険すぎて故郷に帰れない。わけのわからない理由でいきなり追い出され、慣れない異国で右往左往しながら、必死で生きていこうとする親子の姿がここにあります。神の子が権力者と対決することもなく、ある面ではおろおろと、こそこそと逃げ回っているのです。

神の導きと言うと、私たちは事態が好転していくことだけに目を向けがちです。果たしてそうなのでしょうか。ヨセフ一家はプラスがゼロに、ゼロがマイナスへと下降していきます。持っていたものまでが奪われていきます。下降していく人生の中にさえも神の導きは確かにあるのだと信じるわけにはいかないのでしょうか。何よりも主は天から地へと下降してこられた方ではなかったでしょうか。今も主は下降していく者とともにいて下さいます。

やっとの思いで帰国して落ち着いた先はナザレでした。当時の文献にも出てこない無名の村。ガリラヤは自国民からも差別され蔑まれた地域でした。旧約聖書にナザレという地名は出てきません。預言者たちの言葉と重ねられているのはメシヤが辱めを受ける生涯を送る象徴がナザレの地名なのかもしれません。はっきりわかるのは主は居場所を失った阻害された人々のただ中に住み、自ら居場所を失った者となりナザレ人と呼ばれたことです。

自分の足で立ち上がることのできない者は今でも多くいます。善意からでしょうが、周囲はそこから出てこいと励ますでしょう。しかし良かれと思う助言も時に当人を追い詰めることがないわけではない。イエス様は違います。叱咤激励などしません。むしろ、わたしがあなたのそばにまでいく。傍らに座る。苦しむあなたのところにまでいって共に住む。暗闇にもがく者の慰めがここにあります。主はあなたと生きることを恥とは思われません。

皮肉なまでの対比があるのです。ひとつは自分の居場所を明け渡すまいとどこまでも人を排除していく生き方。一方には居場所を失い阻害された者を受け入れようと右往左往しながら、さ迷いながら、誰も目を向けないところにともに住もうと決心する生き方。教会が、信仰者が目指す方向がどちらかは言うまでもありません。クリスマスです。主がどん底にまで降りてこられた以上、確信をもって言えます。主のもとには誰もが居場所がありますと。

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