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エゼキエル12章1節ー28節

「原因はどこに」
問題が起きた時。安易な解決方法に頼ってかえって事態を悪化させることがあります。エゼキエルがからだを使った無言の象徴行為で伝えたメッセージがまさにそうでした。神の奇妙な命令は預言者がわが家の荷物を外に運び出し、家の壁に開けた穴から、荷物を背負い、顔を隠して夕闇に紛れて外に出るようにと言うものでした。一体何事かと人々は思ったことでしょう。実はこれは今後イスラエルに起きることを伝えた預言なのです。

バビロンがエルサレムに攻めてきた時。エルサレムのゼデキヤ王は、大国エジプトに頼り、難を逃れようとしたのです。しかし上手くいきません。王は敵軍に取り囲まれた時、城壁の破れから闇夜に紛れ、逃げようとしました。しかし敵軍に捕まり、目をえぐられ、連行されていく。神に向かわない安易な方策は解決にはならない。そもそもバビロン侵攻は神の審判なのに。それなのに見る目があっても見ず、聞く耳があっても聞こうとしない反逆の民よ。

歴史の話で片づけてはいけない。これは私たちの姿です。問題が起きた時に、あの人に頼ればいい、あそこに口を聞いてもらえばいいと人間的なその場しのぎの解決をしようとする弱さがあるのが私たちです。いいえ、それでは根本的解決にはならない。問題が起きるからには、そもそもなにか信仰的な原因があるのかもしれない。それなのに神の業を見ようとしない、神の声に耳を傾けようとしない。その鈍さを何とかするわけにはいきませんか。

このような混乱は結局、生きることの基本でもある食べ物の不足になって、あらわれるでしょう。戦乱による飢餓と食糧難。人々は心細さでいっぱいで、からだを震わせながらでしか物を食べることが出来なくなる。水を飲むコップを持つ手も震えて、水がこぼれてしまう。戦乱や大災害に限った話ではありません。人間は明日のことが心配になると、どれだけ豊かな食卓に着こうと、食事ものどを通らなくなることがあるではありませんか。

たまたま起きたことだと言うわけにはいかない。神に言わせればそういう事態に陥った原因ははっきりしています。人々が暴虐で地を満たしたのです。人を人とも思わないような暴力によって相手を傷つけ、ひどい言葉によって相手を貶め、人格を否定してきた。正義の神はその当然の報いを彼らの頭の上に返すのです。自分が相手にした罪にあまりにも鈍い私たち。いいえ、震えながら、主のゆるしにすがり、相手との和解の道を探る他ないのに。

しかし彼らはうそぶいています。み言葉は実現などしないと。み言葉の実現はまだまだ先の話だと。要はみ言葉を信頼していないのです。とんでもありません。神はすぐにでもみ言葉を速やかに実現なさいます。もしも主の言葉の約束がこれだけ待ってもなかなかならないというのであれば、原因は違うところに求めたほうがいい。むしろ待っておられるのは主です。私たちが悔い改め、み言葉に立ち返る日を忍耐して、日を伸ばしながら。

み言葉にはそうあるが、現実はそうはいかないと言う私たち。み言葉など理想論に過ぎないと平気で言い放つ私たち。そうやって、み言葉の権威を引き下げ、割引いて、生活は乱れていきます。誤解してはいけない。主は侮られる方ではありません。主の日はある日突然来ます。世の終わりも自分の人生の終わりも。そうなってから慌てても遅い。人生に必要なのは権威あるみ言葉による確かな基準。反逆を捨てて、いのちのみ言葉に聞くのは今です。

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