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ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

「油を注がれて」
自分の信仰について自信を失ってしまうことがあるものです。この時の教会がまさにそういう状態だったのです。もっとも無理もない事情はありました。今まで信仰の仲間だと思っていた親しい人たちが教会を離れていく痛みがあったのですから。そういう危機に、冷静でおれるはずがないのです。しかもこの人たちは、教会とは別の集団を形成し、これこそが最新の教えであって、高尚な哲学思想だから親切に教えてあげましょうとも吹き込むのです。

ヨハネはこの痛みと動揺の中にある教会に語り掛けています。大丈夫です。あなたがたは聖なる方から油を注がれているではありませんか。油とはなんでしょうか。旧約聖書の時代には王や祭司に油を注ぐ儀式が知られていました。しかし新約の時代にそのような儀式は行われていません。従ってあくまでもこれは象徴としての話なのです。ここでは油とは聖霊のことを指しているのです。神が教会に聖霊を注いでおられると言って励ましているのです。

考えてみると、人として生まれた主イエスが十字架にかかり救いのわざを成し遂げて下さった福音の恵みは、人間の力などで到底理解して受け入れられるものではありません。それなのにもしも自分が信仰が与えられているとするなら、自分の力であるはずがないのです。あくまでもこの恵みは聖霊の働きによって明らかにされて受け入れられるものなのです。私たちが福音を信じているなら、そこには聖霊の油が注がれた結果なのだと言えるでしょう。

この聖霊が教師になって下さって私たちを教え導くのです。教会とはそういう場なのです。今までわからなかったみ言葉が分かった覚えがあるでしょうか。それこそがまさに聖霊の働きなのです。聖霊が目を開いて下さったのです。従って、私たちにはこれこそが新しい教えだなどという手引きはまったく必要ないのです。いかに高尚な哲学思想であったとしてもそれも救いとは関係ないのです。どこかから何かを加えることなどいらないのです。

これからも聖霊は働き続けて、真理とはなんであるかを明らかにしてくださることでしょう。混迷の時代の中に生かされているとしても、聖霊が何が虚りであって真理ではないかを識別して導いて下さると言う約束が与えられています。これほど安心なことはないではありませんか。私たちがたとえ迷いやすい者であったとしても、聖霊が福音の真理をますます教えて、私たちの信仰の歩みを確かにして下さることでしょう。

もし、私たちの側に問題があるとするならば、福音の価値を知らなすぎることにあるのではないでしょうか。だから自信を喪失してしまうのです。他の何かが必要な気がしてしまうのです。決してそうではありません。福音の偉大さ、素晴らしさ、尊さを改めて知って頂きたいのです。そうすれば惑わされることはありません。これからもますます聖霊に頼って、聖霊なる神よ、福音の力を私たちに教えて下さいと祈ろうではありませんか。

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