地域コミュニティの必要性

地域コミュニティの希薄化や弱体化が叫ばれて久しい。田舎に行けばまだ「普請」があるという地域もあるのかと思うが、それはあくまで限定的で、多くの地域で自治会などの地域自治組織に加入していなという人が過半数を占めており、その比率は、年々、大きくなっていたりもする。都市部においては、希薄化や弱体化する以前に、そもそも地域コミュニティがないというところもあるだろう。

人口減少と少子高齢化の進展、それに伴う担い手や働き手の不足。そして、価値観の多様化に職住遠隔のライフスタイルの一般化。地域コミュニティの希薄化や弱体化は、様々な要因が絡み合って起こっているものだから、弱くなったからと言って、簡単に強化できるものでもない。とは言え、地域コミュニティがないと、機会や機能を失い、色々と厄介なことも発生する。今回は、「地域文化の喪失」と「共助機能の喪失」の2つの視点から、地域コミュニティの必要性について考えてみたい。

地域文化の喪失

自治会や子ども会などの組織が機能していないあるいは消滅したという地域も多いが、それによりこれまで地域で開催されてきた行事やイベントができなくなったいう事例は少なくない。農村歌舞伎のように、江戸時代から続くような伝統的な行事であっても、担い手の高齢化や減少から、その開催が危ぶまれ、地域文化の継承の危機に瀕しているケースは後を絶たないし、すでにそれが失われてしまったという事例も数知れない。

歴史ある地域文化は、その地域の人たちが代々、受け継いできた共有財産。地域の人たちが誇りに思い、愛着を持っている行事やイベントは、たとえユネスコに認定されていなくても、無形文化遺産に違いなく、そこで暮らす人たちのアイデンティティの一部と言える。それが失われるということは、単にその地域の人たちにとっての問題ではなく、文化の多様性を喪失するという意味で、日本にとっても、また人類にとっても大きな損失と言えるのではないだろうか。

地域の伝統的な行事は、多くの場合、そこに暮らす幅広い世代の人の協働のもとに成立するため、それ自体が地域の結束力を高める絶好の機会となっている。コミュニティデザインの第一人者である山崎亮さんは、コミュニティデザインを「人がつながるしくみをつくる」ことだと言っているが、地域の伝統的な行事やイベントはまさしく「人がつながるしくみ」であると言える。また、子どもから大人まで、それぞれが自分の役割を担うことで一つの物事を作りあげるので、世代間交流の機会としての側面もある。地域文化の継承が危ぶまれるということは、同時にこうした機会の喪失をも意味し、地域コミュニティの希薄化や弱体化に一層の拍車をかけることになる。


共助機能の喪失

また、地域コミュニティの希薄化や弱体化は、地域の共助機能の喪失にもつながる。共助機能の喪失は命にもかかわる問題だ。イギリスでは2018年に孤独担当大臣というポストが新設され話題となったが、日本でも孤独は大きな課題となっている。日本では孤独死が年間3万件以上もあると言われているが、地域の共助機能があれば、救えた命もあっただろう。

「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という言葉があるが、人とのつながりは資本であるとの見方がある。自宅で過ごすことの多い高齢者の場合、自分の暮らす地域に自分のことを気にかけくれる友人や知人、あるいは自分の居場所と思えるコミュニティがある場合とない場合では、生活の質(quality of life)にも大きな違いが生まれる。彼らの存在は交流機会や外出機会を生み出し、それは肉体的にも精神的にもポジティブな影響をもらしてくれる。また、日常的な買い物や通院、雪かきなどに困った場合にも、彼らのサポートを受けることができるし、もしもの場合にも、比較的早く事態に気付いてもらうことが期待できる。一方、彼らの存在がなければ、社会から孤立するリスクが高まり、最悪の場合、誰にも気づかれることなく、自宅でひっそりと命を引き取りることもあり得るのだ。

地域コミュニティによる共助機能は、特に災害発生時に大きな役割を果たす。高齢者や障害のある人、介護や介助が必要な人は災害が発生した時に、自力では避難ができないことが多い。一人暮らしの人も多いし、たとえ家族と一緒に暮らしていても、災害発生時に家族が家にいるとも限らないし、一緒に暮らしている人も高齢だったりするので、避難が必要になった場合には、地域の人の助けが必要になる。

もちろん、避難する必要のある人が自力で助けを求められれば良いのだけど、それすら難しいという人も少なくない。そのため、地域で支援等が必要な人がどこに住んでいるか、どんなサポートを必要としているのかを事前に把握しておく必要があるのだけど、「個人情報保護」の観点からその把握が難しかったりもする。もちろん、行政機関はそうした情報を把握しているものの、災害時に行政機関が緊急対応するのは現実的に不可能だ。つまり、災害時には「自助」「共助」が基本となるわけだが、それができないとなると、死に直結するリスクが高まってしまう。現に、東日本大震災では、在宅の障害者や寝たきりの高齢者の死亡率は、住民全体の死亡率の2倍もあったというから、災害時にいかに地域コミュニティによる共助機能が重要かが分かるだろう。


意識が変われば運命が変わる

地域コミュニティの崩壊によって、日本各地では実際に、文化が失われ、助かったかもしれない命が失われている。そして、状況は好転する気配もなく、悪化の一途をたどっている。地球環境問題や生物多様性の喪失の問題と同じく、もはや問題を先送りすることはできない「待ったなしの状況」と言えるだろう。冒頭にも書いたように、地域コミュニティの希薄化や弱体化は、様々な要因が絡み合って起こっているものだから、対策も容易ではない。とは言え、手をこまねいて状況が悪化し続けるのをただただ傍観するのではあまりに無策で無益だ。

かの野村監督がこんなことを言っている。

意識が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる

地域コミュニティの崩壊による「地域文化の喪失」と「共助機能の喪失」を防ぐことは、至難の業だ。ただ、果てしない道程であっても、野村監督が言うように、一人ひとりの意識が変わり、地域コミュニティの必要性を認識することができれば、運命を変えられるかもしれない。裏を返せば、地域コミュニティの崩壊による被害を抑えられるかどうかは、一人ひとりの意識にかかっていると言っていい。

まずは、隣近所にどんな人が住んでいるのかを把握するところからかもしれないが、地域の人とあいさつを交わしたり、地域にどんな団体がいて、どんな活動を行っているかなど、少しずつでも良いから自分の身の回りの動きに興味や関心を持つことが重要だと思う。もちろん、被害を0にするのは不可能だし、結果が出るのには時間がかかるが、いくばくかは被害を軽減することにつなげたり、喪失までの時間を遅らせることができるはず。千里の道も一歩から。


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