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「やめてもいい」は自己肯定感と密接にかかわるかも、という話。

私は色々なことを、ことごとくやめられない人間だった。習い事も、部活動も、会社も、いつもモヤモヤして「行きたくないな」と思っても続けてきた。しんどいな…と思いながらも、「やめます」と自分からは言いだせない。

しまいには、引っ越すとか、怪我をするとか、やむにやまれぬ事態が起きて、「すいません。私は続けたいのだけれど、どうしても続けられません」みたいな状況に陥らないだろか…とすら願い始める。

どうして自分がこんなにも「やめ下手」なのか、先日、ハッと理解する機会があった。

◆「嫌だったら、学校辞めていいよ」と言える保護者

友人とオンライン飲み会をしていた時の話。
友人のお子さんは変わった小学校に通っていたので、「○○ちゃんが行きたがったの?」と尋ねた。「○○は、その小学校に行きたい気持ちと、公立の小学校に行きたい気持ちが半々だねと言ってたんだよね」と教えてくれた。
公立に行くと保育園時代の友達が少なからずいるから公立でもいいかな、と思っている。でも学校自体は、その特殊な学校が自由でいいと感じたそうだ。

「そうなんだ、それで何て返したの?」と私が尋ねると、
「『んー、じゃあ、嫌だったらやめればいいから入ってみようか』と言ったんだよね」と言う。

私にとってはその言葉が衝撃的で…。
「学校をやめてもいいから、って言えるってスゴイね!」と返した。友人は不思議そうに、「そう? だって、やめても公立の小学校にはいつでも入れるしね」と言った。

理屈はわかる!

でも、私はこれまでギリギリになるまで辞めることができなかった!…そんな話をしていたら、少しずつ自分がなぜ「やめられない症」だったのかに気がついた。

◆「やめる自分はダメだ」幻想

私が色々なものをやめられないのは、「途中でやめる自分はなんてダメだ人間なんだ!」と思っていたからだ。もっというと、「たとえ苦境に立たされても頑張る自分でなければ価値がない」と思っていたんだと思う。
まるで、やめてしまったら自分ではなくなる、とでもいうように。

当然のことだけれども、習い事も、部活動も、会社も、やめたとしても私は私だ。価値が落ちるわけでも、死ぬわけでも、別人になるわけでもない。

それは脳ではわかっているけれど、心はわかっていなかった。たぶん。
だから、友達には「そんなところ、やめた方がいいよ」「嫌なのに続けているなんて、時間の無駄だよ」と言えるのだが、自分のこととなるとどんなにしんどくてもギリギリになるまでやめられないという病を発症し続けた。

「我慢して続けている自分でなければダメだ」という条件付けをしているという点で、ありのままの自分を認められていない。これはきっと、すべての土台となりうる自己肯定ができていないということだろう。

「嫌だったら、やめてもいいよ」
それはマイナスの声かけに見えて、案外すべてを丸ごと承認する言葉なのかもしれない。

◆やめてもいいから、はじめられる

「やめられない」病は多くの弊害を招くが、その大きな一つが、「やめるのが怖くてはじめられない」ことだ。「やめられない」と思うと、はじめることが怖くなる。

当然ながら、それは可能性を大幅に狭める生き方だ。

私は、なにかをはじめるときに、いつも「やめたくなったらどうしよう」と思っていた。はじめたくてはじめるはずなのに、やめるたくなったときを想像してしまう。それは、虚しいことだった。ひどく。

でも、答えは超ド級にシンプルで。
「やめたくなったら、やめればいい」のだ。

しなやかに「やめられる」人と「やめられない」自分との何が違うのか。その差に悩んだこともある。でも、比較したところで意味はなかった。「やめられる」人が何か大きな安心や後ろ盾があるわけではなかったからだ。

ここ数年で、少しずつ「やめられない」病は治っていったように思う。会社員をやめるという小さくない決断をして、それを肯定できるような状況になってきているからかもしれない。(…なっているというか、周りにしていただいている。)あと、ありのままを肯定できるようになったのかな。肯定なのか開き直りなのか図太くなったのか。そこもおもしろいギロンになるかしら…笑

そして、逆説的だが、「やめてもいい」と思えるようになったことで、どんどん「はじめられる」ようになった。

石の上にも3年とか。逃げちゃいけないとか。一通り経験しなきゃわからないとか。
それはたしかに一理あるのだけれど、でも、あなたに本当に必要なのはそうした言葉だろうか?
「やめちゃいけない」から「やめてもいいんだ」に転換できた時、誰のためでもない、自分のための人生を歩んでいけるのかもしれないと私は思っている。


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