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小説:見える人 3-3

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 部屋はだいぶ片づいてきた。大きなものはしかるべき場所に収まったし、小物はキッチンボウルにまとめておいた。あとは必要なものをそろえればいい。ただ、買いに行くとなると休日しかない。だから、平日の夜は細々と小物の整理をするしかなかった。

 ビールを飲みながら僕は整理にいそしんだ。こういう機会だから要るものを選別し、不要なものは捨ててしまおうと考えたのだ。しかし、そうしてると不思議な感覚をつかむことになった。《無いことの証明》とでもいうべき問題が浮かびあがってきたのだ。

 るものは在る。当然のことにそれはわかる。でも、失われてしまった可能性のあるものはよくわからない。探し出せないだけでどこかに存在してるかもしれないのだ。

 さらにいうと在ったはずだけど記憶に残ってない物というのもある。それらの不在を証明するのは困難だった。そういった存在があやふやな物たちは失われたのかもしれないし、はじめから無かったとも考えられる。

 実際にも整理の過程で「こんなの持ってたんだ」という発見があった。誰かにもらったけどそのままにしておいた物たち(たとえばオパールのまったネクタイピンなんかだ)は自分でもその存在があやふやだった。そういった見つけたことで存在を認識する物というのもある。それらはずっと部屋にあったにもかかわらず念頭に浮かばなかった物だ。

 記憶をたどり、僕は在ったはずの物たちを思い出そうとした。キッチンボウルに入っておらず棚にも残ってない、しかし、確かに在ったはずの物たち。それらはさぎさわもえが持っていったのかもしれないし、捨てていたのかもしれない。

 すべての持ち物をリストアップして、処分のときに二重線で消しこみを入れておけばよかった。そうしていれば《無いことの証明》も簡単だったはずだ――なんてふうに考えながらやっていたので整理には時間がかかった。長期戦になると覚悟して僕は日に一時間だけ作業した。こんめても下らない思いにわずらわされるだけだ。時間をかけてやればいい。僕にあたえられたばつは未来えいごうつづくようなものではないのだ。

 そんな感じにゆっくりではあるけれど僕の生活はかつてのペースを取り戻しつつあった。

 無駄な残業はせず、鷺沢萌子と出会う前とほぼ変わらないルーチンを組めるようになっていたのだ。変わった部分といえば自炊をしなくなったこと(できないというのがより正しい表現だけど)、小物の整理に一時間使うようになったことくらいだ。

 ただ、それだっていつかは終わる。僕はもうすこしであんいつな日々を取り戻せるはずだったのだ。しかし、運命は落ち着かせてくれなかった。

 七月最後の火曜日のことだった。会社を出ようとしていると走り寄ってくる影が目に入ってきた。ロビーは吹き抜けになっていて、そこここに大きな鉢植えが置いてある。その後ろに隠れていたのだろう、自動ドアがひらく直前まで気づけなかった。

「あっ、あっ、あの、」

 篠崎カミラは白いブラウスにこれといって特徴のない黒スカート、細いフレームの銀縁眼鏡といったいつもの格好で立ちふさがった。胸に紺と白のクラッチバッグを押しあてていて、腕はそのためにクロスしている。

「なに?」

 そうとだけ言い、僕はそのまま出ていった。

「あっ、あの、ちょっ、ちょっ、ちょっとだけ、お、お、お話させて、く、ください。こ、こ、これは、じゅ、重要なことなんです。あ、あ、あなたにとって、と、と、とても、じゅ、重要なことなんです」

 立ちどまると彼女は口を閉じた。頬には髪がかかり、首は前へ伸びている。猫背になってるのだ。

「宗教の勧誘とかでしょ? そういうの必要ないんだ。自分のことは自分で決められる。なにかにすがりたいとか思わないんだよ。だから、君の言う『重要なこと』ってのにも興味がない」

「か、か、勧誘なんかじゃ、な、ないんです」

「じゃあ、なに?」

「あっ、あっ、あの、こ、こ、これは、ひ、ひ、非常に、び、微妙な、も、問題でして、だ、だから、み、み、道端で、いっ、言うような、こ、ことでは、な、なく。で、で、ですから、」

 僕は溜息をついた。ワンセンテンスの文章を言うのにどれだけ時間をかけてるんだよ。しかも、まだ前段しか言えてないじゃないか。こんなのにかまってる時間はない。これから帰ってキッチンボウルに向かわなければならないのだ。

「悪いけど、そんなにひまじゃないんだ。用事があるならすっと言ってくれないか?」

「すっ、すっ、すみません! あっ、あっ、あの、わ、私、」

「で、なに? 勧誘じゃないならなんなの?」

 彼女は口をすぼませた。どう切り出したらきちんと聴くか考えているのだろう。瞳もあがってる。

「あっ、あっ、あの、ご、ご、合コンに、い、い、行かれる、つ、つもりですか?」

「はあ?」

 大きな声を出し、僕は口を押さえた。頭は忙しなく動いてる。――なんでそんなことを知ってる? いや、初めて見かけたとき小林がわめいてたな。それで知ってるんだ。僕はそう考えるようにした。しかし、彼女はこう言ってきた。

「ぜ、ぜ、前回の、ご、合コンで、あ、あ、あなたは、あ、ある、じょ、女性と、しっ、しっ、知りあったはずです。そ、そ、その、じょ、女性とは、し、し、しばらく、いっ、いっ、一緒に、く、暮らして、ま、ましたよね。で、で、でも、」

 僕は腕をつかんだ。自然と手が伸びていたのだ。彼女はあごを引き、首まで赤くしてる。

「あっ、あっ、あの、そっ、そっ、その、」

「おい、なんでそんなこと知ってるんだよ」

 そこまで言って、僕は肩をすくめた。見られてるのに気づいたのだ。よくとられてもげん、悪くするとDV的な感じに思われるかもしれない。

 首を振りつつ歩き、僕はほりばたの柵に腰をおろした。歩道から内側にへこんでる場所だ。たまにランナーが横切るだけで人通りはなかった。

「それで、どうしてそんなことを知ってる? ――いや、さっきのつづきを聴かせてくれ。前回の合コンで僕はある女性と会い、しばらく一緒に暮らした。その後で、でもって言ったよな。でもなんだっていうんだ?」

「そ、そ、その女性は、い、い、いなくなった。そ、そ、そうですよね? あ、あ、あなたは、い、い、幾つかの、た、大切なものを、な、な、なくしてしまった。も、も、持ち逃げ、さ、されたんです」

 僕は髪をきまわした。意味がわからない。どうして誰にも言ってないことを知ってる? ――ん? あの女と繋がってるのか?

「い、いえ、わ、わ、私と、そ、その、じょ、女性とに、か、か、関わりは、な、ないですよ」

「どうして考えてることまでわかる? 君はいったい何者なんだ?」

「わ、私にも、よ、よ、よくわからないんです。で、で、でも、わ、わかってることも、あ、あります。わ、わ、私は、む、昔から、い、い、いろんなものが、みっ、見えるんです。ほ、ほ、他の人には、みっ、見えない、も、ものが、みっ、みっ、見えるんです」

「それで僕に起こったことも、考えてることも見えたっていうのか?」

「し、し、し、信じて、い、い、いただけます?」

「いや、信じられるわけがない」

「そ、そう、そうですか」

 彼女はうつむいてる。風が吹き、柳の枝を揺らした。その奥を鮮やかなウェアのランナーが走っていった。

「ただ、もし本当に君がそういったのを見たってなら、他になにかないのか? 僕のまわりで起こったことで他に見えたものは?」

 口は半月状にゆるんだ。僕はその顔に起こる変化を見つづけていた。そのとき感じた心の動きは自分でも不思議なものだった。

「あっ、あっ、あります。が、街灯が、と、と、突然、き、消えましたよね? そ、それは、つ、ついこのあいだ、あっ、あっ、あったことです。で、でも、それ以前にもあった。さっ、さっき言った、じょ、女性と、で、出会う前にも、あっ、あったはずです」

「その通りだ。どうしてそんなことまでわかるんだ?」

「わ、私にも、よ、よ、よくわからないんです。こ、こ、こんなに、ひ、ひとりの人のことが、み、み、見えるなんて、い、今までなかったことですので。で、で、でも、あ、あ、あなたのことは、みょ、妙にはっきり、わ、わかるんです。だ、だ、だから、ど、どうしても、おっ、おっ、お伝えしなくてはと、お、思って」

 腕を組み、僕はしばらく考えた。それから静めた声で訊いてみた。

「初めて会ったとき左肩を、そのちょっと上辺りを見てたよね? もしかして、なにかいる?」

「え、ええ。い、い、います。す、すごいのが。そ、そ、それが、あっ、あっ、あなたを、わ、わ、悪い方へ、つ、連れて行こうと、し、し、してるんです」

「じゃ、街灯を消したのもそいつってわけか?」

「い、い、いえ、そ、それは違います。が、街灯が消えるのは、け、警告です。あ、あなたを、み、見守ってる、しゅ、守護霊様が、そ、そ、そうやって、け、警告を、し、してくださって、い、いるんです」

 守護霊様ね。そう思いつつ僕は左肩を見た。ここに「すごいの」がいるってわけか。そいつが悪い方へ連れて行こうとしてる?

「しっ、信じて、く、く、くださいます?」

「いや、やっぱり信じられない。だって、そうだろ? 君には見えることがある。僕を含めた大多数の人に見えないものが見える。そういうことだよな? 実際、誰にも言ってないことを君は言い当てた。ただな、理解できないんだよ。肩になにかいるってのも信じられない。僕には見えないんだからな」

「で、でも、か、か、感じることは、あ、あるはずです。そ、そ、その感じることに、し、し、従っていれば、わ、わ、悪い方へ、み、み、導かれることも、な、な、なくなるんです。し、し、信じてください。わ、わ、私は、あ、あなたが、し、し、心配なだけなんです」

 彼女はにじり寄ってきた。興奮してるのだろう、顔は真っ赤になっている。僕はった。

「わかった。わかったから。――いや、何度も言って悪いけど全面的に信じてるわけじゃない。ただ、心配してくれてるのはわかった。で、つまりはこの後も悪いことが起こるってことか?」

「そ、そ、そうなんです」

「具体的にわかるのか? なにが起こるかって」

「は、はっきりとは、わ、わ、わからないんです。た、ただ、あ、あ、あなたに、よ、よ、よくないことが、お、お、起こるのが、わ、わかるだけで。だ、だ、だけど、そ、それは前のときよりも、ず、ず、ずっとよくない、こ、ことなんです。も、もっと、ず、ずっとよくないこと」

 今の状況だってあまりかんばしからぬものだけどね。そう思ったとき妙なことが起こった。背後から肩をつかまれた感覚があったのだ。

 は? と思った瞬間にそれ●●は引っ張ってきた。僕は腕を伸ばし、脚をぎゅっと閉じた。そうなると腕は彼女の背中へまわり、脚もふくらはぎを挟むことになる。つまるところ僕は抱きつくことによって難を逃れたわけだ。

「ほら、」

 ささやき声がした。――いや、ほらって。

「あ、危ないでしょう? こ、こ、こうやって、わ、悪い霊は、あ、あなたを、く、く、苦しめようと、し、し、してるんです。だ、だから、ご、合コンに、い、い、行くのは、や、やめた方が、い、いいですよ。そ、そ、それが、わ、私の、お、お、お伝えしたかった、こ、こ、ことなんです」

 吐息は耳にかかってる。非常に女性らしい香りを嗅ぐことにもなった。鷺沢萌子がいなくなってから久しぶりに嗅ぐ香りだ。僕は身体を押し出した。堀をうかがうとそこには誰もいない。

「もう帰る」

 首を振りながら僕は歩きだした。なににたいしてかわからないものの腹がたっていた。まったく好みでないどころかいらいらさせられる女に抱きついてしまった腹立ちなのかもしれない。あるいは理解できないことにたいしてだった可能性もある。

 理解できなくとも存在してるなにかへの怖れが激しく混乱させたのだ。彼女の顔は晴れやかにみえた。頬は薄く染まってるし、口角もあがってる。

「なんでそんな顔してる?」

「お、お、お伝え、し、したかったことを、い、い、言えたので」

「じゃ、こっちにも言いたいことがある。君に言いたかったことだ。姿勢は良くしてた方がいい。背が高いのを気にしてるんだろ? だけど、どんなにつくろうとしたってそんなのせるわけがない。だったら堂々としてた方がいい。あと、髪はまとめた方がいいね。すくなくとも頬にかかってて顔が隠れてるってのはよくない。眼鏡も換えるかコンタクトにした方がいいね。カフェで会ったときは眼鏡してなかったろ? その方が断然よかった。化粧もちゃんとした方がいいな。それじゃ薄すぎるよ。もうちょっと濃くていい。いいか? もっと自信を持つんだ。声も大きくしてね。そうしてればどんなブスだってそれなりにみえる。うつむいて顔を隠してたら美人だってブスにみえるんだ。わかる?」

「はっ、はい!」

 僕はもちろん嫌味を言ったつもりだ。しかし、あわてたようにヘアゴムを取り出してるのを見て自信がなくなってきた。

「あっ、あっ、あの、こっ、こっ、これで、よ、よ、よろしいでしょうか?」

「え? ああ、そうだね」

「あっ、ありがとう、ご、ございます!」

 風が巻き起こるくらいの勢いで彼女は頭を下げた。そのつむじを見ながら僕はそっと溜息をついた。

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