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愛さえあれば安心な世界に生まれたから

彼と別れた翌日、私は普段通りの時刻に出社した。彼の布団から。

恋人と別れようが、体調が悪かろうが、毎日やってくるなにかしらの締め切りは、ひとつも待ってくれない。
仕事の波は高く荒く、少しもその勢いを緩めない。1日休めば、次の日の私はあっという間にのまれてしまう。有休は、実質無意味だ。

愛の話をする。

ずっと不安だった。私は彼と付き合っていていいのかと。

彼の「愛してる」に呼応する時、脳内にはクールなもうひとりの私がいて、いつも「それはほんとう?」と問いかけてきた。彼女は決まって、彼の肩越しに見える天井に薄ぼんやりと浮かんでおり、全てを知っているかのような顔つきで私を見下ろしている。
見つめあっていると段々自信が萎んでいき、彼の「愛してる」にも、彼女の「ほんとう?」にも、小さく頷くことしかできなくなるのだった。
これは、相手が彼だからじゃない。私が、“愛”自体をよく理解できなかったからである。

しかし、かなしいかな、恋人という関係は、愛ありきのものらしい。

ずうっと昔、「大事な存在だけど、愛しているかは不明瞭だ」と伝えたところ、「嫌いなら嫌いと言ってくれ」と突っぱねられた経験がある。友人に相談すると、みんな「そういう気持ちなら別れて正解」と言った。
別に嫌いではなかった。むしろ人として好きであり、大事だった。ただこれを愛と言うのかしっくりこなかっただけなのだが、その“不確かさ”は、恋人との間ではあっては(もしくは、あったとしても言っては)いけないもののようだった。

ああそうか。恋仲の神は愛であって、代替となるものは無いのだ。
「愛してる」には「愛してる」と、同意を示せなくては、その関係は成立しない。「ありがとう」や「うん」などの、肯定ではダメなのだ。
恋仲とは、ひとたび「愛って?」なんて尋ねればガラガラと崩れてしまう、柔軟性のないものだと、その時知った。

私にはそれが苦痛だった。

「彼は愛してくれるのに」
私が愛をわからない限り、この関係はどこまで行ってもまがいもののような気がして、申し訳なかった。

“家族”や“夫婦”、“親子”に“友”、はたまた“親”や“偏”など。
愛には、さまざまな冠が似合う。きっとそれは、愛がいつでも・どこにでも存在できるようにだと思う。
愛とは、人間や生活のデフォルトとして備わっているもの。なければ「寂しい」「虚しい」と言われてしまうくらいには、重要なもの。

私も、愛が重要だってことはなんとなくわかる。だが、愛とそれ以外の感情の判別がつかないので、自分なりにすら愛を定義できない。
そういう私は、人と付き合ってはいけないのだろうか。しかし付き合わずしてどう愛を知るのか。
数年前からずっと、このループにハマって抜け出せずにいる。

無性に腹が立ってきた。
愛の所在を証明できなければ成り立たない関係があるなら、せめて、愛はもっと広義でいてほしい。

きみの夢をみること。寒い朝、建付の悪いあの家を思い出して、風邪をひいていないか心配になること。
余計な傷をつけないよう、何度もひとりで別れ話を暗唱しては泣いたこと。
振っておいて、助手席で「まだ家に着かないでほしい」と願ったこと。
きみにだけは受け止めてほしかったのにって虚無感と、きみといる時の自分が大好きだったってこと。その両方を思い出して、かなしくなってしまうこと。

一般論から抽出した不確かなものを、無理やり愛だと断定するのではなくて。
こういうささやかな、だけど確かなことを寄せ集めて、愛って言えないだろうか。

ひとまずはそれが愛ってことでいいと、自分の中で割り切れたら、楽になるのに。
わがままを言えば、相手が「愛として受け取るよ」と言ってくれたなら、やっと心を休ませられるのに。

私は愛を無理やり見い出すのではなくて、自分の確かな感情を持って相手を大事にしたいし、されたい。
こういう誠実さは、愛と言い換えられないのかなぁ。

去年いっしょにみた桜

愛さえあれば安心な世界に生まれたから、愛がわからない私はずっと不安。

なんて。
別れて、つらつら書いているうちに春が来ていた。気づけば3月。もうじき、桜が咲く。

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