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【短編SF小説】ニュー・シネマ・インフェルノ

 多分僕は、映画をあまり愛していないのだと思う。
 学校では映画研究部に所属し、月に二、三本は必ずロードショーを観ていた。いや、そもそもそのペース自体、あまり熱心な映画ファンとは言えないだろう。部員仲間には、週に一本どころか、毎日のように映画館に通いつめる者もいた。一体、どこからそんな金を捻出していたのやら…
 そう、例え食うものを食わずとも、映画を観るための金は捻り出す。
 それが真のシネフィルというものだ。異論はない。だが、自分は映画より三度三度の飯を優先した。
 だから僕は、映画をあまり愛していないのだと思う。

 映画というのは、とにかく観た本数が自慢になる。
 まあ、読書も読んだ本の数が自慢になると言えばなるのだろうが、より短い時間で数が稼げるのは映画の方だ。
 だが、いつの頃からかその数の稼ぎ方…自慢する本数の増え方が凄まじい勢いで伸びていた。

 ネットとストリーミング技術によって、自分の部屋にいながら映画を選び、鑑賞することが出来るようになって、100年も経っていない。だが、人々の映画に向き合う姿勢は次第に横着になっていき、2020年代には「ファスト映画」なる言葉が生まれている。
 ダイジェスト版を字幕やナレーションで補完したものを観たり、通常より早いスピードで映画を再生して、とにかく観た本数を稼ぐというのが当時のやり方だった。これは本数を伸ばすだけで、製作者の意図がないがしろにされていた。
 だが、現代…2084年においては、製作者や監督の芸術的意図を損なうことなく、わずかな時間で映画を完全に楽しむ手段がある。
 それが〈コードシネマ〉だ。

「今週はもう、200本観たよ」
 速水はそう言ってグランデのカップに口をつけた。
 営業で外回りをしている途中で偶然再会し、ちょっと話そうぜと誘われて入ったカフェである。
 映研時代から劇場通いやストリーミング視聴の回数が自慢だった彼は、テクノロジーの力を借りてその自慢をさらにレベルアップさせていた。
「七、八十年前に、人喰いザメの映画がやたらたくさん作られててさ。全部『なんとかジョーズ』ってタイトルでとんでもない設定のB級作品ばかりなんだけど、全部観ちゃったね」
「なんだよそりゃ」
 速水は笑いながら〈メタノート〉…昔でいうタブレット端末だ…を広げると、映画ファンコミュニティのサイトを見せた。
「ここにレビューを書いてる。とにかく更新が早いからよく読まれてるんだ。アフィリエイトで結構稼げるもんだよ」
「でも…やっぱりコードシネマなんだろ?」
 僕の言葉に速水が眉をひそめる。
「なんだ?もしかして、コードシネマがただの早送り映画だと思ってるのか?大昔のファスト映画みたいな」
「そうじゃないけどさ…」
「一度試してみりゃいいんだよ。やっぱりあれか?薬の服用に抵抗があるとか?」
「うーん…」
 彼のいう通り、コードシネマへの抵抗感の一因がそこにあるのは確かだった。
「掛け値なしに言ってやる。〈ムビオラ〉には副作用なんか一切ないよ。これだけのヘビーユーザーである俺が言うんだから、間違いないだろ」
「そうだろうけどさ…」
「それにな。コードシネマには、スクリーンやモニターで観るより遥かに実体験に近いリアルさがあるんだ」
「6Dみたいな?」
 6D映画は劇場体験型としては最新の規格だった。さまざまな設備を駆使してかなり高次元で五感に訴えて来る効果があるのだが…
「違う!ぜんぜん違う!昔の立体映画から6Dまで、劇場体験型映画の仕掛けは所詮まやかしだ。コードシネマはそうじゃないんだよ」
「具体的に、何が違うんだ?」
 速水は視線を落として、ちょっと考え込んだ。明かしたくない秘密を明かすべきか、迷っているような様子だった。
「言ってみれば…時間感覚の違いだな…」
「時間感覚?」
「そう…映画の中の人物や出来事と、同じ時間を共有しているっていう感覚が、他のメディアで観た時とぜんぜん違うんだよ。こればっかりは、体験しないことにはわからんだろうな…いや、体験してもわからないやつにはわからんだろう。君はそうじゃないと思うが…既存のスタイルの映画をたくさん見込んでいるからこそ、その違いが見えてくる…というか、な」
「ふうん…」
 速水の言っていることは今一つ掴み切れなかったが、僕はコードシネマに対する興味がかつてなく大きく膨らんでいるのを感じた。
「じゃあ…試してみるか。その違いを感じようと思ったら、どんな映画がいいかな?」
「前からよく知ってて、思い入れのある映画がいいと思うよ。『ブルー・ヴォイジャー』なんてどうだ?」
 『ブルー・ヴォイジャー』は、僕らの学生時代にカルト的な人気を誇ったSF映画だった。僕は社会学科で卒業論文のテーマにもしたくらいだ。
「いいね。観てみるよ」
「実は俺も、『ブルー・ヴォイジャー』をコードシネマで何度も観返してるんだ。なんていうか…あれを観てると故郷に帰ったような感覚を覚えるんだな…そう、あの映画に中に帰って行くんだ…」
 僕は調子を合わせて、わかるわかるというようにうなずいて見せた。
 だが、その速水の言葉が僕の考えているよりはるかに深い意味だったとは、後になって知ることになるのだ。
「ところで、絵美ちゃん元気?」
 僕は、学生時代の同級生で彼と結婚した中原絵美…今は速水絵美の話に切り替えた。
「ああ、元気だよ」
 速水は、どこか遠いところを見るような目をしながら、全く熱のない声で答えた。

 そんなこともあり、僕はついにコードシネマに手を出すことにした。
 コンテンツ自体は、普通に動画共有サイトにある。速水がすすめてくれた『ブルー・ヴォイジャー』も、メタノートにストリームしての視聴が可能だ。
 問題はムビオラだった。この薬を服用することで視聴者の時間感覚は拡張し、わずか5分で2時間の映画を鑑賞することができる。これを飲まずに再生しても、画面に見えるのは全く意味のない白と黒の細かいブロック模様の流れ…すなわちコードなのだ。
 ネットショップから取り寄せたムビオラを手にして、僕は少しの間逡巡した。副作用はないというが、今まで経験したことのない時間の流れとはどんなものかという不安がぬぐい難かったのだ。
 だが意を決して瓶の蓋を開けると、説明書で指定された通りの数だけタブレットを取り出し、コーヒーで流し込んだ。
 説明書によれば、そのまま10分ほど待ってからコンテンツを再生せよということだった。
 その10分の間、特に変わったことは何も起きなかった。
 時計の秒針は普通の速さで動いているし、窓の外からかすかに聞こえる鳥の声も聞き慣れたものだ。
 念のため13分ほど経過してから、僕は個人装着型のディスプレイ〈ヴィスタグラス〉をかけ、音声でメタノートに再生を指示した。
「あれ?」
 はじめに映し出されたのは、薬を服用せずに再生したのと同じ、白と黒のコード画面だった。
 薬が効いてないのかな?
 そう思った一瞬後、制作会社のロゴマークが現れ、本編が始まった。
「いい画質だな」
 32Kの高解像度で映し出された未来都市の大俯瞰を見つめながら、僕は呟いた。
 「ブルー・ヴォイジャー」は、宇宙植民地を舞台に入植者と人造人間の戦いを描いたSF映画だ。その戦いの中で、入植者側は次第に人間性を失い、逆に人造人間たちの方が人間性を獲得していく。最後は驚くべき事実が明かされ、SF映画史上に残ると言われる結末につながってゆく。
 映画館やネットで何度となく観返して来た作品だが、久しぶりの鑑賞でやっぱり名作であるという思いを新たにした。
 本編が終わり、クソ真面目にエンドロールまで長々と見切ってから、僕はヴィスタグラスを外して時計を見た。
「!」
 果たして、時間は再生を開始してから4分58秒しか経っていなかった。

 コードシネマの凄さはわかった。
 だが速水が言っていた、映画の中の時間に没入する感覚には至っていない気がした。それはむしろ、安心につながった。僕は、ハマりすぎないように気をつけながら、コードシネマと付き合うことにした。
 つまり、やたらと鑑賞本数を増やすのではなく、いつものペースであくまでも一本を鑑賞する時間の節約という目的で使うことにしたのだ。
 速水が聞いたら、慎重すぎると言ってまた笑うだろうが、1週間に200本も観るというスタイルは、どうしても自分には馴染めなかったのだ。
 それは、正解だった。

 やがてコードシネマをめぐり、おかしなニュースが聞かれるようになった。
 きっかけは、ある少年が銀行の店内で突然暴れ出し、強盗のような真似事をして逮捕されたという事件だった。
 そう、真似事。
 おかしなことに、少年は銃を撃つようなふりをしてはいたが、行員たちに何も要求せず、ただ暴れていただけだったという。最後には警備員に取り押さえられ意識を失ったが、その直前にこう言った。
「死を乗り越えた者は皆…イカれちまう」
 これは、とある古いアクション映画のセリフそのままだった。調べてみると、少年の店内での行動はその映画に描かれた銀行強盗のシーンでの登場人物の行動そのものだったという。
 その後、様々な場所で突然映画に描かれたシーンを再現するかのような、突飛な行動を起こす人々が現れた。
 彼らに共通していたのは、皆コードシネマの熱烈な愛好者だったということだった。ニュースでは神経科の医師が、ムビオラという薬に映画と現実の区別をつかなくする副作用があるのではという疑問を呈していた。
 だが、事態はそこから次の一層謎めいた段階に移行していった。
 コードシネマの愛好者たちが、次々と謎の失踪を遂げていったのだ。

 速水の妻、絵美から連絡が入ったのはそんな事件が続いている最中のことだった。
 絵美とは、速水との結婚式以来会っていなかったが、SNSではつながっていた。その彼女から、メッセージではなくいきなり音声通話がかかって来たのだった。
「突然ごめんなさい。うちの旦那の居所、ご存知ないかしら?」
「え?なんでだい?速水のやつ、家出でもしたの?」
 絵美はちょっとだけ笑った。まだそれほど、差し迫った感じはしない。
「そうじゃないと思うんだけど…最近、なんかおかしいのよ。唐突に家を空けたかと思うと、唐突に帰って来て…どこで何をしていたのか聞いても、よく覚えてないって言うのよ」
「ふうん…」
「それで、何日か前にあなたと偶然会って、映画の話をしたって言ってたから…また、映研時代みたいに一緒に映画館に行ってるのかなと思って」
「いや、僕もあいつとはそれきり会ってないよ。他に心当たりはないの?」
「う…ん…なんか変なことを口走ってたわ…虹が見えたとかなんとか…」
「…ステラゲートの虹が見えた?」
「そうそう、そんな感じのこと」
「わかった…とにかく、僕も気を付けておくよ。ひょっとしたら連絡があるかもしれないし」
「ごめんなさいね。面倒かけて…」

「ステラゲートの虹が見えた」…
 それは、『ブルー・ヴォイジャー』のクライマックスシーンに出てくる有名なセリフだった。
 主人公と敵対するキャラクターが死の間際に発する言葉だ。その人物を演じたサイ・カーニーという俳優は『ブルー・ヴォイジャー』でカリスマ的な人気を博し、僕も速水も大好きな役者だった。僕は速水が最近の事件にならい、映画の登場人物になりきって問題を起こすのではないか、と心配になってきた。
 なりきって…
 そうなのだろうか?
 もしかしたら、一連の事件を起こした連中は、映画の登場人物になりきっていた、と言うより彼らに乗っ取られた…のでは?というおかしな思いつきが心中に浮かび上がった。

 次の休日、僕は先日速水と出会った街へ再び向かった。
 在来リニアの走るレールの上にかかった橋の上。あの時は、ここではち合わせしたのだったが…
 と、そこには速水ではなく黒いコートに身を包んだ長身の男がいた。
「!」
 サイ・カーニー?!
 それは、映画『ブルー・ヴォイジャー』から抜け出て来たような男の姿だった。だが、よく見ると似ても似つかないはずの彼だった。
「速水!」
 速水は僕を見ると、ポケットに手を突っ込みゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「紫色の空に、真っ赤な蝶の群れが飛ぶ…見たことがあるか?それはこの世の終わりのサインだ…」
 サイ・カーニーのセリフを呟きながら歩く速水。
 僕は、その『ブルー・ヴォイジャー』のシーンを思い出しながら、カーニーとは全く似ていない速水が、忠実に彼の演技を再現している様子に薄寒い思いを感じた。
「速水…」
 僕の呼びかけに速水は、浮かべていた不敵な笑みを少しずつおさめ、夢から醒めたような表情を見せた。
「また…だ…」
「また…って、何が?絵美ちゃんが心配してたぞ。家に帰った方がいい」
 僕は速水に歩み寄ると、映画の衣装そっくりの黒いコートの上から彼の肩に手をかけた。
 その体は震えていた。
「俺の時間が…映画の時間に重なるんだ…いつの間にか、入れ替わってるんだ…」
 意味のわからない言葉を呟く、速水の顔は真っ青だった。
 僕は本気で心配になってきたが、なるべく深刻さを感じさせないように、声をかけた。
「のめり込みすぎじゃないのか?コスプレまでして…」
「こんな服…買った覚えないんだ。自分でも知らないうちに、映画の中にいるんだ…」
「衣装をつけたって、映画の中に入れるってもんじゃないだろう」
 速水は顔を上げると、僕の目を見て尋ねた。
「コードシネマ…試してみたか?『ブルー・ヴォイジャー』を観たか?」
「え?あ、ああ…他のも何本か観たよ」
「その後、夢を見てないか?映画の登場人物になって、映画の中で生きているような夢を見なかったか?」
「?…いや、そういう夢は見ていない。なんでだ?」
「そうか…まだ、そこまでいってないということか…」
 速水は目を伏せると、ふっと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「君は昔からそうだったな。映画好きだったかもしれないが、他の連中と違ってどこか醒めてて…熱心に観まくろうとはしなかったっけ…」
 人に心配させておいて、何を言っているのか。
 だが僕は、そんなことで彼を責める気にはなれなかった。
「とにかく、帰ろうぜ。嫁さんに気苦労をかけるなよ」
「ああ…」

 速水を家まで送り届け、帰宅した僕はコードシネマについてもっとよく調べてみた。特に気になったのは、視聴者の主観的な時間を拡張する薬〈ムビオラ〉のことだった。速水が口走った、自分の時間と映画の時間が入れ替わっているという言葉の謎がそこにある気がしたからだ。
 この薬は、アメリカのマクラレン製薬という会社が開発したものだった。開発責任者は、なぜか化学者ではなく量子物理学の権威であるエド・B・パパサナシュー博士という人物だ。
 マクラレンのプレスリリースや、裏付けとなる専門的な文献を読み漁ってみると、この薬はどうやら化学と量子物理学…特に時間や重力を扱う分野…の垣根を超えた画期的な製品ということだった。
 専門的な知識不足のせいで詳しくは分からなかったが、パパサナシュー博士のインタビュー動画に、とても興味深い言葉があった。

「たとえば皆さんは夢を見ますね?夢を見ている睡眠中、自分の主観的な時間の速さは起きている時とあまり変わらないと思いますが、実際の時間の流れはどうでしょう?わずかな時間しか経っていないと思っていたのに、実はとても長く眠っていた…あるいはその逆だった、というような経験があるのではないでしょうか。
 時間というものは、この宇宙で一律に同じ速さで流れているものではありません。人間の意識の中と外でも同じです。それは単なる錯覚ではなく、時間というものが、人間が知覚してはじめて成立するものだからなのです。つまり、人間の数だけ時間の流れも存在するのです。
 私たちは最新の研究成果によって、ハイウエイの車線のようにバラバラに進んでいる時間の流れを把握し、その間を行き来できる方法を見つけました。ムビオラはその手段の一つなのです」

 人の数だけある、時間の流れ…
 だとしたら、映画の中と外の時間の流れというものも、両立しているのだろうか…
 そして、一本一本の映画の中で流れている時間も、観客の時間と同じく確固たる現実として存在しているとしたら…

 次の日、僕はもう一度、コードシネマで『ブルー・ヴォイジャー』を観ることにした。とにかく、速水が経験したことが何なのか、少しでも知っておきたくなったのだ。
 何度も見たタイトル…何度も見た導入部…そして物語…
 やがて、サイ・カーニー演じる植民地の保安局員が登場するシーンで、僕は初めて違和感を覚えた。
「…?」
 昨日、速水の姿がカーニーに見えたのとは逆に、カーニーの姿が速水に見えたのだ。だがそのイメージは不安定で、時にカーニーに戻り、時に速水そのものに見えたりした。
 見慣れた映画の中に、いるはずのない現実世界の人物…
 これが、速水の言っていた彼の時間と映画の時間が入れ替わるということなのだろうか…
 いや、今この映画を観ている自分自身の時間の問題なのでは…

 その時、いきなり画面が全て白と黒のコードに切り替わった。
 ムビオラが効果を失くした?
 だが、そうではないことをヘッドセットから響く呼び出し音が教えた。通話がかかってきたのだ。
 相手は絵美だった。先日とは違って、切羽詰まったような狼狽ぶりだ。
「テレビ見て!あの人が…あんなところに…!どうしよう!」
 僕はネット配信のテレビチャンネルを切り替えて、ニュース速報の実況中継を見つけた。
 そこに映っていたのは速水の姿だった。
 そぼ降る雨の中、黒いコートを着て高いビルの屋上の端に立ち尽くし、街を見下ろす速水…
「現在、午後6時です。今から30分前、男性はこのビルの屋上にいるところを発見されました。目的はわかりませんが、危険な状況であったため、警察が急行しドローンを使ってビルの中に戻るよう説得を続けていますが…」
 中継するリポーターの声と、絵美の「どうしよう、どうしよう」という声がないまぜとなって響く。
 僕はとにかく現場に急行すると言って絵美との通話を切ると、ビスタグラスをかけたまま部屋を飛び出した。テレビ画面は視界の隅で表示させ、何かあったらすぐわかるようにしておいた。

 現場となったビルの下にたどり着くと、あたりは黒山の人だかりだった。
 真下からでは屋上の様子はよくわからない。ビルの入り口は、すでに警察によって封鎖されていた。
 どうやって速水の様子を確かめたらいいものやら…
 考えあぐねていると、テレビの実況が状況の変化を伝えた。
「男性の姿が消えました!ビルの中に入ったのでしょうか?」
 すぐ、そうでないことは明らかになった。
 屋上に現れた警察官たちが、フラッシュライトをかざしながら速水の姿を探している様子が映し出されたのだ。ビルの中に入ったとしたら、彼らに捕まったはずだ。
 一体どこに…
 僕は出し抜けに、この状況が『ブルー・ヴォイジャー』のクライマックスに似ていることに気づいた。
 主人公とサイ・カーニーはビルの屋上で対決し、その最中に屋上から屋上へと飛び移ったりしているのだ。だとしたら…
 人混みから抜け出した僕は、速水の現れたビルの周りを見て周り、飛び移れそうなくらい近接した位置に建つ裏手のビルに近づいた。非常階段に続く柵を乗り越え、不法侵入も構わず屋上に向かう。
 息を切らして最上階の踊り場に辿り着き、もうひとつ柵を乗り越えて雨の屋上に入り込んだ。
 果たして速水はそこにいた。
 あたりを照らすネオンサインの光と、それを拡散する雨の中で、速水は両手を広げて僕の方を見てつぶやいた。
「虹だ…」
 まずい…これは『ブルー・ヴォイジャー』のラストシーンそのままだ。
 あの映画ではこの後、サイ・カーニーはビルの屋上から…
「虹の向こうへ行くんだ…俺は…」
「速水、やめろ。戻って来い」
 僕の声に、速水はサイ・カーニーの顔から彼自身の顔を取り戻してよろよろとこちらへ歩いて来た。その濡れた口元には笑みが浮かんでいる。
「やったぞ…ついに、『ブルー・ヴォイジャー』の時間を手に入れた。もう戻る必要はないんだ…」
 速水が何を言っているのかわからなかったが、彼の精神状態が普通でないのは確かだった。僕は噛んでふくめるような口調で、彼に話しかけた。
「だめだ…戻ってこなきゃいけないよ。絵美ちゃんが待ってるぞ。映画のことなんか忘れて…」
「忘れろ?無理言うな。俺はもう、映画そのものになってしまったんだ!」
「気のせいだよ。薬のせいだ。コードシネマの影響で…」
 速水の顔から笑みが消え、一時理性を取り戻したような様子を見せた。
「そうだ…コードシネマのおかげだよ。みんなそれで映画とひとつになっていったんだ…映画の時間と…」
「映画の…時間?」
「そうだ…映画の中の時間は、現実と同じで本物なんだ。人間が意識している時間は、映画の中でも本の中でも全て本物なんだ。コードシネマのおかげでそれがわかった。そして、その間を移動出来るんだ…」
 そう言いながら、速水の声は恐怖に震え出していた。
「移動出来るが、自由に行き来は出来ないんだ!思いの深い方の時間へ流されていく!俺は映画を思い過ぎた!もうこっちの時間には戻れない!」
「!」
 一瞬、速水の姿が変わった。
 変わったというか、彼のいる空間だけ映像が乱れてノイズが紛れたかのような黒と白の細かい矩形の集合体になったのだ。
 それは、コードシネマの「コード」そのものだった。
 元に戻った速水は、再びサイ・カーニーの表情になり、叫んだ。
「ステラゲートの虹が見えた!」
「待て!速水!」
 もはや完全にサイ・カーニーとなった速水は、振り返ると屋上の端へ向かって走り出した。
 『ブルー・ヴォイジャー』の結末そのままに…
 僕も彼の後を追って走り出し、彼と共に屋上から飛び出す寸前、身を転がして止まった。
 雨と極彩色の光の中に飛んだ速水の姿は、完全に白と黒の「コード」と化し、爆発したようにあたりの空間に広がって…
 …消えた。

 結局、速水は他のコードシネマ愛好者たちと同様に、行方不明という扱いになった。
 やがてコードシネマそのものも社会から問題視され、コンテンツの配信もムビオラの販売も打ち切られた。
 マクラレン社は解体。パパサナシュー博士も消息不明となり、コードシネマにまつわる事実は闇に消えようとしていた。
 だが、僕は確かに見た。
 速水が映画と現実の境界を超えたようにどこかへ旅立って行ったのを。
 彼の言った通り、映画の中の時間が本物だったとしても、現実の時間とは完全に隔絶しているのだろうか。互いに影響を与え合うことはないのだろうか。
 そうは思えない。
 事実、速水が消えてから、僕の時間、僕の世界に明らかな違いがあらわれたからだ。

 数年後、『ブルー・ヴォイジャー』がリバイバル公開され、昔ながらの映画館で上映されることとなった。
 僕はその上映館の前で、飾られたポスターを見つめていた。
 本来、そこにサイ・カーニーの姿があるはずのポスターの一角…そこで不敵な表情を浮かべていたのは、紛れもなく速水だった。
 もし、上映された『ブルー・ヴォイジャー』を観たら、そこにいるのもカーニーではなく速水であるのに違いない…
だが、僕はそれを観ることはなかった。
 自分の世界に流れる時間が、おかしなことになっているという事実を突きつけられるのは確かに怖いが、それを気にしないで残りの人生を過ごすのも、そんなに難しいことではないに違いない。
 真の映画ファンだったら、自分の中の映画のイメージを狂わされたことに耐えられないかもしれない。
 だが、僕は大丈夫だ。

 多分僕は、映画をあまり愛していないのだと思う。



ハヤカワ文庫刊、日本SF作家クラブのアンソロジー短編集「2084年のSF」に触発され、2084年を舞台にした短編小説を書いてみました。
2084年のファスト映画の話です。
トップイメージは、画像生成人工知能「Midjourney」で作った画像をもとに他の素材とコラージュして作りました。

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