見出し画像

【短編ホラー小説】キシャガキ

 それはいつもの月曜日。
 いつもの憂鬱な気持ちで、私は新宿行きの通勤急行に乗り込んだ。本当は先頭の女性専用車両に乗りたいのだが、いつもギリギリで真ん中の車両に飛び込んでいる。
 午前7時6分のK王線通勤急行は、この郊外にあるN山駅からすでにすし詰め状態だ。人の動きに逆らわず、なんとか車内に体を押し込んで、私は反対側のドア近くに立った。
 ここから都内のオフィスに通い始めてもう4年。
 月曜日の朝は、その4年分の憂鬱がのしかかっているかのように肩が重い。ブラック企業とまではいかないが、中途半端なグレー企業でなんとか普通に生活できる給料のために働くのもそろそろどうかと思う。いい加減、身の振り方から考えた方がいいのかな…来年はもう31だし。
 窓からはうららかな春の陽光。
 どんより曇った自分の物思いとあまりにかけ離れた青空が辛い…
「ああ、働きたくないでござる…」
 声には出さず、唇だけでつぶやく。
 この通勤急行の進行方向右側のドアは、会社の最寄駅であるK山駅まで開かない。
 私はいつも、ドアに寄りかかりワイヤレスイヤホンで音楽を聴きながらその時間を耐えているのだが、寝落ちして乗り過ごさないよう、到着寸前の時間にアラームをセットしている。
 イヤホンは奮発してノイズキャンセリング性能の高い高価なモデルを買った。しかし、私の耳の穴にはいまひとつしっくり来ないのが誤算だった。
 ちょっとゆるくて、落ちそうなイヤホンを耳に押し込もうと、隣の人の体に押さえつけられた右手を引っ張り出す。その時、勢い余って右のイヤホンは耳から落ちてしまった。
「!」
 なんとか体をずらして、下を覗き込む。
 外は明るい陽光に満ちているのに、足元は暗闇だ。その中で、ぼんやりとイヤホンの白い筐体が光っている。
 私は少しずつひざを折って、しゃがみ込みながら手を伸ばした。
 その時…
 隣に立つ人の足の影から、小さな黒い手がにゅっと現れた。手は床に落ちたイヤホンをつかむと、さっと引っ込んで消えてしまった。
「!」
 思わず膝を伸ばして勢いよく立ち上がりながら、私は下をよく見ようと身をよじった。なんだ…?今のは…?
 乗客の子供?いや、子供にしてもあの手は細すぎる…それに黒すぎる…人間の手としては…
 とにかくイヤホンを取り戻さなければ。
 私はモゾモゾ動く自分を見る周りの白い目線を感じながら、もう一度ひざを折ってしゃがみ込んだ。
 暗い…
 満員電車の足元の空間は黒々とした影に包まれ、乗客の足は深い森に生えている大木みたいだ。その森の奥の一際濃い闇の中で…
 目が光った。
 間違いなく、自分を見つめ返している一対の光るまなこ…
 何あれ…?
 目の主は、人々の足の間を縫って、さらに深い闇の中へ消えていった。
 サイズは大きな猫くらい?何か生き物には違いないが、あんな動物は見たことがない。もしあれがイヤホンを奪った手の主だとしたら、猫ではない。猫にはあんなにしっかり指の生えている手はない。
 電車が揺れ人々の圧力がいっそう強まった。私は危うくしゃがんだまま閉じ込められそうになったが、なんとか再び立ち上がった。
 周りの人たちは、もう私に白い目を向けることはなかった。完全な無関心の表情で立ち尽くしている。こんなに大勢の人たちが、お互いに関わり合うことを拒絶してひしめき合っている…満員電車というのは本当に異常な空間だ。
 そんなことを思っていると…
 足元で、何かがすうっと私のむき出しのくるぶしに触れて通り過ぎていった。
 これほどはっきり、総毛立つという感覚を覚えたのは初めてだった。危うく悲鳴を挙げるところだ。
 何かが、見えない足元を這い回っている…
 間違いなく、さっきの「あれ」だ…
 やがて何かが足とドアの間を這い登ってくるのが感じられた。
 「あれ」が…
 私のお尻とドア脇の手すりをくぐり抜け…背中をよじ登って…
 ついに、細い指が肩をつかんだ。
 「あれ」の息遣いが聞こえる…
 私はじっとしてやり過ごそうと目をつぶってうつむいた。
 しばらくそうして何も起きないことを確かめ…
 そっと、目を開けてみた。
「!」
 真っ赤に裂けた口と、黄色く輝く目の主が「しゃあっ!」と吠えた。
 私は今度こそ悲鳴を挙げて、そいつを払い除けようともがいた。
 だがその黒い生き物は私の手をつかみ、もう片方の手でドア際にある非常用のドアコックを開いた。
 一瞬で私の体は、疾走する電車の外に飛び出していた。
 手すりにつかまってなんとかこらえるが、「あれ」が中空に舞いながらものすごい力で私を引っ張った。
「助けて!」
 奇妙なことに、ドアから飛び出しているのは私だけで、他の人々は車内から全く動かない。ドアが開いていることに気づいてもいない様子だ。
 そして、私は見た。
 他の乗客と同じように、無表情な顔でデッキに立ち尽くしている、私自身の姿を。
 どういうこと?!
 考える間も無く「あれ」がますます力を入れて私を引きずり落とそうとした。
 もうダメ…転落する…
 その時…
 私のスマホがアラーム音を鳴らし始めた。
 イヤホンの接続を断たれ、内蔵スピーカーからけたたましい音が鳴り響く。
 車内の人々の様子が変わった。アラーム音に顔をしかめ、その出どころを探して首をめぐらしている。
 同時に「あれ」の力が弱まった。
 見ると「あれ」は、黒い顔に苦々しい表情を浮かべて、私の手を放すとパッと電車の屋根の上へと飛び去っていった。
 一瞬後、私は乗った時と同じように、デッキに立ち尽くしていた。
 ドアはしっかり閉じられていて、開いた様子もない。あわててスマホを取り出し、アラームを止める。これが鳴らなかったら、どうなっていたことか…
 直後、通勤急行はK山駅に到着した。
 どっと降りて来る乗客たちに突き飛ばされるようにして、私はヨロヨロと降車しベンチの前でひざまづいた。
「おやおや、ひどい目にあったようだねえ」
 声をかけてきたのはベンチに腰掛けた、和服姿のおばあさんだった。
「何があったんだい?」
 私はとても信じてもらえないだろうと思いながら、一部始終を話した。
「そりゃ、汽車餓鬼だねえ」
「キシャガキ?」
「そう。この国に汽車や鉄道が出来たから生まれた小鬼さ」
「どうして…そんなものが…?」
「こんなたくさんの人間の物思いを乗せて、こんなに早く動くものが一日に何度も通れば、そんなものも生まれるのさ。心が曇って変な方を向くと、それが見えることもあるんだよ」
 私の心は変な方を向いていたのか…
 私はお婆さんに礼を言って、ヨロヨロと歩き出した。
 しかし、こんな経験は二度とゴメンだ。心の問題はさておき、また「あれ」…キシャガキが現れたらどうしたらよいのか…
 私は、おばあさんに尋ねようと振り向いた。
 が…
 ベンチには誰もいなかった。


「#2000字のホラー」参加作品ですが、本編2700字以上あります。
めやすという話だったんで、見逃してください…
🙇

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?