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60年安保闘争の「敗北」?(2023)

60年安保闘争の「敗北」?
Saven Satow
Jul. 25, 2023

「今度もまた、負け戦だったな。勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」。
黒澤明『七人の侍』

 柄谷行人は、『朝日新聞DIGITAL』2023年7月19日5時00分更新「私の謎 柄谷行人回想録)発見と出会い:下 駒場寮へ、後の大学者らと哲学語る」において、自身も参加した60年安保闘争をめぐって次のように述べている。

 ――東京大学は、教養学部が駒場にあり、学部によって3年生から本郷に移りますね。学生運動もそれぞれに拠点があった。
 「そうです。ブントは安保闘争で敗北し、7月に諸派に分解してしまった。東大駒場のグループは中立的立場をとったから、駒場の動向が各派にとって大事だった。坂野さんや河宮さんはブント再建のために動いていたのでしょう」

 その参加者が60年安保闘争の結果を「敗北」と呼ぶのは柄谷に限ったことではない。それは広く共有されている認識である。

 ただ、その受けとめ方には多様で、柄谷も次のように回想している。

 60年代には、二つの傾向が前面化したと思います。一つは、連合赤軍事件に集約されるような急進的な学生運動です。もう一つは、マルクス主義への批判。60年安保の後、全学連と共闘した清水幾太郎のような知識人がマルクス主義批判を始めた。西部さんもマルクス主義を退けるようになった。だけど、僕は、むしろマルクスを真剣に読むようになったのです。“マルクス主義”ではなく、“マルクス”を」

 これは運動に学生として参加した人物の見立てである。当時のプレーヤーは立ち位置や経歴、思惑などで複雑な認知行動をとっている。多面性の発掘は必要だが、細部に拘泥すると、全体像を見失う。新安保条約に対する反対運動は1959年、「安保改定阻止国民会議」に諸勢力が集い、国会審議が始まる前から、「安保改定阻止」を掲げた運動が本格化する。従来の条約と比べて不平等は幾分是正されているものの、軍事同盟化により日本がアメリカの戦争に巻き込まれたり、米兵犯罪の免責を与えたりする懸念がある。その闘争を積極的に進めていたのが全日本学生自治会総連合、すなわち全学連である。

 学生たちは日本が真の独立国になるために安保条約の廃棄を目標にして行動する。サンフランシスコ講和条約で日本は独立したはずなのに、安保条約によって依然としてアメリカ軍が駐留している。全学連はこの状態の解消を目的に安保に反対するが、その行動に対して共産党が暴力主義と非難、彼らも応酬している。議会政党は安保反対などお題目にすぎず、党勢拡大に利用しているだけとの不信感がある。

 1960年5月20日、衆議院で自民党が新安保条約の承認を強行採決する。条約承認は、予算と同様、衆議院の優越が憲法解釈上認められている。衆議院が議決していれば、参議院で採決されなかったとしても、30日後に自動的に成立する。6月19日のドワイト・アイゼンハワー米大統領の訪日に合わせるために、岸信介首相はこの強硬手段をとっている。この日をもって新安保条約の成立は事実上決まり、学生たちの目的は頓挫したことになる。

 ところが、反対運動はここから一層盛り上がる。この強行採決の様子を報道で知った市井の人々が抗議に加わる。戦後、新憲法の下、民主日本として出発したはずなのに、それに反している。おまけに、首相は元A級戦犯である。また戦前に逆戻りするのではないかという憤激が彼らを行動に駆り立てる。多くの人々は戦争の記憶を共有している。条約の自然成立を承知している丸山眞男のような進歩的知識人や社会党を始めとする議会勢力も改正阻止より、民主主義の擁護を主張するようになる。運動は市井の人々の共通認識を元に広がりを持ったものの、目的は民主主義を守ることへと変わる。

 安保闘争は条約破棄ではなく、事実上、民主主義を守る抵抗運動へと拡散していく。先駆けの学生にとってすでに「敗北」の時期だったが、運動は激化する。6月10日、アイゼンハワー大統領訪日の下準備のために来日したジェームズ・ハガティ大統領報道官の車が羽田空港付近でデモ隊に包囲、警察と米軍によって救出される。また、6月15日、全学連は国会構内になだれ込むなど警官隊と激しく衝突する。その際、東大生樺美智子が亡くなる。ハガティ事件とこの死亡事件により、6月16日、岸首相は自衛隊の治安出動を見送り、米大統領訪日辞退を決定、強行採決の意味が失われる。学生と警官の衝突はこの後も続き、国会周辺は深夜も騒然とした雰囲気に包まれる。

 新安保条約は6月19日午前0時、自然承認される。その4日後の23日、岸首相は辞職を発表する。7月19日に池田勇人内閣が成立、新首相は10年で所得を二倍にする「所得倍増計画」を打ち出す。10月12日、日比谷公会堂で開催された自社民三党党首立会演説会の最中に浅沼稲次郎社会党書記長が右翼の少年に刺殺される。池田総理は10月24日に州銀を解散、与野党は「安保解散」と呼ばれた総選挙戦に突入する。安保問題の影響が予想されたが、11月20日投開票では自民党が改選前から13議席増の296議席を獲得、圧勝する。ちなみに、社会党は23増の145議席、民社党は23減の17議席、共産党は2増の3議席を獲得している。

 民社党は、1959年12月に新条約への対応を始めとする路線対立から西尾末広ら右派の一部が離党、翌年1月に結成した政党である。同党は「段階的安保解消」や「駐留なき安保」といった対案路線をとったが、強行採決に対して社共に同調する。対案を示したいのであれば、政策実現するのは与党なのだから、それに加わればよい。自民党の非主流派よりも野党としての役割を果たす気がなく、事実上、与党のアシストをしている。民社党は反共政党で、時として自民党より右、野党第一党の社会党批判に熱心である。野党的振る舞いをすることもあるが、与党の補完勢力では有権者が離れるのも当然だろう。ただ、このような政党は、選挙制度が変更された今でも、違う名前で登場している。

 このような経過の安保闘争における「敗北」の意味は参加者各々によって異なる。柄谷の挙げた二つのケースは主に学生の受けとめである。「急進的な学生運動は60年代のカリスマと称される吉本隆明の『擬制の終焉』がよく物語っている。彼は社会党や共産党などの党派的な左翼運動並びに進歩的知識人の啓蒙主義を否定、真の前衛運動・市民運動の成長を期待している。真の独立のための安保破棄を目的とした闘争だったのに、議会政党や戦後民主主義者が問題をすり替え、「敗北」に終わったとかんがえた若者は少なくない。彼らはそうした勢力を批判する新左翼運動へと向かい、吉本の影響を受けた学生たちは丸山眞男を吊るし上げる。

 もっとも、「敗北」の認知は、当初から参加者の間で共有されていたわけではない。竹内好は『週刊読書人』7月11日号において「何よりも大事なこと は、人民の抵抗の精神が植えつけられたこと、そして予想よりその幅がひろく、根が深いらしいことで ある。私はこの一点だけで大勝利と判定する」と述べている。改定阻止はできなかったものの、これだけ幅広い艇庫運動を人々が自主的に行い、アイク来日延期や岸内閣退陣に追いこんだのだから、「勝利」と見なせる。竹内に限らず、丸山や鶴見俊輔など進歩的知識人は今回の抗議運動が権力に対する抑止効果となると肯定的に認識している。

 ただ、今後に期待した進歩的知識人も総選挙の結果に「敗北」を感じることになる。空前の盛り上がりを見せた抗議運動の直後だから、安保改正を強引に進めた自民党に有権者は鉄槌を下すに違いない。そう予想したのに、首相が岸から池田に代わり、所得倍増計画を発表したら、まるで違う党であるかのように、有権者は自民党に票を入れる。日本はまだまだ民主主義が成熟していないと運動の「敗北」を進歩的知識人も自覚する。

 柄谷の挙げるもう一つのケースの「マルクス主義への批判」は右派への転向である。中には、闘いを挑んでいた岸首相に近い右翼になった者もいる。その代表が清水幾太郎である。彼は安保闘争で反対運動のリーダーとして論陣を張ったが、「敗北」の後、マルクス主義的歴史観を批判、70年代から教育勅語賛成など復古主義的イデオロギーの論調を展開する。安保改定阻止が日本の将来を決するとの運動が民主主義の擁護に取り込まれてしまったことで「敗北」したという認識は、新左翼に走った若者を見ても、納得できる。しかし、進歩的知識人が否定してきた戦前の再検討を通じて見直すのではなく、戦後の拒絶として肯定するのは乱暴だろう。

 戦後を拒否して戦前を肯定すると、グロテスクな反近代思想に囚われることが少なくない。戦後民主主義はアメリカから与えられたものではない。それは大正デモクラシーの復活強化である。日本は東アジアにおいて最も長い民主主義の歴史を有している。西洋で生まれた近代を曲がりなりにも自らで吸収・消化して政治・経済・社会に基礎づけたのが大正デモクラシーである。近代日本における最初の思想的頂点だ。復古主義者が戦前を美化する際、大正デモクラシーが抜け落ち、それを非難したグロテスクな折衷主義を賛美する。そうした思想は断片の恣意的な構成にすぎず、反近代的な権威主義や神権政治で、清水幾太郎もそこに帰着している。

 運動参加者たちは「敗北」を口にするが、当時自民党の参議院議員だった宮澤喜一は別の見方をしている。彼は、1995年5月13日放映『NHKスペシャル「戦後50年・その時日本は」』の「第2回60年安保と岸信介〜秘められた改憲構想〜」の中で、改憲派にとって「安保騒動が一つの挫折点」と述べている。

 岸信介は条約改正を利用して改憲をもくろんでいる。日本の栄光を取り戻さなければならず、憲法もアメリカ占領下で制定されたのだから、変えなければならない。彼にとって真の目的は憲法改正で、60年安保はその手段にすぎない。しかし、宮澤は、この岸を始め追放解除から許された政治家と吉田茂を含め戦後を肯定して育ってきた政治家との間に「考えの差」があると言う。前者がいわゆる保守傍流、後者は保守本流である。吉田の流れを汲む池田勇人も佐藤栄作も首相在任中に改憲を政治課題に入れていない。改憲が頓挫したのだから、条約改正をしたとしても、岸は「敗北」している。従って、60年安保闘争において「勝利」したのは彼の考えに差がある保守本流である。

 保守本流は、全般的に言って、保守主義ではなく、自由主義である。それは近代の理念に基づいて社会構築を行おうとする。戦後の価値観はこの近代の理念を踏まえており、保守本流の統治はそれと合致する。

 学生が安保闘争で目指したのは戦後のやり直しである。1951年の独立はまやかしであり、在日米軍がいる以上、依然として占領が続いている。しかし、戦後再出発は強行採決で潰される。

 だが、この岸首相の手法に市井の人々は戦後の否定と戦前の復古を見出す。彼らは戦後を肯定する。確かに、問題点はある。だからと言って、戦後を否定したり、やり直したりすることは望まない。肯定した上で、やりくりを通じて手直ししていけばよい。それは進歩的知識人が望むあるべき姿を想定して一足飛びに実現することでもない。

 15年戦争の際、国民が戦果に熱狂したことは事実である。だが、その支持の態度は自らに戦禍をもたらしている。戦前の復古は自分たちの愚かな経験の再現であり、その繰り返しは何としても避けたい。

 池田首相が所得倍増計画を提示した時、世論は戦後の皇帝をそこに見出している。戦前はすべてを国防に翻訳して政策にする国家主義である。安全保障が最優先で、経済もそれに奉仕しなければならない。岸政権の姿勢も国民生活よりも安保改定や改憲を重要視する点で戦前と大差がない。一方、池田内閣は真っ先に国民所得の倍増を政権の目標に掲げる。これは戦前と違う。明らかに戦後である。

 分断された世論は経済優先政策の元でまとまりを見せる。岸から池田への首相交代は疑似的な政権交代で、世論は初の保守本流総裁の自民党に票を入れる。進歩的知識人も経済より政治を優先する点で戦後的ではない。そんな彼らは有権者の認知行動を理解できない。戦後を肯定することで世論は一貫している。

 60年安保問題は戦後の肯定・否定をめぐる闘争で、真に「勝利したのは市井の人々である。「敗北」は彼らに寄り添えなかった時に抱かれるものだ。その意味で、清水幾太郎は「敗北」から「真の敗北」へとポジションをコンバートしたと言える。世論に背を向ける姿勢では徹底している。

 しかし、闘争はこれで終わったわけではない。戦後の否定と戦前の復古の政治的野望は事あるごとに息を吹き返してくる。しかも、迷える経済政策が続き、21世紀を迎えると、戦前を経験していない政治家がそれを声高に叫んでいる。彼らは権威主義者で、グロテスクな復古主義はその正当化である。戦後を否定したい彼らは改憲を唱え、SDGsも二の次で高度経済成長の夢よもう一度の経済政策はそのための手段でしかない。戦後は、日本国憲法の下、自由民主主義に基づいたより良い社会の構築を目標にし、恣意と服従の支配する非自由主義を拒絶する。戦後の「勝利」を終わらせてはならない。
〈了〉
参照文献
竹内好、『竹内好全集』9、筑摩書房、1981年
吉本隆明、『憂国の文学者たちに 60年安保・全共闘論集』、講談社文芸文庫、2021年
「(私の謎 柄谷行人回想録)発見と出会い:下 駒場寮へ、後の大学者らと哲学語る」、『朝日新聞DIGITAL』、2023年7月19日 5時00分更新
https://www.asahi.com/articles/DA3S15692680.html
『NHKスペシャル「戦後50年・その時日本は」 第2回60年安保と岸信介〜秘められた改憲構想〜』、NHK総合テレビ、1995年5月13日放映

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