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リスボン大震災(2011)

リスボン大震災
Saven Satow
May, 15, 2011

「おっしゃる通り。でも、私らは畑を耕さなけりゃなりませんでね(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin)」。
ヴォルテール『カンディード』

 1755年11月1日午前9時40分頃、ポルトガル南西部が激しい地面の揺れに見舞われる。推定モーメント・マグニチュードは8.5で、揺れは10分以上続いたとも伝えられている。その後、10時と12時に大きな余震が起きているが、複数の地震が相次いで発生したという説もある。ポルトガルの他、スペインやイタリア、フランス、モロッコなどでもかなりの揺れが感じられている。

 中でも、27万人が住む大都市リスボンの被害は甚大である。一回目の揺れで全建築物の約85%が倒壊、2万人前後が即死したと推定されている。加えて、二回目の揺れで残った建物の多くが崩れ、火災も発生する。生き残った人々は海沿いに避難を始める。南欧において、地震は決して珍しくはない。しかし、その時はこの避難がさらなる悲劇をもたらしてしまう。大西洋から巨大な津波がリスボンを襲ったからである。

 高さ6~15mの津波が圧倒的なスピードとパワーで市街地を飲みこみ、テージョ川を遡上して内陸部まで洗い流す。それが何度となく繰り返される。津波の犠牲者は1万人に達したと推定されている。 さらに、モロッコを始めとする北アフリカ沿岸にも高さ最大20mの津波が襲来、イングランド南部やアイルランドの沿岸にも3mの津波が到達して、被害をもたらしている。西インド諸島にまでこのときの津波が達していたという記録がある。

 火災は約一週間続き、リスボンは灰燼に帰す。首都のみならず、ポルトガルの南半分は地震と津波で壊滅的な打撃を受ける。地震・津波・火事による死者の総数は、5万5000人ないし6万2000人と推定されている。

 これらの数字は確定値ではない。1755年の大震災は、今日でも非常に熱心に研究されているため、各種のデータは今後書き換えられる可能性がある。

 地震・津波・火事の三重苦にあえぐポルトガルの状況は現在にも通じるものがある。救助や消火活動、医療活動、被災民の居住、埋葬の問題、瓦礫の撤去、治安、災害に強い都市計画、産業戦略、教育の奨励など次から次へと巻き起こる課題に政府は積極的にとり組んでいる。宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・ポンバルが強いリーダーシップで、これを指揮している。ただ、現在、GDPの3割を超す被害総額の場合、自力では復興は困難とされているが、ポルトガルはそのデッド・ラインをオーバーしていたと見られる。貿易立国なのに、港湾が破壊されたのが大きい。このかつての植民地大国はイギリスが先進する18世紀末からの産業革命に遅れることになる。

 なお、当時のポルトガルと違い、現在の日本は貿易依存度が低く、「貿易立国」ではない。海外投資や金利の所得収入が貿易を上回っており、「投資立国」の方が正確である。

 この震災はヨーロッパの人々に衝撃を与える。なぜ神は敬虔なカトリックの国であるポルトガルにこのような仕打ちをするのかと教会へ疑問を投げかける。11月1日はカトリックの祭日「万聖節」にあたり、教会での祈りの最中に地震が起きたため、その倒壊によって数千人が犠牲になってもいる。 神は慈悲深いという弁神論にとって、これは説明が十分にはつかない事態である。

 この問いは決して古びていない。2011年4月22日、千葉県在住で被災した7歳の松木エレナさんがローマ法王にビデオを通じてこう質問をする。「私たちはなぜ、こんなに悲しく怖い思いをしなければならないのでしょうか」。ベネディクト16世は答えている。「私も同じように 『なぜ』 と自問しています。答えは見つかりませんが、神はあなたと共にあります。この痛みは無意味ではありません。私たちは苦しんでいる日本の子どもたちと共にあります。共に祈りましょう」。

 「津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う」(石原慎太郎)。

 当時は啓蒙主義の時代である。1748年にシャルル・ド・モンテスキューの『法の精神』が公表され、51年から百科全書の刊行が始まり、55年にはジャン=ジャック・ルソーが『人間不平等起源論』を発表している。大震災から21年後の1776年7月4日、アメリカが独立を宣言、34年後の89年7月14日、パリの市民がバスティーユ牢獄を襲撃している。

 たんに教会の主張に従うのではなく、人々は本を読み、議論をして、政治・経済・社会の改革・改良を求めて積極的に提言している。それは手紙によって欧州をまたいで送信・転送されている。この中心のないメール・ネットワークにはフランス語の読み書きさえできれば誰でも参加でき、王侯貴族から行政官、法曹関係者、学者、作家、芸術家、貴婦人、商人、職人に至るまで加わり、「文芸共和国」と呼ばれている。その最大のスターがヴォルテールであり、彼は生涯に4万通の手紙を書き送ったとされている。18世紀は、別名「ヴォルテールの時代」である。

 リスボン大震災の情報は瞬く間にヨーロッパ全土に伝わる。それを踏まえて、思想家たちは考えを進めている。ヴォルテールとルソーの間でさっそく論争が起きる。ヴォルテールが56年3月に『リスボンの大震災に関する詩篇、または「すべては善である」という公理の検討』を刊行し、ライプニッツ派に代表されるすべては神の予定調和にあるという楽観論を糾弾する。こういう楽天さはこの震災に苦しんでいるのをバカにしている。これにルソーがかみつく。彼は、同年8月18日に公開書簡『ヴォルテール氏への手紙』で批判する。そんなに非難ばかりしていたら、滅入ってしまう。自分たちの不幸と宇宙の構成原理は違うのだから、それを一緒くたにすべきではない。確かに、「すべては善である」はおかしいけども、「全体は善である」に変更する方が適切だ。

 ヴォルテールは民衆からの目線、すなわちミクロ的視点で意見を述べている。一方、ルソーの認識はマクロ的で、政治的である。それは、前者が無実にもかかわらず、宗教的不寛容によって処刑されたジャン・カラスの名誉回復運動を展開し、後者が理想の政体を論じた『社会契約論』を公表することになるその後を暗示している。

 リスボンから遠く離れたケニヒスベルクに住む若きイマヌエル・カントも大震災に衝撃を受け、地震のメカニズムに関する研究を始めている。彼は、56年、『地震原因論』・『地震におけるきわめて注目すべき出来事について』・『続地震論』と地震をめぐる論文を3本も書き上げている。先の二人と違い、カントは地震に対してメタ的、すなわち科学的認識で臨んでいる。これも後の批判哲学者の姿を考えると、興味深い。

 もちろん、言及した作品のみならず、彼らはその後にも震災を踏まえた執筆活動を続けているし、この三人以外にもさまざまな意見を述べている人は少なくない。今日の言説が当時のヴァリエーションにすぎないことを痛感させられるほどだ。

 従来、日本の研究者の手による18世紀ヨーロッパの思想史についての入門書・専門書において、リスボン大震災の記述は非常に限定的である。正直言って、この出来事からの影響があまり重視されていない。しかし、地震・津波・原発事故に苦しめられている今の日本の状況を考えると、当時のヨーロッパの知識人が11・1からどれだけショックを受けたか想像がつくだろう。情報と体験はかくも違う。

 1759年、ヴォルテールはリスボン大震災を織りこんだ散文作品『カンディード』を著わす。天真爛漫な主人公カンディードは破天荒で悲惨な体験をしつつ、ヨーロッパのみならず、アフリカや南アメリカまでさまよう。ありとあらゆる恐怖に遭遇した後、彼はトルコで小さな畑のある家を手に入れ、野良仕事に精を出す、ちっぽけだけれど、働けば、実りがもたらされる。そこにはささやかながらも未来がある。これが18世紀最高の知識人がリスボン大震災後の社会に寄せた物語である。
〈了〉 
参照文献
井上尭裕、『ルソーとヴォルテール』、世界書院、1995年
ヴォルテール、『カンディード 他五篇』、植田祐次訳。岩波文庫、2005年
A・J・エイヤー、『ヴォルテール』、中川信他訳。法政大学出版局、1991年
『カント全集』1、岩波書店、2000年
『ルソー全集』5、白水社、1979年
『週刊現代』2011年4月30日号 
防災情報新聞無料版
http://www.bosaijoho.jp/
理科年表
http://www.rikanenpyo.jp/index.html


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