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谷崎潤一郎、、あるいはアンチエロティシズムの文学(2)(2022)

2 近代とマゾヒズム
 マゾヒズムは政治理論の伝統を総体的に転倒する思想である。それは近代のみならず、前近代にまで及ぶ。

 前近代において政治の目的は、洋の東西を問わず、その共同体で共有されている規範に基づく徳の実践である。望ましからざる現実の状態がそれを通じて理想へ到達する。個々人はその存在に先行する共同体に属し、規範を守る義務の対価として権利が付与される。個人の幸福は規範の求めるよい生き方をすることである。

 しかし、16世紀の欧州で始まった宗教改革を機にこの常識が覆される。宗教戦争が勃発、自分たちの道徳の正しさに基づき、人々は殺し合いを繰り広げてしまう。そこで、17世紀の英国のトマス・ホッブズが政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、よい生き方の実践もおぼつかない。その際、彼は政教分離を提唱する。政治を公的、信仰を私的領域にそれぞれ属するとし、相互に干渉してはならない。価値観の選択が個人に委ねられたことになり、これにより共同体主義に代わり個人主義の近代が理論的に用意される。

 ジョン・ロックはホッブズの社会契約説を踏まえて、自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成すると説く。生命や財産の保護などその社会がよりよくあるために、人々は政府に統治を信託する。もし政府が社会でなく、自己目的のた、えに働いたなら、人々はそれを変えることができる。

 こうした自由で平等、自立した個人はお互いに主体として扱わなければならないとイマヌエル・カントは論じる。客体、すなわちモノや道具と見なしてはならず、奴隷にするなどもってのほかである。

 かつては共有されている規範に従って生きることが幸福であり、社会の目的もそれに拠っている。しかし、価値観が個人に委ねられたため、社会には新たな目的が必要になる。ジェレミー・ベンサムはそれを「最大多数の最大幸福」と要約する。確かに、価値観が多様化し、その内容は異なるだろう。けれども、いずれであっても、主体として幸福を求め、不幸を避けることでは共通している。だから、全体として幸福を増大、不幸を減少させるのが社会の目的となる。

 マゾヒズムはこうした近代の発想をすべからく批判する。マゾヒストは自由で平等、自立した個人であることを望まない。自らを主体ではなく、客体の極致である奴隷として扱われることを欲する。彼らは近代人が主体として認知行動することに幸福を見出さない。主人からくわえられる苦痛に快楽を覚える。この禁欲主義者にとって苦痛の増大が幸福であり、その減少は不幸である。マゾヒズム的価値観は客体としてのそれである以上、「最大多数の最大幸福」の原理に適合しない。また、奴隷として主人に服従して生きるのだから、権利の保障が不要で、政府も必要としない。

 ジークムント・フロイトは、『マゾヒズムの経済論的問題』において、マゾヒズムの問題を理解することの困難さを次のように明かしている。

 人間の欲動生活においてマゾヒズム的な傾向が存在することは、経済論的には謎に満ちたものと言える。快感原則が不快の回避と快の獲得を第一の目標としながら心時なプロセスを支配していると考えると、マゾヒズムはそもそも不可解な営みなのである。苦痛と不快がもはや警告ではなく、みずから目標となりうるならば、快感原則は麻痺し、われわれの精神生活の番人も、麻酔にかけられてしまうことになるからである。
 マゾヒズムの対立物であるサディズムとは異なり、マゾヒズムは精神分析の理論にとって大きな驚異となるものである。われわれは快感原則を、人間の心的な生だけでなく、人間の生命全体の番人と呼びたいと考える。すると、すでに区別した二つの種類の欲動、すなわち死の欲動とエロス的な(リビドー的な)生の欲動と、この快感原則の関係を検討する必要が生じてくる。そしてこの問題を解決するまでは、マゾヒズムの問題の検討をさらに進めることはできないのである。

 マゾヒズムは、その意味で、「アンチエロティシズム」である。このほかにも、フロイトは、『子供が叩かれる』や『性に関する三つの論文』といった作品の中で、マゾヒズムを論じている。そこでも、マゾヒズムは理解することが非常に難しいと吐露する。

 フロイトを踏まえ、「エロティシズム」について詳細に考察したのがジョルジュ・バタイユである。彼の『エロティシズム』によれば、エロティシズムという「欲望の暴力」は、人間社会が存続するための条件である「労働の世界」と対立しているので、隠蔽される。「最も遠い時代から、労働は一種の緩和作用を引き入れ、そのおかげで、人間は欲望の暴力が命ずる直接的衝動に応ずることをやめたのである。(略)それ故、一部分を労働に捧げている人間集団は禁止において決定的なものとなった。禁止かなければ人間集団は、その本領である労働の世界にはならなかっただろう」。生の本質は「理性」や「意識」、「労働」の「外に」ある「過剰」な「生の浪費性」である。エロティシズムは「性の衝動」とは異なり、タブーを「乗り越え」て、その本質に触れることを目的とし、究極的には、「死の不安の乗り越え」こそがその本質である。「聖」なる世界がタブーを持つのは「労働の世界」の秩序を乱すからだ。死は「不安」の源泉であるが、エロティシズムでは、「連続性」を暗示する「聖なる領域」に置かれている。「死の不安は人類の本質をなすものと思える。死の不安だけではなく、乗り越えられた死の不安、死の不安の乗り越えがそうなのだ。生はその本質において過剰であり、それが生の浪費性である。生は限りなくその力と知力を吸い尽くす。そして限りなく、それが創造したものを消滅させる。大多数の生者はこの作用には消極的である。極限においてはしかしながら、われわれは生を危険にさらすことを断固として望んでいるのだ」。それゆえ、「誰一人性行為の醜さを疑わないものはいない。犠牲の中の死と同様に性交の醜さは死の不安を呼ぶ。しかし、その死の不安が一そう大きくなれば(略)制限を乗り越える意識は一そう強く、それが熱狂的な喜びを決定的なものにする」。性交の「問題はこの顔の、その美の神聖をけがすことである」。「男にとって女の醜さよりもいき粗相させるものはない。それによって器官の醜さも、性行為の醜さも際立たなくなるからである」。秘匿され、禁止されたものは聖なるものであり、そうした「肉体」を恥ずかしめ、犯すことによって、エロティックな幻想を高める。プチ・ローベルは、エロティシズムが「性的な事柄に関する内面的・病理的趣味」であり、ポルノグラフィーは「公表を目的とした猥褻表現」であると定義している。これはまさにバタイユの思想の要約だろう。

 バタイユは、『エロティシズム』において、人間が「連続性への郷愁をもっている」と次のように述べている。

 私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中に孤独に死んで行く個体であるが、しかし失われた連続性への郷愁をもっているのだ。私たちは、偶然の個体性、死ぬべき個体性に釘づけされているという、私たち人間の置かれている立場に耐えられないのである。この死ぬべき個体の持続に不安にみちた望みを抱くと同時に、私たちは、私たちすべてをふたたび存在に結びつける。最初の連続性への強迫観念をも有している。

 バタイユの「連続性」の概念はカール・グスタフ・ユングの「集合的無意識」に隣接している。それは個人を超え、共時的・通時的に共同体で暗黙の裡に共有されている。バタイユは、さらに、マルセル・モースやレヴィ=ストロースの理論に批判をまじえつつ、言及している。エロティシズムは唯一神教によって抑圧された多神教の回復というわけだ。しかし、それは失われた規範の回復で、前近代を援用した近代批判という単純な転倒である。

Shiny, shiny, shiny boots of leather
Whiplash girlchild in the dark
Comes in bells, your servant, don't forsake him
Strike, dear mistress, and cure his heart

Downy sins of streetlight fancies
Chase the costumes she shall wear
Ermine furs adorn the imperious
Severin, Severin awaits you there

I am tired, I am weary
I could sleep for a thousand years
A thousand dreams that would awake me
Different colors made of tears

Kiss the boot of shiny, shiny leather
Shiny leather in the dark
Tongue of thongs, the belt that does await you
Strike, dear mistress, and cure his heart

Severin, Severin, speak so slightly
Severin, down on your bended knee
Taste the whip, in love not given lightly
Taste the whip, now plead for me

I am tired, I am weary
I could sleep for a thousand years
A thousand dreams that would awake me
Different colors made of tears

Shiny, shiny, shiny boots of leather
Whiplash girlchild in the dark
Severin, your servant comes in bells, please don't forsake him
Strike, dear mistress, and cure his heart
(The Velvet Underground & Nico "Venus in Furs")

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