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戦後70年の反戦文学に向けて(4)(2015)

第4章 戦争と抒情詩
 詩はその世界に対する視点の位地から叙事詩と抒情詩に大別できる。叙事詩は出来事を鳥瞰する認識が求められるため、視点は世界の境界ないし外部に置かれる。他方、抒情詩は主観的な情感から出来事を認知するのだから、世界の内部よりの視点によって構成される。戦争は長期に亘って続き、規模が大きい出来事である。世界内部の主観からだけでは全体像を把握できない。戦争を表現する際に抒情詩ではなく、叙事詩が採用される。ホメロスの『イリアス』が好例である。

 日本文学は叙事詩の伝統が乏しい。和歌は和語を用いる抒情詩である。雅な平安貴族にとって和歌は社交に必須である。戦記文学は散文によってほぼ占められている。前近代の最高峰は『平家物語』である。そこで描かれる武家は和歌を交歓する公家と異なる。諸行無常を受動的に受け入れるのではなく、能動的に意義を見出す。座して死を待つよりも打って出るというわけだ。

 ただ、男性の間で愛好されてきた漢詩には叙事詩が含まれている。一般的な日本文学史で言及されることは少ないが、日本には漢詩の伝統がある。漢詩は漢語を使えるので、扱える範囲が広い。政など公の領域も詩にできる。幕末維新期に政治家や軍人を中心に激動をナポレオン・ボナパルトなど織りこんだ漢詩で表現することが好まれている。

 しかし、叙事詩は近代において戦記文学の役割を担っていない。近代文学の中心は小説であり、散文がそれを果たしている。逆に、戦争をめぐる表現として抒情詩が発達する。近代における戦争は国民の戦争である。美化されるべき英雄譚ではない。戦場や銃後の国民一人一人が戦争に巻きこまれる。全体像もさることながら、ある主観にとっての戦争認知を無視できない。

 国民の戦争であるから、抒情詩が必要とされる。『君死にたまふことなかれ』は抒情詩に分類される。そこで描かれているのはある主観から認知された戦争である。「私」にとっての「公」とは何かという近代人における公私の区別の基礎的問いが具現される。この詩には音数の点で定型が認められる。定型詩は繰り返しを含むので、日常性の持つ反復を具現しやすい。東日本大震災の後、短歌や俳句の定型詩が盛んに創作・発表されたのも、題材を考慮すると、日常性回復への希求が理由である。

 抒情詩は作者にとって日常性回復の自己治癒の機能をしばしば果たしている。戦争体験はPTSDを始め精神に深刻なダメージを与える。抒情詩はそうした状態からの回復の助けになる。ベトナム帰還兵の詩人W・D・エアハートがこのような抒情詩を捜索している。

 ホッブズは平和の実現のために行使を分離している。戦争が起きれば、公が肥大し、私を圧迫する。だから、本来、近代の個人主義は戦争と相容れん愛。公は私に干渉しない原則は国民意識によって浸食される。それはアイデンティティの一つとして内面を形成している。総力戦は国民意識を利用した公の私支配を推し進める。

 当局が滅私奉公などイデオロギー統制を行う。素朴な人間心情の吐露は私的な身勝手さであり、自ら率先してお国の大義の実現に奉仕し、犠牲となることも厭わないのが国民のあるべき姿である。戦場で散った兵士はお国にとって地の塩である。銃後の家族はその死を嘆くのではなく、英霊と誇りにと感じなければならない。一般的な心情の訴えと特定の状況に対する糾弾は分離される。

 こうした公に蝕まれた私を回復させるために、抒情詩が効果を発揮する。公がいかなる手口を用いても触れることのできない私を確認する。講師の関係を吟味するためにも抒情詩は近代において不可欠である。


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