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日本農業のために(2013)

日本農業のために
Saven Satow
May, 22, 2013

「農は国の本」。

 安倍晋三首相は、2013年5月、将来、農家の所得や農産品の輸出を倍増させる方針を発表している。けれども、これは選挙目当てでしかなく、彼が実情を知っているとは到底思えない。従事者の平均年齢を始め日本農業の疲弊を知っていれば、こんなことまともじゃないと口にするのさえはばかれる。

 この政権は何かと政府主導の計画をぶち上げる。しかし、国家統制で産業がうまくいくなら、世界は社会主義化している。体質がどこまでも古臭い。

 今回の目標の発想は従来と同じである。日本農業の課題は規模が小さいことである。中小零細は大規模への農業の進化の途上にすぎない。規模の経済性を働かせるために、農地取得を容易にする必要がある。そうすれば、民間企業が農業に参入して活性化し、この産業も国際競争力を持つはずだ。

 大規模化が農業復活のカギとされ、これまでも進められてきたが、成果が出ていない。それどころか、政府の主張した通りに規模の拡大を採用した農家も補助金漬けから脱却できていない。今回の方針をから明らかなのは、政府が規模拡大の不十分さをその理由と考えていることである。

 しかし、一向に農業が復活できないのは大規模指向の発想に問題があるからだ。規模の経済性を追求する限り、日本農業の弱体化は止まらない。規模拡大を勧めれば、アメリカやオーストラリアと同じ階級で勝負しなければならないが、日本農業にそれは不向きである。規模の進化論を捨てるべきだ。中小零細はそれ自体に存在意義があり、大規模化への目的論的要素ではない、

 そもそも首相も選挙目当ての絵空事を言う前に、減反をやめると約束すべきだろう。その空想と生産調整は整合性がない。

 現時点で他産業と同等の収入のある農家は必ずしも規模に依存していない。日本農業で自立した生計を営んでいるのは集約型である。畜産や果樹、施設園芸などの狭い土地でも手間暇をかければ生産性が向上できる。その代わり、休む暇もない。このタイプは高度経済成長以降も伸びている。

 けれども、農家の大半が稲作に従事している。これにはまとまった土地が必要である。土地利用型が弱いことは確かで、その強化として規模拡大を政府が主張している。とは言うものの、日本は山間地が多く、水田も平地にだけあるわけではない。規模拡大にも限界がある。しかも、山間と平野の田は水の使用で関連している。効率が悪いからと言って、山間の水田を放棄した場合、水が平地の田に届かなくなる恐れもある。

 加えて、地方には農業への民間企業の参入に抵抗感がある。優遇措置を用意して工場を誘致しても、状況の変化を理由に地元の事情を無視して撤退されたことを地方は忘れていない。農業でも同じ事態が起きるのではないかという不安がある。

 また、農業をめぐる認識も時代によって変わっていく。現代の農業は食料供給のみならず、スローライフを始め伝統文化の継承や生物多様性を含めた環境問題への貢献も期待されている。地元の事情もよく知らない企業が収益を目的に参入しても、これからも続く農業をめぐる時代の変化に対応できるのか疑問だ。

 さらに、輸出増加は、生産コストを考慮するなら、付加価値の大きい高級品を選好するように政府が農家や起業求めることを意味する。しかし、高級品だけを生産すれば、多様性が失われるため、農業は衰退する。産業政策でしばしば陥る失敗はこうした選択と集中である。米国の自動車産業の凋落の一因として収益の大きい大型車に偏生産を重視たことが知られている。環境変化の際に逃げ道がなくなることが理由の一つだ。薄利多売を軽視して産業発展はない。

 実際、小規模・家族農業をめぐる認識も国際的に変わろうとしている。2011年の国連総会で2014年を「国際農家年」とすることを決定している。国連は家族農業を「労働力の過半を家族労働力でまかなう農林漁業」と定義する。国連食糧農業機関(FAO)によると、家族農業は世界の農業経営の9割を占め、世界の食料供給の8割を生産している。経営規模でみると、1ha未満の経営体が73%、2ha未満の経営体が85%を占めている。

  従来、小規模・家族農業の役割は過小評価されている。非効率的で、非経済的な前近代の遺物と見なし、政府は近代的企業農業を政策的に支援すべきとの立場をとってきている。
確かに、家族農業は労働生産性に関して企業農業より劣る。しかし、土地生産性は大規模経営よりも小規模経営で高いことが知られている。また、近年、エネルギー効率性も前者が後者より優れていると注目されている。化石燃料等の農場外部の資源への依存度が小規模・家族農業は低い。これは環境対策にもつながる隠れた効率性である。

 政府の姿勢を見ていると、あれだけ失政を繰り返したことを棚に上げ、農家が受け身一辺倒であるかのように思える。けれども、全国各地に農業持続のためのさまざまな工夫や知恵がある。岩手県北上市のある地区の実例を紹介しよう。

 稲作だけを専門に行う専業農家が一軒ある。他の農家は所有する水田の全部もしくは一部をそこに依頼する。すべてを頼まないのは、楽しみで稲作をしたい人もいるからだ。その専業農家は農作業のノウハウを持っているだけでなく、地元の事情も知っているので、他としても委託しやすい。水田面積は合わせて25ヘクタールほどで、現時点での限界効用に相当する。収穫量から一定比を受け取り、十分に規模を確保できるから、そこも米作のみで生計が立てられる。他の農家は野菜や果物、園芸植物などを中心に育てている。地域コミュニティが一体となって農業の担い手となる専業を支えている。兼業や趣味で農業をする人たちがその周囲で草の根を守る。各農家共に米を含め農産物を都会に住む子や孫、親戚に送ることを喜びにしている。

 ここに日本農業の生きる道がある。コラボレーションだ。地域コミュニティと生産者、消費者が農業を通じて価値を協創する。現代の産業では生産者と消費者のコラボレーションが重視されている。日本農業が取り入れるべきは地域コミュニティ=生産者=消費者のコラボレーションであって、工業化路線ではない。

 挙げたのはほんの一例である。他のアイデアも全国各地で実施されているに違いない。

 できれば、地域コミュニティが主体となって農業の担い手である専業もしくはNPOを支える仕組みを用意する。規模は地元の事情によって異なるが、30ヘクタール以下で十分だろう。条件がよければ、10ヘクタール台でもいける。政府からの資金はそうした試みに投入する。民間企業は、農業経営にタッチせず、農産品の加工や生産者と消費者のマッチングに寄与すればよい。消費者自身が生産に関わっていると実感できれば、そこに物語を見る。

 新規に農業を始めたい人はいるだろう。その受け皿も必要である。横浜市では農家が農地を市民に開放している。サンデー・ファーマーは小作料を支払い、指導を受けつつ作物を育てている。自分で育てた農産品は誰が何と言うおうとおいしいと感じる。専業や兼業のみならず、趣味で農業をしたい声にも応えることが大切だ。草の根の拡大があって農業は発展する。

 生産にはコストが不可欠である。消費者は生産物をできるだけ安く手に入れたい。消費者に対価の支払いを求めてもなかなか応じてくれない。それは自分たちが生産に加わらず、受け取るだけだからだ。しかし、生産にコラボレーションするならば、消費者も自らの意識を見直さざるを得ない。もはや消費者のニーズに一方的に応えることが生産ではない。

 求められているのは農産品自身ではない。それが持つ物語である。地域コミュニティと生産者、消費者が農業を通じて価値を協創し物語を共に紡ぎ出す。農産品は、その時、かけがえのないものである。物語のない商品など消費者は選ばない。政府の農業政策にはこうした認識が欠けている。

 かつて田植えは一家総出の仕事だ。女の子どもが苗代を畔まで運び、男の子どもがそれを田の中にいる大人に投げる。男の大人が苗を受け取り、手渡された女なの大人がそれを植える。祖父さんときたら、始まったばかりなのに、一休みと称してヤカンから一杯やって真っ赤になっている。木陰を見ると、エジコで赤ん坊がすやすや眠っている。子どもも大人も一緒になって稼ぐ。隣の家も同じだ。

 こんな光景はもはや見られない。しかし、この政権が愚策で邪魔をしなければ、新たなシーンの現われる可能性がある。
〈了〉
参照文献
「国際家族農業年(IYFF2014)について」、『国際連合食糧農業機関』
http://www.fao.or.jp/publish/392.html
「家族農業の10年とは」、『FFPJ』、2019年
https://www.ffpj.org/decade-of-family-farming

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